1. とんでもない夏休み
大分前に書いたので、少し手直ししました。
当時はこんな「青春活劇」を描いてみたかったので。
お好きな漫画家様や絵師様の絵で想像しながらお読みいただけたら、と思います。
これは、世界が今よりもほんの少し落ち着いていた頃の事。
******
日本の夏は、暑い。
ただ暑いだけじゃなくって、蒸し蒸ししてるのがたまらない。
おまけにこの頃は、朝っぱらからうるさくてやんなっちゃう…まあ、うちの店の改装工事の音だから、これは仕方がないんだけれど。ごめんね、ご近所さま。新装開店したらご招待するから、しばらく我慢してください。
でも、兄さんの声もうるさいんだよねー。ほら、また職人さんに怒鳴ってる…何だってのよ、まったく…
わたし桜田真理亜、十七歳。両親と兄さんの四人家族。高級住宅街ってほどじゃないまあまあの場所に家族経営の店をやってて、その裏手に住んでるの。
八月に入ってすぐ、うちの店…横浜にほど近いイタリア料理店『チリエージェ』は、店内改装のため二十日間の休業に入った。
うちの店は、リストランテなんて格式ばったもんじゃなくって、パパの故郷の郷土料理を中心に、パスタとか一品料理とかを出す大衆的レストランと喫茶店の中間くらいなの。
料理を作っているのは料理人兼オーナーのパパ、アントニオ。もっともこの頃は、大学の経済学部を卒業したくせになぜか菓子職人になっちゃった、ヴィットリオ兄さん目当ての女性客が多いな~…頑張れパパ。
マンマは…あ、普通はママって呼ぶんだろうけど、うちはパパがイタリア人だから、家の中は日本語とイタリア語が飛び交ってるの。だからバイリンガルもビリングエって言ってたりして、ちょっと混乱しちゃう。同級生と話してると、イタリア語の『コンパーニャ・ディ・クラッセ(女の同級生)』よりも英語の『クラスメート』のほうが分かりやすい、なんてことっていっぱいあるし。パパはあんまりいい顔しないけど、今の日本じゃ和製英語を含めて女子高生の共通語を喋ってないと…いろいろあるのよ、うん。
あ、マンマの話だった。
マンマは百合子っていって、元インテリアデザイナーなの。美大生のときに一年間イタリア留学(自費よ!念のため)してたんだけど、そっちでパパと知り合って、パパが日本まで追っかけてきちゃったの。すごいでしょ?一人娘だったから、最初はお祖父ちゃんが大反対だったらしい。今は全然そんなことないし、わたしもヴィー兄も可愛がってもらってるけど…パパはどうかな?びみょー。お祖父ちゃん、江戸っ子だし。マンマと結婚するときも、パパが桜田の婿養子に入る形でなきゃ許さなかった、って聞いたし。
この店を開いたとき、マンマが横浜に一緒に住もうって言ったのに、
『やなこったい。行きたきゃお前らだけで行きな。華江が寂しがるじゃあねぇか』
とかなんとか言っちゃって、結局東京の下町に残っちゃった。いくら谷中にお祖母ちゃんのお墓があるからって…ねえ。すっごく怒るに決まってるから、年寄りの一人暮らしは心配だ、なんて口が裂けても言えないし。昔の弟子だった政さんが時々覗いてくれるからいいようなものの…あ、お祖父ちゃんね、大工の棟梁だったの。結構大きな所帯だったみたい。わたしが生まれた頃はもう引退してて、お弟子さんたちはみんな政さんが社長になった建築会社に入ってた。会社を興すのに随分お祖父ちゃんの世話になったとかで、今でもすっごく親切にしてくれる。政さんも元のお弟子さんたちも、見た目は怖そうだけどみんないい人たち!みんなお祖父ちゃんのこと『おやっさん』って呼ぶのよ。
お祖父ちゃんは桜田大造。いかにも、ってカンジよね。頑固で、意地っ張りで、一度こうと決めたら絶対変えないの。筋の通らないことが大嫌い!弱いものいじめも大嫌い。でも、自分で努力しない人も嫌いみたい。
わたしがまだ幼稚園の頃だったかな…一度誘拐されそうになったことがあってね。幼稚園からの帰り道、いきなり男の人に抱えられて…怖かった。びっくりして大声で泣いて、途中まで迎えに来てたパパが泣き声に気付いて、追いかけて助けてくれたの。
身長百九十五㎝もある大男のパパに追いかけられたら、そりゃあ相手もびっくりするでしょうよ。
で、なんでそんな話になったか分からないんだけど、わたしはヴィー兄が通ってた、お祖父ちゃんの知り合いの武道家の先生の道場へ、一緒に通うことになった。幼稚園児の足蹴りなんて大したことないと思うんだけど、お陰で今じゃ有段者並みよ!柔道・空手・剣道を合わせたみたいな武術だったから、今で言うならK‐1かなぁ。どっちにしろ女子高生の自慢できる話じゃないから、おおっぴらにはしてないけどね。
そう、それから今職人さんと大声で揉めてる六歳上の兄は、妹のわたしから見ても、美形の部類には入るわね。黒髪・黒目のイタリア男で、にっこり笑って『いつもありがとう』なんて言われた日にゃあ、そりゃ女性客も増えるって。年齢も幅広いなあ…下は幼稚園児から、上はどう見たってお祖父ちゃんより年上のおばあちゃままであの笑顔にだまされてんだから、ヴィー兄も大したもんよね。連れの男にはウケが悪いけどさ、それは当たり前か。ま、そーゆーときはマンマがいるし。さすがパパが一目惚れしただけあって、近所でも評判の美人だもん。四十七歳には全然見えない…あーあ、わたしもマンマに似たかったなー。
わたしってば髪はパパ譲りの栗色のくせっ毛だし目の色も茶色で、ちっちゃい頃はそりゃあ天使のように可愛かった、ってパパは言ってくれるけど…成長著しく今や百七十㎝、じゃねえ…まだ伸びたらどうしよう。クラスの男子もほとんどがわたしより低いんだもん。顔はそんなに悪くないと思うけど、マンマやヴィー兄と比べると…へこんじゃう。街を歩いてても怪しげな勧誘ばっかで、ナンパもされないし。一度、すれ違いざまに『でっけー女!なんだ、ガイジンかぁ』って言われたこともあったなー…あーやだやだ!
もう、ヴィーったら何キレてんのよ。夏休みなんだからもうちょっと寝かせてよ…
え、何?キレてる?あのヴィーが?
うっそー!マジで?なんかあったのかなぁ…仕方ない、そろそろ起きるか。
それでも一応顔を洗って店に行くと、普段冷静なヴィーにしては珍しく真っ赤になって、見るからにヤンキーな兄ちゃんたちと、見積書を片手にガンガンやりあってた。
「おはよ、ヴィー兄。何がなってんの?」
目一杯シリアスなやりとりの最中に気の抜けた声が聞こえたせいか、怒りのパワー全開の勢いでヴィーが振り向いた。
「遅い!何時だと思ってんだ。母さんたちがいなくてもきちんとする約束だろ?」
うっさいなー、こんなとこまでマンマに似なくていいのに。自慢の黒髪が乱れてるぞ、ヴィー。
わたしも寝起きが悪かったので、かまわずにのんびりとかえしてやった。
「…は~い…で、何やってんの?」
「…お前なー。まあ俺は今忙しいから、勝手に朝飯作って食えよ」
ふっ、と声のトーンが下がったところに、絶妙のタイミングでヤンキー兄ちゃんが割り込んできた。
「あ、妹さんっすかぁ?おはよーさんっす。いやー可愛いっすねー!女子大生?いや、女子高生かなー?」
ナニ?なんかほめられてるカンジしないぞ。随分馴れ馴れしいじゃない!パパが見てたらすっごく怒るぞ、きっと。ヴィーだってイヤーな顔してる。子供二人だと思って、軽く見てるんじゃないの?
アッタマにきたけど、とりあえず愛想笑いだけはしておいた。
「おはようございます、朝からご苦労様です。…ねぇ、ヴィー、ちょっと」
なんだか、ヴィーが怒る理由がわかったような気がした。ちょいちょい、と手招きして小声で聞くと、
「あいつら、注文の内装と違うのを持ってきたんだ。全然安っぽい色でさ、ケバいったらない。母さんから聞いてた施工会社と違う名前だし…下請けか孫請けにしても、ひど過ぎるよ。工期に間に合わないから、これでなきゃ工事は出来ないってごねるし、らちが明かないんだ…仕方がないから母さんに連絡取ろうと思って、今電話したら…いないんだ」
「え、何、どういうこと?」
日本とイタリアは八時間の時差がある。三月から十月までは夏時間だから、今の時差は七時間になるはず。
こっちが八月三日の朝八時半だから、向こうは二日の真夜中。電話するには失礼な時間帯だけど、いないなんてことは…考えられない。でも…
「もしかして、病院じゃないの?ほら、パパの伯母さんが重病だ、ってお見舞いに行ったんでしょ?もしかしたら容態が急に悪くなって、とか」
「いや、そうじゃないんだ…伯母さんはちゃんと家にいるんだよ」
「じゃ、ホテルとか。やっぱ親戚の家だから遠慮して…」
「違うんだ。向こうは、そんな人たちは来てない、って言うんだよ」
「うそっ!」
そんなはずはない!
イタリアのパパの実家から国際電話があったのが七月の三十一日だから、パパとマンマはあわてて一日に家を出た。急な話だったから早い便の飛行機の切符がとれなくて、結局向こうに着いたのが現地時間の一日の午後五時。で、乗り継ぎのローマのフィウミチーノ空港から電話をくれたのよ!こっちは夜中の一時頃だったからよく覚えてる。
『これからパレルモ行きに乗るから、もう電話しないわ。着く頃そっちは真夜中だし。二人とも、留守をお願いね』
マンマからの電話を受けたのはヴィー兄だから、少なくともイタリアには着いてるのは間違いない…まさか、そのあと事故か何かに?
「ヴィー…まさか、事故とか…」
自分の声が震えてるのがわかる。ヴィーが心配ない、と肩を叩いた。
「飛行機事故なんて大きなものなら、絶対ニュースになってる。ここ二、三日そんなニュースはない。二人とも無事に着いたと思う…シチリア島までは」
そう。むしろその後が問題だわ。
パパの故郷のシチリア島は…映画『ゴッドファーザー』で有名なあの島。州都パレルモの近くにはコルレオーネって村もある。パパの伯母さんとお兄さんが住んでるのは、ワインで有名なマルサラの近くだって聞いた。うちの店のワインもそこから取り寄せてるし。
『シチリア島では、紀元前からフェニキア人が葡萄を栽培していた。強い夏の日差しが、シチリアならではのワインをつくるんだよ』
パパが誇らしげにそう言ってたっけ…パパ、どこにいるの?
「ねえ、ちょっとー、どうするんっすかー?工事続けていいんすかー?やめちゃいましょうかー?」
最悪のことしか浮かばなくって涙目になったわたしと、心配事が重なって眉間にしわをよせたヴィーが、ヤンキー兄ちゃんの無神経な声に思わずきっ、と表に顔を向けたとき。
一台の車が店の駐車場に入ってくるのが見えた。
「あれは…!」
「政さん!」
最高のタイミングで、最高の助っ人が来てくれた!
わたしとヴィーが駐車場に走っていくと、政さんがいつもの渋い笑顔で、
「ブオンジョルノ!ヴィットリオさん、真理亜嬢ちゃん!工事、始まったんですね?」
と、にこやかに手を振っていた。
「政さん…」
心底ほっとして、笑顔を返そうとしたら…ぽろっと涙がでちゃった。
「どうしなさったんです、嬢ちゃん?ヴィットリオさんと喧嘩でもしたんですかい?」
びっくりした顔で、政さんはヴィー兄を見た。
「違うんだ、政さん。実は…」
説明しようとしたヴィー兄に、またもやむかつく声がした。
「ねー、お取り込み中みたいだけど、ほんっと、どうするんすかー?」
ヴィー兄が怒鳴るより先に、政さんがヤンキー兄ちゃんを一瞥し、すい、と近づいて渋い低音で返事をした。
「おお。見ての通り取り込み中だ。もちょっと待ってくれや、な?ニイさん」
いきなり現れた強面の男に、顔を覗き込むように言われた兄ちゃんたちは、
「は、あ、いや、どうぞごゆっくり…」
と、しどろもどろで返事をした。
ざまーみろ、ってのよ。
政さんは建築会社の社長なんだから!あんたたちみたいのなんて、束になってもかなわないんだからね!
ヴィー兄が、もいちど朝からの出来事を説明する。
聴いてる政さんの顔が、段々険しくなってく。
「なるほど…大体のところは飲み込めました。とりあえず、こっちのことから片付けましょう」
そう言うと、政さんは携帯で誰かに電話をし始めた。
「ああ、社長さん、いるかい?市谷建設の市谷だが」
大して待たされずに、相手が出たみたい。
「ああ、俺だ、おはようさん。今例の店に来てるんだけどね…うん、あんたんとこに内装を頼んだ…そう、『チリエージェ』の。…随分、話が違ってるみてえじゃねぇか」
ぞく。
政さん、怖い…口調ががらりと変わった。
「最初っから言ってたよなあ。俺が世話になったお人の、関わりのある店だ、ってさ。くれぐれもよろしくと念押ししといたのによ…様子を見に来て驚ぇたぜ。なんでぇ?注文違いの安モン持ってきて、これでだめなら仕事が出来ねえとぬかしやがる!そんな半端な仕事しか出来ねえチンケな下請けに、まる投げしちまったのかい?…信じられねえのはこっちだよ。嘘だと思うなら、こっちに来てその目で見てみねえ!」
携帯でなければ、きっと受話器を投げつけたに違いないと思わせる激しさで、政さんはボタンを押した。壊れなきゃいいけど…携帯。
ふと見ると、政さんの様子に恐れをなしたように、兄ちゃんたちが静かになってた。
五分も経たないうちに、ヤンキー兄ちゃんのポケットから派手な着信メロディーが聞こえてきて、政さんがぎろっ、と睨んだ。
明らかに兄ちゃんは慌てまくって電話に出た。
「あ、社長!はい?え?あのっ?ええ、ま、そうっすけど…いや、だからそれは…は?あの?もしもし、もしもしっ!」
切れたみたい。…なんか顔が青いんですけど。
「…社長、来るってさ…」
電話に出た兄ちゃんが、ほかの仲間にぼそっと言った。
「なんでだよ?」
「知るかよ、そんなこと…」
二十分もしないうちに、車が二台、やって来た。…かなり飛ばしてきたみたい。
高そうな車の割には、あたふたと車から降りたのはハゲデブのオヤジと、それよりはちょいマシなスーツ姿のオジさんだ。
「おはようございますっ!市谷さん、お電話いただいてびっくりしまして…ともかく現場を見させていただきますっ」
スーツのオジさんがヴィー兄の前にやってきて、名刺を出した。
「初めまして、わたくし有坂建築の有坂です。仕様書と見積書をお借りできますか?」
「あ、どうもわざわざ…どうぞ中へ」
ヴィー兄とオジさんたちが店の中で書類を見ながら話し始めた。ハゲデブの方は汗を拭き拭き、なんか弁解してるみたいに見える。
そのうちさっきの兄ちゃんが呼ばれて、ハゲデブオヤジにすぱかん!と頭を殴られた。
「もう大丈夫ですよ」
仁王立ちでじーっと様子を見ていた政さんが、いつもの笑顔で言ってくれた。
「ありがとう、政さん。お陰で助かったわ…」
「いや、こんなことになるなら、もっと目を光らせとくんでした。あの社長は仕事にゃ定評があるもんで…どうも下の者が社長に黙って、勝手に孫請けに出しちまったようです。もうこんなこたぁないでしょう」
政さんが太鼓判を押してくれたから、店のことはこれで安心。
でも…パパとマンマのことは…
「真理亜嬢ちゃん、ヴィットリオさんの手が空いたら、もう少し詳しく聞かせてください。百合子お嬢さんたちが、ご親戚のお見舞いにイタリアへ行かれたことは聞いちゃいるんですが…他のご親戚とか、名前や住所が分かりませんかね?」
「他の親戚…いいえ、わたしが知ってるのは、パパの実家にパパのお兄さん一家と、伯母さん一家が住んでるってことぐらい。ヴィー兄なら何か知ってるかも。でも、わたしたち二人とも、パパの実家に一度も行ったことがないの。イタリアは遠いから…」
わたしは、知ってる限りのことをぽつぽつと政さんに話した。
実際、毎年パパのお兄さんから素敵なクリスマスカードは届くけど、普段電話もかかってこないし、従兄弟とだって会ったこともない。送られてきた写真は見たわ。わたしたちの写真も、きっと送ってるはずよ。だって、そのために毎年家族で撮ってるんだもの。
もちろん名前は知ってるわよ。
パパのお兄さんがアルベルト・ティツィアーニ。その奥さんがアマリアで、一人息子がステファノ。たしかヴィー兄の二つ上だったわ…二人がお見舞いに行った、パパの伯母さんがテレザ・フェリーチェ。その娘さんで、パパの従姉妹のメリナって人はもう亡くなっていて、今はお孫さん二人と一緒にパパの実家で暮らしてるはず。えっと、そのわたしのふた従兄弟たちの名前は…なんだったっけ?
名前を思い出そうとうなってたら、ヴィーがほっとした顔で戻ってきた。
「政さん、ありがとう。オープン予定日に、なんとか間に合いそうだよ」
「そうですかい。そりゃあ、良かった!」
きっと誰よりも、あのオジさんたちとヤンキー兄ちゃんたちがそう思ってるに違いない。
「じゃ、もう一度念押ししてきます。その後で、じっくり話しましょうや」
そう言って政さんは、裁きを待つ子羊たちのところへ、ゆっくり歩いていった。
渋いわ~!
母屋に帰って、わたしたちはとりあえずキッチンに腰を据えた。
起きてからかなり時間はたったけど、食欲がない、というわたしの声を無視して、ヴィー兄がプレーンなオムレツを作ってくれた。
パパ仕込みの我が家の味だ。わたしがサラダ以外にまともに作れるひと品でもある。
とっても美味しい…こんなときなのに、美味しく感じる。心と舌は別物なのね。
ヴィーが三人分のカプチーノを淹れる。
そう…わたしたちは、もう少し落ち着かなくちゃいけない。
口火を切ったのは、政さんだ。
「ヴィットリオさん。今朝電話をかけたとき、電話にでたのは誰でした?」
「女性で…使用人みたいでした。向こうは真夜中ですからね、かなり不機嫌そうな声でした」
「使用人、って…なんだかすごいお金持ちみたい」
日本じゃ聞いたことないし。二時間のサスペンスドラマなら、『家政婦』ってとこ?
知らなかったのか?って顔して、ヴィーが言う。
「そりゃ、うちに入れてるワインの、輸出元の社長だからね。今のシチリア島のワインは、かなりアルベルト伯父さんのところで扱ってるんじゃないかな?テレザ大伯母さんは北イタリアの貴族のところに娘さんをお嫁に出したって聞いたし。使用人の一人や二人はいるだろう」
「へえ…パパよく日本に来る気になったわね」
「そりゃ、そうでなきゃマンマと一緒になれなかったからだろ?」
「…」
政さんが、ちょっと複雑な顔をした。
やっぱり、そうなのかなぁ…政さんは昔からマンマのことが好きで、それで今でも独身だってこと。お祖父ちゃんも、二人を一緒にさせるつもりだったってハナシ…
いけない、話がズレてきた。
「ね、それでそのひと、なんて言ってたの?」
「ええっと…『ユリコ・サクラダ?そのような方たちはお見えになっておりません』って言われたんだ。そう、それから『この二、三日は、どなたもお見えではございません』って言ってたな」
「変。なんか変よ、それ。病気の人がいるんでしょう?お見舞いはともかく、お医者様ぐらいは来てるはずよ。重病なんでしょ?」
それとも、大伯母さんの病気って、ほんとなのかしら?何かの間違い…?
じっと考えこんでいた政さんが、顔を上げた。
「ヴィットリオさん、アントニオさんの名前も、おっしゃったんですか?」
「え?いや、当然いるもんだと思ってたから、マンマの名前しか言わなかったよ」
「…それじゃ、どうしてその使用人は、『そのような方たち』って、複数形で答えたんでしょうね?」
「あ!」
わたしとヴィーは、同時に叫んで顔を見合わせた。
そうよ、誰も来てないなら、どうして二人連れってわかるの?おかしいじゃないの!
「それじゃあ、パパたちは…」
「一度、実家に着いてますね。それは間違いないでしょう…」
「じゃあ、なんでそのひとは嘘をついたの?」
「お二人が来たのを知られたくないのか、それとも…」
「それとも…何?」
政さんは、ちら、とヴィーを見た。ヴィーは青白い顔をして、何かつぶやいた。
「どういうこと?分かるように言ってよ!」
二人ともなんだか、急に歯切れが悪くなった。
「それは…つまり」
「ヴィットリオさん」
政さんがヴィーを止めた。どうしたっていうの?
厳しい表情をしたヴィーが、政さんを見た。
「…」
ああ、じれったい!一体どうしたってのよ!
「いっそ事故なら、その方がいいかもな」
冷たい、とも思える口調でヴィーが吐き捨てた。
ヴィー…?何を言ってるの…!
「真理亜嬢ちゃん、ヴィットリオさん。まだ何もはっきりわかっちゃいませんよ。おやっさんに、連絡はまだですね?」
政さんがヴィーと何か話してるけど、全然耳に入らない。
「真理亜?どうした…真理亜!」
わたしは、しばらくぼんやりしてたらしい。
ヴィーに肩を揺さぶられて、ようやくわたしは周りの景色が見えた。
「真理亜、一度ゆっくり深呼吸をしろ…そう、もう一度。もう一度…」
ヴィーに言われるままに何度か深呼吸を繰り返すと、わたしは少しだけ落ち着くことが出来た。子供の頃からの修行のたまものだけど、今はちっとも嬉しくない。
「真理亜、住所録とアルバムを持ってきた。とりあえず俺が行ってくる。お前は店を頼むよ」
「なんでっ?わたしも行く!」
いつの間にそんな話になってたの?勝手に決めないでよ!
「嬢ちゃん、二人とも行っちまうと工事が進められませんよ。母屋と繋がってるんだから、いくらなんでも無用心でしょう」
政さんがとりなすように、わたしをなだめる。
「じゃ、ヴィーが残ってよ!どうせわたしじゃ店の内装のことなんて、なんにも分からないんだから!」
わたしの剣幕に二人とも一瞬驚いたようだったが、すぐに政さんがきっぱりと言った。
「だめです。女一人でどうにかなる話じゃありません!嬢ちゃんになんかあったら、俺がおやっさんに叱られます!」
「だって、だって…!」
いつも穏やかな政さんだが、一度こうと言ったら決して引きゃしない。こういうとこは憎らしいくらいお祖父ちゃんとよく似てる。
「いいですか?向こうの家に行くにしても、アントニオさんのご親戚のところを訪ねるにしても、子供の話じゃ、らちが明かないでしょう。いいようにあしらわれてしまいますよ」
女で、子供だからって…わたしはもう十七なのよ!男女は平等なのよ!
でも、こういう場面で、そういう反論の仕方が何の役にも立たないのは良く分かっていたから、わたしはむすっと返事をした。
「…わかった」
黙りこんだわたしの目の前で、二人は住所録からパパの実家とそのほかの親戚らしき人の名前や住所を書き写し、アルバムからわたしたち家族と、アルベルト伯父さん一家の写真を取り出した。
「言葉は大丈夫だとしても、写真がないと話しづらいですからね。俺が身内だっていう証みたいなものですよ」
ヴィーが政さんに言うのを聞いて、なるほど、と納得する。
ヴィーってば、やっぱ頭いい。
「ヴィットリオさん、パスポートは?」
「うちは家族全員持ってます。急にイタリアへ行くことがあるかも、って、更新も毎回忘れずにしてるんですよ…まさかこんな風に使うことになるなんて、思ってもみませんでしたけど」
そう、パパはイタリア人だから、マンマと結婚するときに思い切って帰化した。
パパの実家と疎遠になったのがそのせいかどうかは知らないけれど、それ以来、故郷には一度しか帰ったことがない。
あれは四年前の、メリナさんのお葬式のときだった。
パパはアルベルト伯父さんからの知らせを聞いて、ものすごく悲しそうだった。
『従姉妹のメリナとは…アルと三人でいつも一緒に遊んでたからね。パパの父さんや伯母さんはいつも忙しくて…あの頃は、ルクレツィアに怒られてばかりだったな』
『ルクレツィアって誰?』
『母さんは身体が弱かったから、母親代わりになってパパとアル伯父さんを育ててくれた人だよ。テレザ伯母さんが連れてきてくれたんだ。もういい歳だから、今は息子の家に同居しててね…ほら、毎年クリスマスカードが届くだろう?』
『ああ!ヴィーとわたしに手袋を編んでくれた…』
『真理亜は、あれが随分お気に入りだったね。彼女にも会えるかな…いや、来ないかもしれないな。シラクーサは遠い』
そう言って、パパは久しぶりに故郷に帰ったんだったわ。
「失礼ですが、金はありますか?一週間やそこらはかかるでしょうし、アントニオさんの実家があてにならないんじゃ、ホテルに泊まるしかないでしょう?」
「うーん、あ、今は店の改装資金で定期を解約したのがありますから、とりあえずそれを使います。日本に帰ってきたら、支払分は俺の預金を解約しますよ。明日出発するのに、銀行で手続きしてたら遅くなる」
「そうですか。あとは向こうで色々調べるにしても、土地勘ってやつがありませんからね。それはどうなさるおつもりで?」
政さんてば、わたしに話すのとヴィーとじゃ全然違うじゃない!なによその丁寧語。まるでお祖父ちゃんかパパやマンマに話してるみたい。わたしを一番子ども扱いしてるのって、政さんじゃないの。
「パレルモで地図を買いますよ。詳しいやつを…まあ、あれば、ですけどね。日本ほど種類はないでしょうし。なければ仕様がない。行ってから、何か考えます」
そう、地図は必要よね。それから?
「あとは…そう、例の使用人。ちょっと臭いますね…直接行くより先に近所で何か聞き込めればいいんですが、なにせこっちがよそ者だ。伯父さんの会社は、どうです?」
「それも考えたんですが…もし伯父との間に何かあったとしたら、かえってまずいかもしれません。身内のことですから大使館に行くのも具合が悪いし、地元の警察は…」
「もっとまずいでしょうね」
「父も母も警察とは関わりたくないでしょうし、逆に…刺激をしかねない。誰が敵かも分からないから、状況がはっきりするまでは慎重にならざるを得ないですね」
敵ってだれよ。ワケわかんない話になってきた。
「でも、なんと言ってもあそこで一番目立つのは母です。東洋人だし、観光客に紛れているわけじゃないから…」
「そうですね…百合子お嬢さんは、目立つでしょうね」
「ただ、マンマはイタリアに留学してたから、何かあっても自分でなんとか対処できるでしょう。必要であれば、観光客のふりでも、イタリア語が分からないふりでも、ね」
ヴィーがにやっと、悪戯がうまくいった悪ガキの顔で笑った。
それに気付いて政さんも、やれやれ、という顔でため息をつく。
「そうでした。百合子お嬢さんはそういうお人でしたね…今でも全然変わっちゃいない」
「だから俺はむしろ、母の方が心配ですよ。見かけと違って、父よりよっぽど突っ走るところがあるんだから」
そうよね。でも、ヴィーったら忘れてるわ…そのマンマがため息をつくほど、わたしはもっと突っ走るタイプなのよ。
わたしは二人に気付かれないように、笑いをかみ殺した。
「パスポートと親戚たちの名前と住所、それに写真、地図。あとは何が必要かしら?ヴィー、着替えはどうするの?」
わたしの存在を忘れてたみたい。ヴィーが、ああ、と生返事をする。
「着替えは三日分ほど持ってって、ホテルで洗濯するさ。あっちは日本ほど湿度が高くないから、過ごしやすいだろうし。一応スーツも持っていこう。きちんとした身なりは必要だ…向こうで舐められたくはない」
「じゃ、ボストンバッグでいい?パパたちがスーツケース持ってっちゃったから、それしかないの」
「あ、そうか。いいよ、俺のボストンがあるから、あとで自分で準備するさ」
「飛行機の切符は?」
「それはネットで予約するよ。明日成田で受け取ればいい」
「さすがに若い人は、便利なものをよくご存知ですねぇ。インターネットですか」
政さんが、感心した。
「政さん、会社にだってパソコンぐらいあるでしょ?出張なんかで飛行機に乗ることってないの?」
まだ四十半ばのくせに、こんなところもお祖父ちゃん並に妙に古いんだから。
「いやぁ、切符の手配なんかは、事務の女の子に任せてますんで…」
語尾が消えかかってるわよ。自信ないんだなぁ、もう。
「じゃ、ネット予約はわたしが今からしてあげる。その間にヴィーは留守中の店の内装のこと、何かに書いておいてくれる?なんか聞かれてもわたしが分かるように、出来るだけ詳しく書いてよね」
「分かった。じゃ、頼むよ」
わたしはパパの部屋に入った。うちのパソコンはパパの部屋にある…それともうひとつ、することがある。
十分後、明日の朝の直行便のチケットが、無事ゲットできた。
わたしは部屋を出て、ヴィーに声を掛けた。
「ヴィー、取れたわ…明日午後の便よ。それしかなかったの。混んでるみたいね」
次の日の朝まだ暗いうちに、わたしはこっそり荷物を持って家を出た。
ヴィーはまだ寝てる。夕べ遅くまで、改装工事の注意書きをあれこれ書いてたし、それから荷物をまとめてたみたい…そりゃ眠いわよね。ギリギリまで、寝ていたいよね…
台所には一応、置手紙なんかしてみたりした。
これを見つけたときの、ヴィーの顔が目に浮かぶ…でも。
『ごめんね、ヴィー。やっぱりわたしが行ってきます。あとはよろしく!』
で、無事わたしは、機上の人になった。
お読みいただきまして、ありがとうございます。