辻褄合わせ
虹の観賞どころではなくなった、キルシェ。
自立できなくて頼ることしかできないから、リュディガーから逃れることができずにいる。あまりにも近い彼の存在に、こういうときに限って異性という認識を強く抱いてしまったから、どうしたものかと内心頭を抱えていると、扉がノックされた。
キルシェは身体を弾ませて、扉を見やる。
リュディガーがキルシェに代わって誰何すれば、ラエティティエル。彼にすすめられるまま近くの椅子へと誘導されて、キルシェ腰を下ろした。
そして、リュディガーは扉を開けに行くのだが、扉の鍵に手を伸ばしたところで一瞬動きを止め、その手をノブへと移して扉を開ける。
「__まさか、鍵を閉めていなかったとは。不用心ですよ、従者のリュディガー」
茶器を手に半眼で呆れた目を向けるラエティティエルに、開けた扉の横に佇むリュディガーは無言で渋い顔をした。
しかし、直後、入室するラエティティエルの後に続く人物に、僅かに目を見開く。
明るい茶色の髪と琥珀色の瞳を持つ素朴な印象な彼女は、キルシェより上__リュディガーとそう変わらない歳のように見受けられる。
「__イーリスです」
部屋に入り、キルシェを見つけると彼女は持っていた鞄を足元へ置き、名乗って一礼をする。
「事情は、伺っております」
「下女ということらしいです」
ラエティティエルの言葉に、胸元に手を当てて目を閉じ、天を僅かに仰ぐ。
彼女の身なりは、使用人のそれではなく、質素な庶民の私服と言ったほうがよい。
「神の下僕ですので」
扉を閉めて施錠していたリュディガーは何者かわかったらしく、なるほど、と頷いた。
「__司祭であらっしゃる」
「左様でございます」
ふわり、と笑うイーリスに戸惑っていると、リュディガーがキルシェへと歩み寄る。
「先程、話していただろう。治癒魔法を施してくださる方だ」
「ああ、そういうことですか」
「この度は、災難でしたね」
イーリスはキルシェに静かに微笑みかける。
その間にラエティティエルはお茶を3人分淹れ、1客をソファーのテーブルへ置く。
「さっそく__と申し上げたいのですが、元帥閣下から、お達しがございまして、完全には治癒を致しません。お怪我は、生活に支障がないところまでの治癒とさせていただきます」
「何故ですか」
残り2客をキルシェの前と、同じテーブルを囲う空いた席へ配していたところで、ラエティティエルは手を止めた。
「まあ、落ち着け、ラエティティエル。__聞こう」
やや気色ばんだラエティティエルに、リュディガーが諌めるように手をかざす。そして、苦笑するイーリスに、キルシェと同じテーブルへつくよう促した。
ありがとうございます、と礼を述べるイーリスはしかし近づきこそすれ、着席はせずにキルシェの数歩手前で膝をつく。
「足元を滑らせ石階段を転げた__そういう体裁にすると。となれば、怪我はいくらかあったほうがよいでしょう」
いくらか、と言う言葉をキルシェは反芻するようにつぶやいた。
「はい。雨に濡れた石階段で転げたというお話しですので、まるで無傷というのはいささか不自然すぎます。元帥閣下が少し自然治癒を含ませたほうがよい、と仰せで」
「顔のお怪我はどうなるのです? 腕も……腕など、明らかに掴まれた痕ではありませんか」
「ご安心を。お顔のお怪我も痕にはなりません。__腕を拝見しても?」
イーリスに手首を見せると、彼女はそうっと壊れ物を扱うように両手を添えて吟味する。
「リュディガー__ナハトリンデン卿が、時間はかかるが必ず消える、とは申しておりましたが……そう聞いたので、後から治癒魔法を受けられると伺って、全てを一度に治すわけでもなく、あるいは一部だけなのかと思っておりました」
リュディガーに顔を向けると、彼は目元に力を込めて表情を曇らせていて、視線に気づくとその顔の口元をさらに一文字に引き結んだ。
「状況によって、被害を受けた方が以後生活に支障なく、かつ外聞が保てるようにするので、全て治す場合とそうでない場合がございます」
__外聞……。
きょとん、とキルシェはした。
「怪我があることで、普通の生活に戻れますか? 今日のこの出来事、何事もなかった、と出来ますか? 無理でしょう。明日、明後日……数日の落ち着ける猶予があるべきです。その猶予づくりに、ある程度怪我を負っていたという理由があれば、戻った時に周囲の者たちは何ら不思議には思わないはず。痛い怪我を負ったのだな、とそれ以上の追求はないでしょう。__今回はそういうことにした方がよい、というご判断です」
「そういうこと……ですか」
「すまない。あのときは、どういう形で治癒魔法を施してもらえるかがわからなかったから……君の場合は、未遂であったし……あまり期待を持たせてはならない、と」
至極申し訳無さそうに、リュディガーが言った。
自分は未遂であったが、もっと手酷い被害にあった者にしてみれば、噂の元を断つまではいかないまでも、ぼやけさせることができ、世間から好奇の目を向けられることを軽減することができるのだろう。
__怪我をまったく無くして、何もなかった、と思いこむのもある意味救い……なのかしら。
そうした処置が最善の場合もあるのだろう。
思い出したくないものはいるはずだ。下手をすれば、自死を選ぶことだってあり得る。
今回の場合、その方便の方がよい、ということなのだ。
__どこまでの治癒なのかがわからない……それでラエティティエルさんも、痕には残させませんから、と決意にも似たことを言っていたのね。
ぼんやりとしていて、疑問をあまり抱きにくかったが、ラエティティエルが用意してくれた薬湯に浸かってからは頭がはっきりしているから、改めて彼らの言動の可笑しいことに気づけた。
ラエティティエルは承知でいたはずだろうが、全部は癒やさない、という言葉に気色ばんだのは、顔の怪我も含まれていたからだろう。
「腕のお怪我は治してしまいましょう。もし、痕が手形に見えなくなるようであれば、片手だけでも打ち据えた痕に見えるよう留めてもいいかもしれません。あとは、お身体の怪我の具合を拝見させていただければ__方針としては、ご理解いただけましたでしょうか?」
__もっとも、波風が立たず。世間に広がる危惧を抱かなくていいということね。
父の元へ噂が届く危険性は、かなり減る。
__しかも、届いたとしても、嘘を貫き通せばいい。
キルシェは内心ほっ、と胸を撫で下ろす。
「はい。お心遣いをしていただいて……」
「いいえ。すみません。__とりあえずは、お身体の怪我の具合を拝見させてください」
キルシェにそう言いながら立ち上がるも、彼女はラエティティエルとリュディガーにも目配せした。
その目配せの意味するところを察したリュディガーは、キルシェへ難しい顔にも口元に笑みを浮かべて頷いてから、言葉なく扉へと向かう。
「リュディガー」
扉の解錠をしたその背中を呼び止めると、彼はノブに手を掛けたまま振り返った。
「ありがとうございました」
言いながら、窓辺を示すと彼は柔らかく笑む。
その窓の向こうには虹はもはやなく、落日の赤い陽光を受けて暗くなりつつある空が見られた。
「__リュディガー、申し訳ないのですが、廊下で待機していてもらえますか?」
「ああ」
ラエティティエルが言いながら歩み寄れば、彼は武官らしい顔で応じ、扉を開けて出ていく。
そして、その扉に施錠をしたラエティティエルはキルシェの元へ戻り、再び衣服__とりあえずは上半身を脱ぐよう促して、素直にキルシェは従い手伝ってもらいながら晒した。




