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雨の日の 気づかなかった世界

作者: 雨紫謙

 子供の頃、私の眼前に広がる世界は輝いていた。

 春は桜、命の芽吹きに触れ

 夏は山の緑、大自然と戯れ

 秋は紅葉、紅の世界に胸を躍らせて

 冬は雪、白銀に染まる街中を駆け回った。

 あの頃の私にとって、世界は幻想的で、美しい世界だけが広がっていたのだ。

 だが、それは幼少故のもの。歳を重ねることで、知識を頭に叩き込まれていくなかで幼い私の中にあった世界は色彩を失っていった。

 私は今日も無駄に人を敷き詰めている電車に乗って会社に行き、与えられた仕事を淡々とこなし失敗しては叱られ、時間に追われて生きていくのだろう。それを今まで数年間、さらに言えばこれからも続けていかなければならない。ああ、私は何なのだ、これでは単なる心持たぬ機械と同じではないか。


 外は雨が降っていた。駅のホームからでると人の行き詰る臭いから、梅雨独特の湿った六月の匂いが鼻孔を支配する。その低い空を見上げて、「傘を忘れたな」と、どこからともなく湧き起こるむかむかした感情と焦りを噛みしめた。


 その時、何を思ったのだろう、近くのコンビニで傘を買えばよかったものを、私はスーツが濡れることも気にせず、そのまま駅のホームを飛び出した。すぐに雨の雫が頭上から襲いかかる。会社に行くと同輩や上司に何か言われそうだが、そんなことは気にせずに灰色の世界を駆けだした。


 ――時に呑まれた可哀想なお方よ、こちらへいらっしゃい。


 不意に頭の中で誰かの言葉が流れてきた。この声はなんだ?

  きょろきょろと辺りを見渡すと、都会の背が高い建物の中みずぼらしい公園がちょこんと顏を見せていた。もちろん中に子供の姿もなく誰もいるはずなどない。


 ――さあ、こちらにいらっしゃい。ここのベンチで腰をお休めなさいな。


 まただ。

だがこれで確信した。姿は見えないが間違いない、この頭に直接届く声の主はあの公園にいる。

 本当ならすぐにでも会社に向かわねばならない。だが、どうしてもあの声が気になる。見えない糸で引っ張られるように、気が付けば足はあの公園へと進んでいた。

 「よくぞいらっしゃいました。今日は雨なので子供たちがいなくて寂しかったのです。よろしければお話し相手になってくださいな」

 その人は傘をこちらに向けてベンチに座っている。

 不思議な人だ。女性……なのだろう。だが、これといった確証があるわけではない。酷く曖昧な人だ。

 「ここまで来て言うセリフでもありませんが、私には仕事があるので……」

 「そんなもの、今日はお休みなさい。だって、あなた辛くないのですか?」

 「え……」

 言われて「はて何のことだ」と思うのと同時に、確かにその言葉に反応する自身の心があるのに驚く。私は、今何かを辛いと感じているのか? なら、その正体はなんだ? 

 「気づいていないのですね……」

 顏は見えない。だが、今背中の向こうの人はきっと悲しそうな顏をしている。

 「分かりました。今日は無理強いはしません。もう職場に向かってしまいなさい」

 「え、ですが……」

 「気づいていないのでは意味がないですから。ですが、条件を与えましょう。貴方がもし何かに疲れたその時は、またここに足を運びなさい。まあ、そう遠い話ではないでしょう。私は、また今日のようにここで座っています。その時に、お話をしましょう。そら、もう貴方の日常に戻りなさい」

 そう言い残すと、その人はゆっくりと立ち上がり、しずしずと公園を後にした。公園には、濡れた遊具と濡れた一人の人間しか残っていない。一人になってからしばらくして、雨は勢いを失っていき、次第に雲が切れていった。


      ◆                 ◆                 ◆


 公園のあの人と話してから、一体どれぐらいの月日が流れているのだろう。一週間、いや一か月だったか、それとも一年……。酷く記憶があいまいだ。

 それもそのはず、同じ日々の繰り返し。時間に追われては足を動かすだけの毎日。日にちを数えるもの無意味に思えてきた。

 気が付けばいつもと同じく電車に揺られている。もう何度、この光景を繰り返してきたのだろう。数えるなんて馬鹿馬鹿しい。

 ホームを出れば暗雲の空が広がっていた。これはしばらくしたら雨が降りそうだ。

 「雨……」

 ぽっと、脳内であの人の言葉が再生される

 『貴方がもし何かに疲れたその時は、またここに足を運びなさい。まあ、そう遠い話ではないでしょう。私は、また今日のようにここで座っています』


 

 ふらふらと公園に向かってみたが、そこには誰もいなかった。子供の姿も、談笑する母親の姿も、あの人の姿も――。

 別に何かを期待していたわけではないが、さてどうしたものか。せっかく来たのになにもなしで帰るのはもったいない。いや、正直に言えば単に職場に向かいたくないだけなのだ。

 しばらくベンチに腰掛けることにしよう。

 以前座ったベンチに再び腰を下ろして、大きく深呼吸をする。どこか懐かしい気持ちにさせる雨を誘う湿った匂い。ああ、なんだか瞼が重くなってきた。

 このまま寝て会社をサボってしまおうか。もう、どうでもいい。

 そんな自暴自棄な気持ちになりながら、重い瞼をゆっくり閉じた。



 ――ほら、私の行った通りでした。すぐにお会いできると思ってましたよ。


 心に直接響くこの声。聞き覚えがある。この声の主は……。

 ゆっくりと目を開けると低い空が今にも泣きだしそうだった。そして、

 「おはようございます」

 その人はいた。

 前と同じく、私と背中合わせにするように傘を広げて後のベンチに腰掛けている。眠気のせいだろうか、その姿はどこか霞がかっているように見えた。

 「まだ、雨は降っていませんよ。どうして傘をさしているのです?」

 「すぐに降り出しますよ。あなたは傘を用意しなくても大丈夫なのですか?」

 「私は……」

 鞄の中にある折り畳み傘に触れたが、その手を引っ込める。

 「忘れてしまいました」

 「そう。それにしても、貴方本当に大丈夫ですか?」

 「大丈夫?」

 「誰から見ても分かります。貴方相当やつれてますから。何か辛いことでもあおりになられたのですか? それとも職場で嫌な思いをなされたとか」

 私は今そんなにひどい様相をしているのか。

 「辛いこと……」

 少し考えて、素直に思ったことを口にした。

 「私は……、私は、嫌になったのです」

 それは何に? 会社? それとも……

 「私は、この世界が嫌いになってしまったのですよ」

 「世界が?」

 「そうです。この世は忙しない。いつも時に追われて、淡々と日々が過ぎていく色を失った世界……。子供の頃、私が見ていた世界は、こんなものではなかった……」

 だから、嫌いになった。そんな世界を見るのが辛かった。

 ああ。言葉にして初めて理解できた。私は、子供の頃に見た世界をもう一度、大人になった今でもその景色を見たかったのだ。

 「そうですか……」

 背中越しに声が聞こえる。その声には同情のようなものもあったのかもしれない。

 「では貴方、瞳を閉じてみてください」

 唐突に、その人はそんなことを私に促すのであった。言われるままに瞳を閉じる。

 そこで気づいたのは「音」だった。雨が地面に落ちる音、さあーと風に吹かれる音、雫が水たまりにぱちゃぱちゃと滴る音、そして人の足音……。

 「そうしたら瞳を開けてみてください。ほら、紫陽花の花が咲いているでしょう? 他にも捩花や梔子の花、花菖蒲も……」

 そう言われて瞼をゆっくりと開ける。どれがどれの花の名前なのか、言われても私には分からなかったが、ぽたぽたと雨に打たれながら花開く花々が広がっている。雫が花びらの上できらきらと輝いて、つーと流れては地面に落ちていく。

 「今度は道路の方を見てみてください。人々が歩いている方です」

 そう言われて、恐る恐る視界を移す。今までは蟻のように行きかう灰色一色の世界だったその光景、だが、今は――

 「今はどうです? 皆さん傘を指しているでしょう。青に赤にピンク。透明なものもありますね。そしてみんな大小違っている。こうやってみるとなぜかお花のように見えませんか?」

 そう言われて、なるほどと思う。確かに、あれは見方を変えるとそんな風にも見えるかもしれない。


 「ここまで見てきて、もう一度貴方に問います。この世界は、本当に色がないですか?」

 

 不思議だった。今まで見てきたものはいつもと変わらぬ風景のはず。今までは本当に色がなかった。

だが、今は……

子供の頃に見ていたあの世界が、大人の私も前に広がっていた。

 「貴方は、日々に追われて、立ち止まることを忘れていたのですよ。だから、見えていたものが見えなくなっていたんです。気づかなかったんです。この世界に」

 そうか……。言われてやっと分かった。私は、走り続けていたら、前しか見ていなかったのだ。だから、眼前に広がるこの景色に気づけなかったのだ。

 「確かに貴方の言う通り、忙しなく淡々と時は流れるのかもしれません。ですが、今貴方が見ているこんな世界も、子供の頃そのままに存在しているのですよ」

 ああ、と気が付けば頬に一筋の雫が流れていた。私の世界は消えていなかったんだ……。変わっていったのは、世界ではない、 私の方だったんだ。

 「もう一度問います。あなたはこの世界が嫌いですか?」

 優しく背中の人が問う。答えは決まっていた。そんなこと……。


 「そんなこと、もう言えませんよ」


 はっきりと、そう答えることができた。

 背中の向こうは見えない。でも、これだけはなんとなく分かった。私の後ろにいるであろう人はきっと笑っている、と。

 「なら、私の出番はもうおしまいです。貴方も、もう私がいなくても大丈夫でしょう」

 気が付けば雨は先ほどよりだいぶ弱くなっていて、向うには太陽の光が雲の隙間からこぼれている。雨が去ろうとしていた。

 「あの、最後にあなたのお顔だけでも――」

 「それは叶いません。ですが、私はずっと、貴方達を見ていますよ……」

 我慢できずに、後ろを振り向いた。

 「え……」

 だが、そこには誰もいなくて、あの人が座っていた後も、さしていた傘も何も残っていなかった。

 空を見上げれば雲はすっかり流れていて、太陽がさあ、と辺りを照らし出している。雨は、もう止んでいた。


     ◆             ◆                       ◆


 それからも、私の周りはどんどんと時間が流れていった。私もまた時間の波に呑まれている。

 だが、今までとは少し変わったことがある。前のように色が失われることはなくなったし、私自身、少し性格が明るくなっているのではないかな、と思うこともあったりする。

 これも、全部あの人のおかげだ。

 「礼を、言いそびれてしまったな」

 あれ以来公園には足を運んでいないし、雨の日もだいぶ減ってしまった。梅雨明け宣言が出されるのもそう遠い話ではないだろう。公園に行けば、もしかしたら……、と思う私もいるが、きっとそこには誰もいない。

あの人と会えたことは、きっと何かの奇跡だったのだ。あの人は、きっと私たちとは違う、そうゆう神秘の世界に生きている人なのだと、今はそう思う。


 駅のホームから出ると、懐かしい臭いがした。空気が湿った匂い、雨の匂いだ。


――頑張って下さいね。


 一瞬、誰かがそう呟いてくれた気がした。もしかして、この声は……。


 「……ありがとうございました。頑張ります」

 そうぽつり呟いて、私は傘を広げ、公園とは逆の道を歩き出した。


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