幸せの絶頂で
枕に顔をうずめて、身体を縮こまらせて。
カーテンを閉めきった暗い部屋で、今日も思考を閉ざし続ける。
これは悪い夢だと。そう信じて目を開けるたび、突きつけられる現実におかしくなるから。
青い瞳に、金色の髪。雪みたいに真っ白な肌。
鏡に映る美少女に絶望したのは、もう何日も前のこと。
私を心配そうに覗き込む両親も、私の手を握る
婚約者も、そして私自身も。何もかもが記憶とは異なっていた。
私の記憶────
それは、地球の日本の東京の、普通の家庭で生まれ育った二十七年間。口数は少ないが優しい父と、朗らかだけど涙もろい母に、沢山の愛情をもらった。
一重の目と、真っ直ぐな黒髪に黄色い肌。両親譲りのいかにも日本人なその容姿を、私はとても気に入っていた。
仕事もプライベートも楽しい。同僚にも友人にも恵まれ、大学時代からの恋人とは婚約したばかりだった。
それなのに……
何故あの日、いつもとは違う道を選んでしまったのだろう。
何故あの横断歩道を渡ってしまったのだろう。
鈍い衝撃と乱れる視界。
目を開ければ、お城みたいな天井が私を見下ろしていた。
貴族令嬢『リネット・ペレス』
そう言われても戸惑うばかりなのは、彼女の記憶が全くないからだ。
階段から落ちて頭を打つまでの十七年間、この頭は、身体は、どのように過ごしていたのか。
最初は一日中泣いて、その内泣き疲れて、今はこうして眠ってばかりいる。
口も利けない、食事も摂れない。そんな自分へ向けられる愛情と葛藤を、ただ気持ち悪いとすら思ってしまう。本当の家族でも、婚約者でもないくせにと。
だけどその内、どうしようもなくお腹が空いて。お粥を一匙食べたのを皮切りに、身体が生を求め始めた。
まだ十七歳のリネット。生きたいに決まっている。
壊しかけてしまった大切な身体に謝りながら、しょっぱいスプーンを夢中で運んだ。
日本に遺してきた両親は、愛する一人娘を失い、どんなに苦しんだだろう。どんなに苦しませてしまっただろう。
胸が張り裂けそうな自責の念は、自然と双方の両親を重ね、受け入れられるようになってきていた。
けれど、婚約者のイアンは血の繋がらぬ他人であり、どうしても拒絶感が拭えない。
私の胸には今も、愛する婚約者がいるのだから。
体格が良くて、大きな口で私の作るご飯をガツガツと食べてくれた彼。
小さな目をくしゃりとさせては、不器用な仕草で愛を伝えてくれた彼。
全然カッコよくないし、頼りないところもあったけど、どんな姿も全部愛していた。
イアンは彼とは全然違う。絵に描いたような美丈夫という点だけでなく、女性への気遣いに長けたスマートな仕草。それはいかにも貴族の令息然としている。
許嫁同士という二人の仲がどうだったのか、訊かないし誰も口にはしないけれど。『記憶喪失になった』リネットに対して、適度な距離を保ちつつ、紳士的に接してくれていた。
もしもあの人だったら……きっと、もっと感情を露にするだろう。どうか自分を思い出して欲しいと、泣きながら懇願するかもしれない。
そんな風に比べては、余計にイアンを受け入れられなかった。
何より受け入れられないのは、そんな最低な自分だった。
負担に感じない程の小さな贈り物を手に、毎日顔を出すイアン。張りつけたような笑みで当たり障りのない会話をする彼に、こちらも最低限の礼儀で返すのが精一杯だ。
会う度に重苦しくなる雰囲気。耐えきれなくなったのか、今日は彼から思わぬ誘いを受けた。
「庭を散歩をしませんか?」
こちらの世界にも四季があるなら、今は春だろうか。
頬を撫でる風はぽかぽかと暖かく、花も草も色とりどりに微笑んでいる。
自分とはまるで対照的な明るい景色。ずっと屋敷に閉じこもっていた為、柔らかな陽差しさえも、針となって心身をつついた。
特に何を話すでもなく、適度な距離で歩き続ける彼。
早く部屋に戻りたい……
そればかりを考えている内に、いつの間にか広い池の前に立っていた。
青い水面に光を揺らめかせながら、心地好さそうに泳ぐ魚。羨ましくて、つい覗き込んでしまったそこには、『自分』とは似ても似つかない少女が映っている。
鏡を見ると取り乱す私の為、屋敷中から、姿を映すあらゆる物が隠された。それなのに……
ふいと顔を背け、苦しくなる前に深く息を吸う。
大丈夫、これは私じゃない。
本当の私は、今もあの町で、愛する人達と生きている。
はあと吐き出し、身体を震わせていると、奇妙な音が耳に飛び込んできた。
パシャッ、パシャ、パシャ、パシャン
何かが跳ねるような、リズミカルな水音。
何度も繰り返されるものだからさすがに気になり、なるべく下を見ないようにしながら、池に視線を戻した。
パシャ、パシャン
遠くの水面を、小さな波紋が駆けてゆく。
どこか懐かしい景色に目を細めていると、隣から「あーあ」と声がした。
「失敗したな」
彼はそう呟き、ポケットから出した手を、低い位置から振りかざす。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャリ
「うーん、三回以上は難しいな」
首をひねるイアン。パチリと目が合うと、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「やってみますか?」と訊きながら、答えも待たずに温かな何かを私に握らせる。冷たい掌を開けば、そこには丸くて平たい石があった。
「水切り……」
口から勝手に漏れた言葉に、イアンの目がキラリと輝く。
「はい。貴女はとてもお上手なんですよ。最高で七回……いや、八回だったかな」
「いいえ、十回です」
小学生の時、近所の川で何度も遊んだ記憶から出た言葉。
けれど、それだけではない気がした。
白い霧を払いたくて、私も低い位置から手を振りかざす。
パシャ、パシャ、パシャ、パシャッ、パシャン
身体が鈍っているのか、たったの四回しか跳ねてくれない。もう一度やりたいと言う前に、彼は新しい石を握らせてくれた。
五回……六回……ついに八回まで成功したところで、へなへなと座り込む。
細かく跳ねては、一直線に連なるような波紋。それは私に、霧の向こうの記憶を呼び起こさせた。
貴族の一人娘として生まれ、両親から有り余る程の愛情をもらい、何不自由なく育ったリネット。
木に登ったり、池に飛び込んだり。散々なおてんばぶりで、ハラハラさせては叱られていた頃、将来我が家の婿になるという許嫁に出逢った。
一つ歳上の彼は、私に負けず劣らずのわんぱくな令息。しょっ中何かで競い、喧嘩をし、笑い合って。許嫁というよりは、ライバルであり遊び仲間といった感じだった。
成長するにつれて、背丈も力も、私を簡単に追い越していく。そんな中、唯一私が勝ち続けていたのは、この水切りで。
幼い頃は、自分が勝つ為にと磨いていた特別な石を、いつしか私に分けてくれるようになった。
その優しさに気付いた時から、ライバルでも遊び仲間でもなく、彼を異性として意識するようになったのだ。
「イアン…………」
久しぶりにその名を呼び、ぼうっと見上げれば、彼の顔がくしゃりと歪んでいく。
隣にふらふらと腰を下ろし、はあと身体を震わせた。
「……やっと思い出したかよ。ばぁか」
貴族らしからぬ口調と共に、涙が一筋、綺麗な頬を伝った。
◇
もし記憶が戻らなければ、貴方はどうしていたのか。そんな問いに、イアンはキッパリと答えた。
『私達の婚約は家同士の契約であり、個人の感情で簡単に解消出来るものではない。それに、私以上に貴女を愛し、守り抜ける男はどこにもいませんよ』
そう言って強引に結婚するつもりだったと。
では、『リネット』を忘れたまま結婚していたら、私はどうなっていたのか────
時間は掛かっても、いつかは必ずイアンを愛していた。
ややこしい頭ではなく、心がそう答えてくれた。
毎朝、目を覚ます度に、不安気な顔に見つめられる。
大丈夫よ、覚えているわ、愛しているわと、何度も触れ合っては、ようやく安心してくれる夫に胸が痛む。
どれだけ傷付けてしまったのだろう。
どれだけ悲しませてしまったのだろうと。
罪悪感はくっきりと爪を立てながらも、前世と今世を彷徨ったあの日々は、霧の中に埋もれようとしている。何故なら、一時はあんなに鮮明だった前世の記憶が、水っぽい絵の具のように薄れつつあるからだ。
今ではもう、愛する両親の顔も、婚約者の顔も思い出せない。大切な自分の顔も、名前だって。
それでも、沈みゆく夕陽に切なくなるのは……
堪らなく幸せで泣きたくなるのは……
私の中に、二つの記憶が在るから。
沢山の愛が混ざり合い、私にしか見えない色を織り成しているからだと、そう思う。
今夜も妖精の光が飛び交う池に、懐かしい何かの光を重ねる。
刹那の煌めきに熱くなる瞼を、愛しい夫の肩へ預けた。
ありがとうございました。