②
女の住まう寒村には雨が降っていた。ぽつ、ぽつとイラクサの葉を叩くことを繰り返していた雨は、次第に土を跳ね除けるほど激しく降り出した。
村の中でも特に立派な敷地と牧場を持つ家の中へ入り込んだ女は、ブラウスに染み付いた雨水を簡単に絞り落とすと、そのまま暖炉へと向かった。
そこへのそりと一定の間隔で足音を鳴らしながら近づいてきたのは中年の男だった。その男は立ち止まれば仁王立ちをしながら、女へ鋭い視線を送った。
「エリーゼ、また墓地に行ってたのか?」
「……パパには関係ないでしょ」
降り出した雨で冷たくなった空気は、一層室内を寒々しくさせた。パチパチと火花を散らしている暖炉の火ですら縮み上がったように震えた。
「地主の娘としての自覚はないのか。死んだ農奴なんかにうつつを抜かして」
「地主の娘としての自覚、ですって……?」
暖炉にあたって背を向けていた女はゆらりと立ち上がれば、思わず背筋も凍りつくような冷ややかな目で父を見据えた。
「それって何? お母さまみたいにご貴族様に充てがわれて、かわいがってもらう覚悟ってこと?」
「うっ……」
仇敵を睨め付けるような憎悪の視線にはさすがの父親もたじろぐより他なかった。しかし面子を重んじて固唾を飲んで踏ん張った父が「女の癖に生意気な口を」と息巻こうとしたものだから、女は畳み掛けるように言葉を紡いだ。
「それでお母さまは自害をなさったわ。そのお詫びの気持ちとして更に土地をもらったのよね? 次はどこが欲しいの、言ってみてよ!」
「…………」
図星を突かれてか、はたまた言葉すら失ったか。女の父は視線を逸らして部屋の隅へと視線を逃すと、口惜しそうに下唇を噛み締めた。
「地主、地主ってバカみたい。結局はご貴族様方の小間使いでしょ」
「エリーゼッ!」
湿気の高い部屋に乾いた音が響いた。女は父に頬をぶたれたのだ。しかし空のような青い瞳はその気高さを失わず、暖炉の火よりもなお情熱的に燃え上がった感情は、女の瞼の奥を沸騰させ溢れさせた。
「パパなんか……」
続く言葉を言ってしまえば、元には戻れないことを女は知っていた。
しかし母の死と、想い人の死と……もう二度と取り戻せない尊い命を思えばこそ、それを軽んじた父の言動は到底許せるものなどではなく、沸々と湧き続ける感情を蓋することは容易でなかった。
「パパなんか、だいッきらい!」
「エリーゼ、待ちなさい!」
堪らず豪雨のなか飛び出した女は、父の呼び止める声すら振り切ってただがむしゃらに森の中へと向かっていった。
目的があったわけでもない。ただささくれた枯れ木の目立つ森が、どこか中身のない自分と似ていたからだったのかもしれない。
どこへともなく駆けだしたものの、どれだけ泣き叫ぼうとも、黒雲のように靄のかかった気持ちは瓶詰めされた気泡のように抜け出ることはなかった。
もはや頬を流れているのか雨なのか涙なのか分からなくなった頃、女はようやくその足運びを遅らせると、そのまま立ち止まった。
目に溜まった涙をこぼさないように上を向いたのは父に対するほんのすこしの反発心からだろうか。しかし次の瞬間には言葉にならない思いの丈が、代わりに声となって口から溢れ出した。
「あっ……うっ」
トボトボと空を仰ぎながら歩けば木の根に足を引っ掛け、女は抵抗虚しく胸から着地した。
「うっ……」
肺を圧迫されて無理矢理押し出された息はその勢いを声帯だけで留めることなどなく、鼻の奥と口内で暴れてから出ていった。
何をしているのだろう、と女は自問した。庶民が身につけるにはすこし上等なブラウスも、泥水をすすってはその品位も失われてしまった。
悲しみでぐしゃぐしゃに歪んだ顔は水たまりなどまるで気にする様子はなく、あれほど力強くぬかるんだ道を蹴り出していた足も立ち上がろうとすれば力を貸してくれはしなかった。
──……このまま消えて無くなってしまいたい。
声もなくそう願った。力無く地に触れる手の先で草木絡む茂みが揺れ動いたことを確認すると、野犬の存在が女の脳裏を掠めた。
ただ命の危機に瀕してなお女は抵抗を見せなかった。
このまま食われ排泄されて彼の眠る土となるならそれもいい。そんな言い訳じみた言葉で無理矢理自分を納得させると、やがて──、
(デイヴィッド。わたしも、今……)
冷たい雨の降る中で。エリーゼの霞みゆく視界は、重たい瞼に蓋をされ、雨音だけを向こう手に聞けば、意識は遠く立ち退いていった。




