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協力者

 夜の帝都は冷たい霧に包まれていた。

 街灯の光がぼんやりと霞み、石畳の上に影を滲ませる。

 軍大学の裏手にある兵舎の一角――そのさらに奥まった廊下の先、普段は使用されていない応接室の扉が小さく開いていた。


 グレゴール・ヴァルターはその室内で、薄い煙の漂う空間に身を置いていた。


 窓は閉ざされ、灯りは一つ。

 机を挟んで向かい合う男が、くゆらせた煙草を手に、無遠慮な目でこちらを見ていた。


「それで、あなたから依頼されていましたあの令嬢のことですが……」


 カミユ・シェリング。

 帝国諜報部第三課に所属する男で、ヴァルターとは古い付き合いだった。


 短く切り整えられた金髪にいかにも優男といった風情。

 一見すれば軍などとは無縁のごく普通の勤め人といった風情だったが、情報の収集と分析においては軍部でも指折りの実力を持っていた。


 ヴァルターと同じく下層階級の出身であり、スラム街で育ったという点では共通していたが、彼は孤児ではなく、娼婦の母親と共に生き延びた過去を持っていた。


 そのことをカミユ自身が語ることは少ない。

 だが、同じ泥の中を知る者同士として、二人の間に言葉以上の信頼が築かれていた。


「……どうだった?」


 ヴァルターの問いかけに、カミユは煙草を灰皿に押しつけ、肩をすくめる。


「一言で言うならば完璧、ですね。お手本のようなご令嬢です」


「……完璧?」


「ええ、礼儀正しく、周囲の評判も上々。学業の成績も悪くなく、奉仕活動にも参加してる。

 しかも名家の娘という立場でありながら、それを鼻にかけず、庶民の暮らしを知りたいという理由で労働までしている。実に感心なお嬢さんですよ」


 そこまで言うと、カミユはわざとらしく笑って首を傾げた。


「――ですが、逆に言えば、不自然すぎますね」


 ヴァルターは静かに視線を向けた。


「どういう意味だ」


「友人がいない。浮いた話もない。何年も前から模範的な振る舞いを崩したことがない。

 人間らしい揺らぎが彼女にはまるで見受けられない」


 カミユの口調は冗談めいていたが、その目は鋭かった。


「ガラス細工のように丁寧に作られた工芸品――演技にしては長すます。最早それは役作りすら通り越して、そういう生き物になってしまっている。

 だから、何が本音で、何が虚構か……外からはまるで分からない」


 その言葉に、ヴァルターは沈黙で応えた。


 彼自身、感じていた違和感。

 ドリス・アーデンという少女の、無垢なように見えて計算された距離感。

 純粋に見える瞳の奥に、何があるのかを読み切れなかったこと。


「……だから、調べさせた。俺の感覚が間違っていないかを確認するためにな」


「さようでしたか。それで、いかがでした、あなたの感覚との答え合わせは」


 カミユの問いに、ヴァルターはわずかに目を伏せた。


「……彼女は、恐ろしいほどに正しい。だからこそ、怖い」


 それは告白にも似た言葉だった。


 軍人としての直感が告げていた。

 彼女がただの善良な少女ではないことを。


 彼女の視線には、感情と計算の両方が混ざっている。

 まるで、他人の心を観察するように見つめながら、愛おしげに微笑んでくる。


 それが、無垢という仮面をかぶった無意識の狂気である可能性を、彼は排除できなかった。


「いやあ、なるほど、なるほど。やはりあなたは人を見る目がありますね」


 カミユは鼻を鳴らして笑った。


「ですが、それならどうして会ったんです? 縁談の席で顔合わせするなんて、らしくもないことをしましたね」


「……彼女の祖父、ルートヴィヒ元帥には恩がある。

 礼を欠くわけにはいかなかった。それだけだ」


 ヴァルターの答えは冷静だった。

 だが、カミユはふっと笑って、今度は皮肉っぽい目を向けてくる。


「グレゴール、私はね、人を愛するという感覚はよくわからないんですよ」


 それは、冗談のようで、どこか真実だった。


「生まれつきそれが欠落してるのか、あるいは母親の仕事のせいなのか……。

 どちらでもいいですが、とにかく私は愛する、という心が理解できない。

 ですが、あなたは違う。

 愛する、ということの意味を理解している。

 だからこそ、誰かを愛して自分の決意が鈍ることが恐ろしいんでしょう?」


 ヴァルターは、それに答えなかった。

 ただ、静かに天井を仰ぎ見た。


「……俺は、自分の理想に殉ずると決めた。

 その道の先で、誰かを巻き込むつもりはない。

 ましてや、利用する気など……なおさら、ない」


「理想ですか。いや、なんともお美しい」


 カミユは煙草を新しく取り出し、ライターで火を点けた。

 煙がふっと揺れ、二人の間を隔てるように立ち昇った。


「ですが、気を付けた方がいいですよ、グレゴール。

 その理想の行き先、とてもまっとうな幸福につながっているとは思えませんから」


「……ああ、わかっている」


 ヴァルターは立ち上がり、コートの襟を正した。

 席を離れる前に、カミユの言葉がもう一度響いた。


「ああ、そうそう。アーデン元帥のお孫さんですが……どうやら、体調を崩していたようでしてね。

 バイト先のカフェをもう3日も休んでいるそうですよ」


 カミユはそう言い終わると、ゆっくりと煙草の煙を吐き出していた。

 ヴァルターの眉根に皴が寄るのを見つめて、カミユは小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。


「ほら、そうやって。

 よした方がいい、私もあなたも結婚なんて向いてないんですから」


 ヴァルターのその反応を面白がるかのように、カミユは笑っていた。

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