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空虚な器

 軍大学での生活は、前線に比べれば穏やかだった。


 銃声も、爆音もない。

 硝煙の臭いはせず、血に濡れた報告書を書くこともない。

 けれど、ヴァルターにとってここは、やはり戦場だった。


 講義と演習。戦略図の解析、経済と補給線に関する論文。

 毎日が過去の戦例と未来の想定に追われる中で、彼の生活には一切の無駄がなかった。


 朝の食事は軍大学の裏にある簡素なパン屋で買った黒パン一切れとリンゴ。

 昼は課題の合間に干し肉をかじり、手元の水筒で飲み下す。


 周囲の同期たちは、講義の後に学生食堂で温かなシチューを食べたり、談笑したりとわずかな自由を楽しんでいた。

 だが、ヴァルターはいつも壁際のベンチに一人座り、課題を見返すことを選んだ。


「おい、ヴァルター。お前なあ……常在戦場にもほどがあるぞ」


 同期の一人が肩をすくめて言うと、周囲からも小さな笑い声が起きた。


「抜け目ないのはいいが、少しは休まないと壊れるぞ。お前まで修理部隊行きじゃ洒落にならん」


 ヴァルターはその言葉に返事をせず、ただ乾いた干し肉を噛み砕いていた。

 鋭く、しなやかな動作――それはまるで、口からも思考からも余白を排除するように見えた。


(……無駄な時間など、今の俺には存在しない)


 この軍大学を経て、佐官に昇進すれば、自らの提言が軍政の机に上がるようになる。

 そしていつか、もっと上に。中枢に。


 無名の孤児だった少年が、今や帝国の軍事構造を変え得る立場へと手を伸ばそうとしている。

 それが、彼の生きる理由だった。


(声を届けるために、まず力を得なければならない)


 その信念だけが、彼のすべてだった。


     ◇


 その日も講義を終え、ノートと書類を鞄にしまって外に出た時のことだった。


 正門のすぐ外――学生たちの往来の向こうに、どこか見覚えのある姿が立っていた。


 栗色の髪、控えめなスカート、そして両腕に抱えた小さな紙箱。

 ドリス・アーデンだった。


 彼女の表情は、少しだけ緊張しているように見えた。

 それでも、目が合うと柔らかく微笑み、歩み寄ってくる。


「こんにちは、大尉……いえ、今日は授業お疲れさまでした。少しでも、甘いものでもと思って」


 そう言って、紙箱の中から取り出されたのは、焼きたてのマフィンだった。

 見た目にも綺麗に焼かれており、優しい香りが風に乗って届く。


「講義でお疲れだと思って……よかったら、どうぞ」


 ドリスの声はいつも通り控えめで、けれどどこか期待がにじんでいた。


 だが、ヴァルターの目は、一点に鋭く向けられたままだった。


「……それは、他の学生全員にも配るものなのか?」


 その一言に、ドリスのまつげがわずかに震えた。


 マフィンを持つ手が、ぴたりと止まる。


「え……いえ、それは……その……」


 返答に詰まった彼女を見据え、ヴァルターは無慈悲にも言葉を続けた。


「ならば断る。俺は特別な思いを向けられても、答えるつもりはない。……迷惑だ」


 その声音に感情はなかった。

 けれど、明確な拒絶が込められていた。


 ドリスはしばらく、その場から動けなかった。

 目の前の男性が放った言葉の意味を、頭では理解できても、心が追いつかなかった。


「……ごめんなさい」


 それだけを呟いて、彼女はそっと踵を返した。

 その姿を、ヴァルターは追わなかった。


 罪悪感がなかったと言えば、嘘になる。

 おそらくは、ドリスが純粋な善意からマフィンを焼いてきたのだろう、ということくらいはヴァルターにも理解ができていた。

 それを迷惑だ、と斬り捨てることで彼女の心がどれほど痛んだか、分からないほど、ヴァルターは冷酷な人間ではなかった。

 だが、それでも誤った希望を与える方が、よほどドリスを傷付けるだろう。

 半端な優しさで、その場しのぎの笑顔を与えれば――ドリスはおそらく、また同じことを繰り返す。

 ヴァルターの関心を引くために、ドリスはより一層の献身を積み重ねようとするだろう。

 ならばいっそ、ここで彼女に完全に自分に関心を失ってもらった方がいい。

 憎み、恨んで、二度と彼女が自分に近寄らないことこそが、ドリスの幸福につながるはずだとヴァルターは信じるより他なかった。


     ◇


 カフェ「エトワル」に戻ったのは夕方近くだった。


 店の扉を開けると、いつもの鈴の音が控えめに鳴り響いた。


「あ、ドリスお姉ちゃん!」


 店内から元気な声が飛んできた。

 カウンターの隅にちょこんと座っていたのは、アンナの娘・ミーナだった。


 まだ小学校にも上がらない年齢の少女は、ドリスの姿を見るなり笑顔で駆け寄ってきた。


「おかえりなさい! いい匂いする?! なにそれ、なにそれっ」


 紙箱を覗き込んだミーナの目が輝いていた。

 香ばしい甘い匂いに誘われて、箱の中のマフィンへと視線が釘付けになる。


 ドリスは一瞬だけ戸惑った後、微笑んで箱を差し出した。


「おやつに作ったんだけど、ちょっと作りすぎちゃって……よかったら、ミーナちゃんもどうぞ」


「ほんとに? やったー!」


 ミーナは小さな手でマフィンを一つ掴み、嬉しそうにかぶりついた。

 その顔がぱっと華やぎ、甘さに頬を染める。


「おいしい?! ふわふわであま?い!」


 その様子を、ドリスは優しく見つめていた。

 けれど、その胸の内は空白だった。


 笑顔の仮面の奥、芯の部分は冷たい沈黙で満たされていた。


(……なにも、残らなかった)


 拒絶されたこと自体は、想定していた。

 けれど、言葉がここまで冷たいものになるとは、どこかで信じたくなかった。


 それでも。


 それでも――彼の口から「迷惑」と言われてなお、自分はまだ、彼のことを好きだと思っている。

 だからこそ、どこか自分自身に嫌気が差す。


(だったら、なぜまだ私は笑えるの?)


 彼の笑顔が欲しかった。

 ありがとうと、ただそれだけを聞けたら、満ちると思っていた。


 だが現実は、胸の奥にぽっかりと穴をあけて去っていった。


 ミーナがマフィンを両手で抱えて笑っている。

 その姿を見ながら、ドリスは同じように微笑んでみせた。


 だがその表情の裏で、何も感じていない自分に気づいていた。


     ◇

 

 カフェ「エトワル」の厨房の片隅に、ひとつの椅子が置かれていた。

 ドリスはその椅子に腰を下ろし、まだ温かさの残る紅茶を手にしたまま、静かに窓の外を見つめていた。


 空は薄曇りで、白とも灰ともつかぬ色に沈んでいる。

 いつもは喧騒に満ちているはずの裏通りも、今日はどこか静まり返っていて、まるで世界が声を潜めているかのようだった。


 その静寂は、ドリスの内側とよく似ていた。


 カップに口をつける。けれど、温度も香りも、舌に何ひとつ残らなかった。

 飲み込んだのが茶だったのか、それともただの白湯だったのか、それさえ曖昧なまま、喉の奥へと落ちていった。


(……なにも感じない)


 それが、ドリスが今、自分の中で確かに理解していることだった。


     ◇


 父の顔は知らない。


 生まれる前に戦死したと、母から聞かされた。

 そのとき、母はあまり泣かなかった。

 けれど、夜になると声もなく、うつむいたまま手帳に何かを書き続けていたことを、幼いながらに覚えている。


 その手帳には何が書かれていたのか――母は決して見せようとはしなかった。

 そのページをめくることなく、彼女はいつしか弱っていった。


 煤煙に満ちた帝都の空気が、病弱だった母の身体を容赦なく蝕んでいた。

 医師は療養地への転居を勧めたが、アーデン家の事情から母子での転居は叶わず、結局、母は郊外の療養所へと一人で送られることになった。


 あれは、ドリスが八歳の春のことだった。


 荷造りの最中、母は何度も咳き込みながら、か細い笑みを浮かべていた。

 呼吸のたびに肺が軋むような音を立て、それでもドリスの髪を梳かしてくれた。


 別れの朝、薄いガーゼ越しの手で、母はドリスの頬をなでて言った。


「ドリス……いい子でいてね。おじい様の言うことを、よく聞くのよ」


 その言葉は、命令ではなかった。

 けれど、ドリスにとってはそれが最後の指針となった。


     ◇


 それからの人生は、たった一つの答えをなぞるだけだった。


 いい子であること。


 祖父のルートヴィヒ・アーデンは、厳格で不器用な人だった。

 戦場に生き、規律に生き、国家と軍を背負う者として、孫娘に感情的な言葉を投げかけることはほとんどなかった。


 だが、その代わり、教育だけは徹底していた。


 言葉遣い、所作、品格、学問。

 名家の令嬢にふさわしい人格と振る舞いを叩き込まれた。

 幼い頃から、祖父の表情をうかがい、怒らせない言動を選び、常に“正解”を探しながら生きてきた。


 けれど、不思議と苦ではなかった。


 そうすることが、母の願いだから。


 それだけで十分だった。

 寂しくなかったわけではない。

 愛されたかった。抱きしめてほしかった。けれど、それは贅沢な願いだと自分に言い聞かせていた。


 だからこそ、ドリスは役を演じるようになった。


 名家の令嬢として、清楚に。

 人に優しく、感情は乱さず、控えめで、物静かで、知的で。

 人から好かれるような、誰からも愛されるような存在として。


 それがドリス・アーデンという器の中身となった。


     ◇


 けれど。


 それが本当の自分なのかと問われれば、ドリスには答えられなかった。


 仮面なのか、それとも本性なのか。

 その境界は、いつしか完全に溶け合い、見分けがつかなくなっていた。


 人に優しくしているとき、自分が心からそう思っているのか、それとも「そうあるべき」だからしているのか。

 誰かを笑顔にしたとき、それを喜んでいる自分がいるのか、それとも「喜んでいるふりをしている自分」がいるのか――


 今では、もうわからない。


 ただ、グレゴール・ヴァルターと出会ってから、初めて器の中身が揺れ始めた。


 それが、怖くて、嬉しくて、痛くて――たまらなく愛しかった。


     ◇


 ドリスは立ち上がり、ゆっくりと厨房を抜けていった。


 客のいない店内。外は夕暮れが迫っていた。

 街灯がぼんやりと灯りはじめ、いつものように世界が夜に染まり始めていた。


 それでも、ドリスの胸の中には彼しかなかった。


(私は、なんのために笑っているのだろう)


 答えのない問いを、胸に抱えたまま。

 それでも彼の姿を思い浮かべれば、少しだけ心が温かくなった。


 そしてまた、空虚に沈んでいく。

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