運命のいたずら
帝都南部、軍大学の講義棟――石造りの重厚な建築が朝の光を受けて陰影を刻んでいた。
その中の一室。広々とした階段教室には、すでに数十名の軍人が整然と着席していた。
制服の色は様々――陸軍、海軍、工兵隊、後方支援――階級も、これから佐官への昇進を控えた者ばかり。
戦場で傷を負った者もいれば、血を浴びずにここまで昇ってきた者もいた。
だが、この場においては誰もが生徒だった。
教壇に立つのは年配の戦略学者。老齢ながら軍略と歴史に通じた人物で、教鞭をとって三十年にもなる名物講師である。
「――では、次の講義では、三重包囲戦の事例を扱う。実践で応用できるよう、各自まとめておくこと」
講義終了の鐘が鳴り、ざわついた空気が教室を包んだ。
周囲の生徒たちが筆記具を片付け始める中、その中でただ一人、まだノートを取り続けている男がいた。
グレゴール・ヴァルター大尉。
彼の背筋は一切崩れず、筆の運びも無駄がなかった。
軍帽の影から覗く眼差しは真剣そのものであり、その一点だけが、まるで戦場のような張り詰めた空気を漂わせていた。
周囲の者が思うよりもずっと、彼はこの講義に真剣だった。
軍大学での生活は、前線に比べればいくぶん穏やかで、規則も緩やかだ。
学生同士で談笑する者、酒場で夜を過ごす者、戦友と久しぶりの日常を楽しむ者――皆がそれぞれの余白を楽しんでいる。
だが、ヴァルターにとって、この数か月間は猶予ではなかった。
(ここで得る知識と地位が、俺を次の段階へと進ませる)
彼はそう信じていた。
前線で命を賭しても変えられないものがあった。
力を持っていても、組織の中では上層の声が最優先される。
ならば、自分自身がその中枢に近づかなければ、悲劇は止められない。
ヴァルターは、ただの戦士ではない。
悲劇を繰り返させない者として、ここに在る。
(俺が大尉のままでいる限り、発言は届かない。佐官になれば、変えられる可能性がある)
その一心が、彼を今日も教室に立たせていた。
◇
講義棟を出ると、広い敷地の中庭には整えられた花壇と、白い噴水があった。
学生たちが行き交う声が風に乗って届き、どこかのんびりとした空気が広がっている。
しかしヴァルターは、一切の興味を示さなかった。
彼にとって、この大学は戦場と同じく通過点であり、使命の地だった。
筆記用具をしまい、外套を羽織る。
正門に向かって歩き出した彼の視線は前だけを見ていた――
「……あら?」
不意に、声がかかった。
足を止め、ヴァルターはゆっくりと視線を向けた。
そこにいたのは、ドリス・アーデンだった。
栗色の髪をふわりと揺らし、両腕には紙袋を抱えていた。
中身は野菜と乾物、少しばかりの瓶詰。どうやら、近隣の市場に買い出しに来た帰りのようだった。
「ヴァルター大尉……いえ、ここにいらしたんですね。もしかして、何かご用事が?」
表情は驚きと喜びの入り混じったもので、どこか戸惑っているようでもあった。
それも当然だ――彼女が知るヴァルターは、前線に立つ軍人であり、学者肌の場所には縁がないように見えたはずだった。
ヴァルターは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに元に戻す。
「……ああ。少し、用事があってな」
言葉を濁す。
彼にとって、己の計画や足がかりを誰かに語る意味はなかった。
ドリスのように自分に何かを望む者には、なおさら。
もしも、ヴァルターが自分の理想についてを語り、もしも、ドリスがそれを理解してしまったら……。
自分の理想に彼女が共に歩みたいと言い出してしまったら……。
それが彼にとって、最も警戒すべきことだった。
ドリスは小さく首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
「……そうですか。大学にお知り合いでもいらっしゃるのかと」
「特に話すことはない」
きっぱりとした声だった。
それは彼の防御であり、これ以上は踏み込ませまいとする距離の示唆でもあった。
しかし、ドリスはその声にも怯まず、変わらず笑顔を浮かべていた。
(……まさか、俺がここにいることまで知られていたのか?)
ヴァルターはふと、そんな思いが脳裏をかすめた。
だが、表情には出さず、あくまで静かに言葉を重ねた。
「……君に話すようなことではない」
それは拒絶ではなく、警告だった。
ドリスの笑みが、ほんのわずかだけ揺らぐ。
だが、すぐに立て直すように、紙袋を抱え直してから、ゆっくりと一礼した。
「……はい。わかりました。大尉のお時間を取ってしまって、すみません」
その言葉に偽りはなかった。
けれど、胸の奥で何かが蠢いたのも確かだった。
◇
紙袋の中で、瓶詰のピクルスがコツンと鳴った。
手に持った荷物は少し重く、指がじんわりと痛み始めていたが、それでもドリスは不思議と疲れを感じなかった。
軽い息を吐いて足を止めた場所は、帝都南部、軍大学からそう遠くない裏通りだった。
午後の日差しはやわらかく、薄雲が空に漂っている。
春先特有の、まだ冷たい風がスカートの裾をさらっていく中、ドリスはゆっくりと目を閉じて、深呼吸をひとつ。
胸の奥が、あたたかく満たされていた。
(……ほんとうに、偶然だったのに)
彼女は、まだ信じきれていなかった。
まさか、あのタイミングで、あの場所で、彼――ヴァルター大尉に再び出会えるなんて。
カフェを閉めたあと、夜の面影を胸に眠りについた数日前から、ずっと願いのように思い描いていた場面だった。
だが、今日の出会いは偶然だった。
本当に、偶然だったのだ。
◇
いつも仕入れをお願いしている市場の老店主、ユルゲンが、昨夜倒れたとアンナが言ったのは今朝のことだった。
高齢ではあったが、頑固な性格と几帳面な商いで、地元の飲食店からの信頼も厚かった人物。
「心筋梗塞らしいけど、命には別状ないって。でも、しばらくは店を閉めるってさ。あの年じゃ無理もないよ」
そう言いながら、アンナは仕入れの帳面を片手に、困った顔をしていた。
「今日は代わりに私が行きます。いつものものなら把握していますし……何より、アンナさんにはミーナちゃんがいますから」
「……いいのかい?」
「ええ。こういうときくらい、お役に立ちたいですから」
その言葉に嘘はなかった。
店を助けたい、という気持ちも本当だった。
だが、それだけではなかった。
この地区で、あの店主の代わりを務められるような市場は限られていた。
そして、そのひとつが――帝都南部、軍大学のすぐ近くにある。
(もしかしたら、会えるかもしれない)
そんな期待は、もちろん抱いた。
だが、その可能性はあくまで祈りだった。
まさか、本当に彼が――あの大学から出てくる場面に遭遇するなどと、どうして思えただろう。
◇
「運命」――その言葉が、頭に浮かぶ。
(神様って、意地悪なくせに……ときどき、優しい)
街の雑踏の中、道端の小さなベンチに腰を下ろして、紙袋を膝に乗せながら、ドリスはそっと笑みを浮かべた。
その微笑は、誰にも見られていないという安心の中で、やわらかく、純粋で、そしてどこか、熱に浮かされているような透明さを帯びていた。
「……ヴァルター大尉が軍大学にいらっしゃるなんて。
前線から戻られた理由も……そういうことだったのね」
ぽつりと呟いた言葉は、あたたかな風に溶けて消える。
軍大学。
前線に身を置く戦士たちにとっては、一時の休息でもあり、昇進のための重要な通過点でもある。
彼のような人が、ここにいる――
それは彼が“未来”を見ているという証だった。
(やっぱり……大尉は、特別な人)
その背中は、いつだって誰かを守ろうとしていた。
自分のためにではなく、誰かのために歩き続けている。
そんな光のような人だった。
だからこそ、自分は遠くから見ているだけで満ち足りていた――
そう、思っていたはずだった。
けれど。
ひとたび声を交わせば、目を見れば、体温を感じれば――その“距離”が、耐え難くなる。
触れてはいけないとわかっていながら、心が近づいてしまう。
それがどれほど愚かしいことであっても、止められなかった。
◇
紙袋の中で、瓶詰がまた小さく音を立てた。
この市場通いも、しばらく続くだろう。
ユルゲンの店が再開されるには、少なくとも数週間はかかる。
病後の体では、昔のような朝から晩までの仕事など到底無理だろう。
むしろ、今回を機に閉めてしまうかもしれない、という噂すら耳にした。
(……なら、その間に)
市場までの買い出しを自分が引き受け続ければいい。
アンナも、ミーナの面倒で手が離せない今、進んで手を挙げれば疑いも持たれない。
むしろ感謝されるだろう。
そして、買い出しの名目があれば、いつでも自然にこの界隈に来られる。
――彼の生活圏に、偶然を装って交わることができる。
そう考えたとき、ドリスの胸にはぞくりとするような喜びが広がった。
それは決して声には出せない、背徳的な幸福だった。
自分から積極的に話しかける必要はない。
ただ、そこに居ればいい。
目に入る場所に、音の届く距離に、存在すればいい。
それだけで、十分なのだ。
(すれ違うだけでも……一瞬でも、眼差しが私に向けば、それだけで)
――それだけで、世界が意味を持つ。
再び立ち上がったドリスは、紙袋を抱え直し、ゆっくりと帰路についた。
街の喧騒が少しずつ遠ざかる中、彼女の背筋は凛としていた。
その表情には、揺るぎない確信と、静かな喜びが宿っていた。
彼女にとって、それは“幸運”ではなく、神様が与えてくれた当然の恵みだった。