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屍に生きる  作者: 水落護


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1/5

 その男はろくすっぽ整備もされていない街道を歩いていた。


 墓地からの帰りだった。とは言っても、男は墓参りをしてきたわけでも、墓地の清掃をしてきたわけでもない。ましてや、彼は管理者でも関係者でもないのだ。唯一の接点があるとするならば、服にこびり付いた泥が墓土であることぐらいだろう。髪や服はひどく傷んでおり、肌には生命を感じさせる赤みなどまったくなかった。


 男に体温などはなく、濁った瞳はただ日常の延長線上を辿るように虚空を見つめるだけで、どこへともなく気の向くまま歩き続けていた。


 鳥すらも彼を生物とは認識しておらず、その男がぴたりと足を止めれば羽休めに利用する有り様だ。そんな男が歩けば、最初は警戒心などまるで見せなかった小動物たちもいよいよおかしいと感じて逃げ出す始末であり、立ち並ぶブナの木も風に語られればひそひそと陰口を叩くようにざわめいた。


 そんな木々に足元を掬われても、男は一つの声も上げやしないし、顔から地面へ向かっていく。しかし人目もなければ気にする必要などないのだ。男はゆるりとした動作でむっくり立ち上がると、土埃を払うこともなく再び前へ歩き出した。


 だが、人目に触れれば怪しい事に間違いはなかった。やがて──男は、その足をピタリと止めて息を止めた。


 目の前からうら若き乙女がこちらへ向かって歩いてきたからだった。女は抱える花束よりも美しかった。黄金色に輝く小麦畑のように美しいブロンド。雪解けした水を思わせるほど澄んだ肌は遠目に見ても目を見張るものがあった。


 それに引き替え、男はどうだろうか。劣化の激しい穴だらけの麻布のボロに、浮浪者よりもなおひどい髪。何より──その土気色の肌から放たれるひどい悪臭は、およそ人が放って良いものではなかった。


 男は思わず薮の中へと身を隠した。木陰の中で息を殺して、身じろぎ一つもせずに。女の過ぎ去る事だけを、ただ待った。


 近くで見れば見るほど美しい女だった。風に乗ってきた鼻腔をくすぐる心地よい香りに、男はどこか懐かしさを覚えた。しかし思い返せど確実に面識などというものはなく、手繰り寄せた記憶の中でもその姿は微塵も浮かびやしない。

 木陰の中で熟考する中、そこで男は、はたと考え至った。


(──これは、前の持ち主の記憶(もの)ダ)


 〝ネクロダイバー〟と呼ばれる者がいる。いつ頃から存在するのかは誰も知らない。ただ、生まれた時から生者ではなく、生ける屍として過ごすことを強制された──もはや御伽噺おとぎばなしでしか語られることのない、今では空想上の存在として口伝される『伝説上の生き物』だ。


 死んでいるのに生きているとはまたおかしな話であるが、いつ生まれたのか、どうやって生まれたのか……幾百の年月を過ごしてきた男は、そんな遥か昔のことなど、とうに忘れてしまっていた。


 その男が覚えていた事は、人に見つかれば住処(、、)を追われるのだという事。そして、狂ったように、追い回されるのだという事。そのふたつだけであった。であれば、見つからない事は彼にとってトラブルを避ける為の絶対的な条件であり、極力関わりを持たないのが生きる(、、、)為の定石と言えた。


 男は、女が過ぎ去った後、こっそりと人目を避けて森の中を突っ切ろうと考えた。障らぬ神に祟りなし、ときびすを返した。これが正しい判断であった。


 ────……はずだった。


「お墓が荒らされてる……猪かしら」


 男は女の後をつけた。その女が来たのは、男が新たな生を得た場所であった。女が悲しげに瞳を揺らす姿に、男の胸はねじ切れんばかりに締め付けられた。

 男が墓穴から這い出た事で荒れた土を、女は獣の類が墓を荒らしたのだと勘違いしながら、周りにあぶれた土を(なら)していった。


 男は、白く細い指が土に侵され汚れていく様に、歯痒さを感じた。足が藪から先へと踏み込もうとするのを必死に堪えた。本能とは別に襲い掛かる感情に、必死に抗っていた。


 曲がった墓標と墓土を戻した女は、傍らに置いていた花束を取り上げると、盛り上がった土の上に、添えるように安置し、胸元で十字を切ってから合掌をすると、静かに黙祷した。


「あなたがいなくなっても、私は強く生きています」


 祈りの所作を済ませた女の言葉に、男はなぜか胸を撫で下ろした。だが、そうして初めて疑問を持った。なぜ自分はこのように人の言葉一つに気持ちがざわめいてしまっているのか。こんなことは今までになかったのだ。どこか不思議な感覚に男が頭を悩ませていると、女は突然いたずらに笑った。


「──なんて言えたら。すこしはあなたを安心させられるのかな」


 男は首を傾げた。どういうことだろう、という疑問がその脳内を駆け巡っていた。


「私はちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、あなたを憎んでます」


 ドクン、と止まった心臓が跳ね上がるのを男は感じた。


「あなたは私の身を助けてくれましたが……心までは救ってくれませんでしたね」

「アっ、ウっ……」


 藪の中で、男は石を引っ掻いたようにちいさな弁明のうめき声を上げた。すぐに口を手で塞いだものの、幸か不幸か女には届いていなかったようだった。


「ひどい人だわ…………私はあなたのことを忘れられやしないんですもの」


 女はそう言って一息つくと、風化して痛んだ木製の墓標をざらりと撫でた。


「デイヴィット……ほんとうに、ひどいひとだわ……ッ!」


 女は墓標にすがって泣きついた。玉粒ほどの涙が頬を伝ってはボロボロと墓土に染み込んでいった。伸ばした手がもう届かぬのだということを知った男は、そっと腕を引き寄せては茂みの奥へと姿を隠した。


 それからというものの、女を草葉の陰から見守る日々が続いた。自分がデイヴィットなのかは分からない。ただ胸のつかえにもどかしさのようなものを感じ、自然と追いかけていた。この場を離れなければいけないと、遠くで警鐘の鳴るのを感じながらも、男にはどうしても彼女を見過ごす事ができなかったのだ。


 女は相変わらず墓前で憎まれ口を叩いていた。それもひどく悲しそうにだ。


 きっと本当に言いたい言葉はこれではないのだろう。男はそれをなんとなく理解していた。なぜなら決まって最後にはこう言うからだ。


「今すぐ、あなたに会いたい……」


 それを聞くたびに胸の内に喜びと焦りとが揺れ動くのを感じた。

 男は次第にどちらが本当の自分の心なのか分からなくなってきた。


 ある日男が森の中を歩いていると老齢の男の死体を発見した。死後からそれほど時間は経過しておらず、反り立った壁を見上げれば崖から足を滑らせて転落したのだろうということは容易に見てとれた。


 その事実自体は男にとって何の関心もなかったものの、その男が羽織っていた外套が比較的損傷もすくなく、最近男の中に芽生え始めていた、ある目的を果たすために利用できると考えた。


 思い立ってからの行動は早かった。全身を骨折してぐにゃぐにゃになった死体から外套だけを引き剥がすと、男はその場を後にした。

 後ろで犬の鳴く声が聞こえたものの、特に気にはならなかった。

 今の男の脳裏にはたった一つの目的しか映らなかったのだ。


 ──あの(ひと)を救いたい。


 これで姿を隠すことができる。そして自分は人と関わることができるのだ。あの濡れ顔からそっと涙を拭い去ることができるかもしれない。

 男は自然に胸を高鳴らせていた。

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