⑤
食を済ませ、睡眠を取ったその明くる日────。
チリチリと焦燥感が燃え盛る。
男は、火の海の中を駆けていた。正確には焼け野原へと変貌しようとしている森の中を。
女は涙目ながらに咳き込み、男は息を乱して女の腕を引いた。
時折、背後から犬の声が聞こえる。それらは遠ざかるどころか徐々に距離を詰め、
「旅人さんッ!」
「あっ、うっ!」
獰猛な唸り声と共に、遂には旅人の腕へと食らいついた。踊るようにかぶりを振るい、食い込んだ牙から肉を引きちぎらんとする犬の唾液は、どんどん増すばかりだ。
しかしそれも長くは続かない。煙で麻痺していたとは言え、男の放つ腐臭は増すばかりだった。風邪で鼻でも詰まっていない限り、その拒絶感を誤魔化す事などできやしない。
犬が涙目になりながら牙を抜いた瞬間、男はその首根っこを掴み、地面に押さえつけた。
「ガッ、ウッ……!」
組み直せば形勢は逆転した。バリバリと後ろ足で腹を蹴られたとて、痛覚のない男に対しての有効打にはならない。犬は舌を出して静かに痙攣を繰り返すと、やがて一切の動きを止めて絶命した。
「旅人さん、大丈夫ですか?」
「……うっ」
親指を立てて無事をアピールした。しかし普通の人間ならば痛みに悶えていてもおかしくはない。不自然ではなかったかと男が考えた時だった。
「そこまでだ」
言い切るのと同時ぐらいだろうか。火薬の炸裂する音が響いた。声の持ち主は身なりの良い服装をしており、その手元では硝煙を立ち昇らせる細長い火筒があった。
「ガッ、うっ……」
「旅人さん!!」
手の甲ど真ん中を射抜かれていた。血は滲まないものの、衝撃で手首がちぎれ飛びそうになっていた。女はすこしの疑問を覚えたものの、今はと声の方へと振り返る。
身なりの良いその男は「下賎な輩め」と言いながら次弾を装填しだした。
「我が男爵家の家紋の入った捺印を奪ってどうするつもりだったのだ?」
貴族を名乗るその男に、女は「男爵家……」と呟いた。
「あなた、もしかしてフォタト男爵?」
「おや……誰がこの領土を納めているか理解しているあたり、ただの農奴ではないらしい。それに美しい」
ずるりと唇を這った舌に、女の顔がこわばった。
「さて、女。死にたくなければこちらへ来い。今ならその外套を奪った罪も目を瞑ってやる。何なら妾にしてやろう。先日女に一人逃げられてな。腹いせにその父親を殺してやったのよ。この銃口の火が噴く事を冗句だなんて思わない事だ」
「……なんですって?」
男爵の言葉に、女は激しい怒りに震えた。女は覚えがあった。あの逃げ出した次の日、本来であれば男爵と見合いをする予定だったのだから。心中穏やかでいられるはずはなかった。けれど外れていてほしい願望ほど当たるものはない。
「勝手な行いで土地を与えてしまった事を父に叱られてしまってね。それどころか父は地主ごときに詫びを入れに行くなんて貴族らしからぬ事をしようとした。まあ、結果として事故でくたばってくれたから良かったけどね。それはそれとして、私も土地をタダで与えたままというのは如何なものかと思い至ってね」
そこで思いついたのさ、と男爵は得意げに続ける。
「地主を殺してしまえば土地は取り戻せる! とね。けど普通に殺せば角が立つじゃないか。そこでだよ。昨日見合いをするはずだった女がいないだなんて言うもんだから無礼打ちとして撃ち殺したんだ。どうだい、完璧な作戦だろう?」
自信満々に持論を整然と並べる男爵は気持ちを良くして高らかに笑い声を上げた。物理的に腐敗し切った肺が、胸糞悪くなるのを男は感じていた。
「そう。父が……」
それは女も同じようだ。これ以上巻きようのない指は音を立て震え、邪魔をする掌に食い込み、血を滲ませていた。
「おっ、なんだ。お前がその娘なのか。ちょうどいい、渡りに舟とはまさにこの事か。さあ女、私と共に来い」
「……そうすれば、旅人さんは見逃して貰えますか?」
女がそう問いかけると、男爵は一拍置いて笑い飛ばした。
「馬鹿かね君は。地主の娘と言っても所詮は女か。立場というものが分かっていないらしい。君の選択肢は私の妾となって私を愉しませる事だけだ。私を不愉快にするなら君の父親同様死んでもらうだけの事」
撃鉄が発射準備を告げ、その照準が男から女へ向いた。森に広がる火群が木々を萎縮させ、悲鳴を上げさせた時、
「馬鹿が」
女は走り出した。せめてと斜めに移動したその女へ向けてゆっくりと照準を合わせた男爵がまさに引き鉄に指を掛けた時だった。
「なんっ──!?」
見れば男爵の手にぶつかったのは手首だ。思わぬ強襲に銃弾は明後日の方向へ飛び立った。普通見るはずのない光景に男爵がギョッと固まっている所へ、女は肩から体当たりの姿勢を見せ、今まさに男爵を押し倒さんとした。──その時だった。
「あっ、うっ……」
男の吐息がこぼれた。その前に鳴ったのは激しい炸裂音と、尾を引く遠鳴りのような音。
「……ふぅ。遅いじゃないか」
「旦那様が早すぎるのでございます」
現れたのは燕尾服に身を包んだ若い男。その手ではやはり火筒が硝煙を立ち上らせていた。
女は志半ばで倒れた。地べたに炎を映やす赤を広げて。
「がッ──!」ぶちっと悲痛な音を立てて。男の声帯ははち切れた。
「薄汚い奴め」
しかし、既に装填された次弾が男の額を捉えた。男はあえなく倒れた。
「ふう……とんだくたびれ儲けだね。ああ、土地は返して貰えたか」
「いやはや男爵様の首尾の良さ、まさに電光石火でございますね。ワタクシめも感服の限りでございます」
「何、庶民ごときに貴き者の覇道を阻めんというだけの事よ。あの土地はこれからの国の発展で大いに価値が出てくるからね。庶民には勿体ない」
地に伏す二人を嗤う二人。その最中、業火が猛り狂うように低く唸った。
「さあ外套の中にある捺印を回収するぞ。あの指輪は、私が男爵家の跡取りたる物的証拠なのだから──」
男爵が女の着ていた外套に手を掛けようとした時だった。
「──は?」男爵の腕に牙が食い込んだ。犬の牙が。
「はが⁉︎ いだだだだだっ、なんだこのバカ犬は!?」
「男爵様ッ、このバカ犬!」
燕尾服の男が犬に向けて火筒の持ち手で殴りかかろうとしたら時だった。犬は咄嗟にそれを避け、火筒は遠心力任せに男爵の傷口を叩いた。
「はがァっ⁉︎」「しまっ、男爵さま──」
燕尾服の男は、出遅れたと思った。まさか主人が飼っていた犬が牙を剥くなんて想像もしていなかったし、その犬が知略を巡らせて自分の喉元に食らいつくなんて想像もしていなかったのだから。
「がっ、あっ、ひぁッ!! だんじゃぐじゃマ──」
バタバタと手足をもがかせていた燕尾服の男は、喉に溢れかえった血でゴボゴボと溺れ返り、やがて身動ぎしなくなった。
「この、駄犬がッ!」
雷鳴のような音が響いた。その銃弾は本来の照準であった頭から逸れ、足を吹き飛ばした。しかし動物の動きを封じるには十分すぎた。
「こいつめッ!」
男爵は火筒の先で犬の顔を叩いた。犬は呻き声一つ上げる事なくその折檻の全てを甘んじて受け入れていた。
「はあ、はぁ……思い知ったか!」
そう言って顎を蹴り飛ばした男爵がぐるりと燕尾服の男に振り返った瞬間だった。
「は……あぁっ?」
男爵の胸に衝撃が突き抜けた。滲み出す血の全てを服が優しく受けていた。
「おま、おまえ、なん、で……?」
「お前ガ知る必要は、ない」
燕尾服の男は、死体のように冷たい瞳で地に伏した男爵を見下ろした。
……それからしばらくして。燕尾服の男は腐敗の進んだ男と、地主の娘とを掘り下げた地面に安置した。
「……もう誰もお前たちヲ引き離す者はいない」
結ばれた手の上に土をかぶせ、燕尾服の男は二人を地中に隠した。
焼き払われた森は降った雨によって鎮火され、自然に火葬された男爵の死も事故と語り継いでくれた。
風の噂に。男爵家はお取り潰しになると聞いた。燕尾服の男は、首元の歯形を隠すべく、スカーフを巻き込み、その下で小さくそっとほくそ笑むのであった。




