祈りをつづる
玄関ホールをくぐり、静かに上着を脱いだドリスの足取りは、階段の途中で一度も止まることがなかった。
古くから続く名門の屋敷には、夜更けであってもなお侍女の気配があったが、彼女の気配を察すると誰も声をかけてこなかった。
それは彼女がそういうものだと、誰もが理解しているからだった。
いつも控えめで、礼儀正しく、何一つ文句を言わず、ただ静かに振る舞う――その徹底ぶりが、時に人を遠ざけることすらあることを、彼女自身は意識していなかった。
ドリスは自室の前に立ち、ノブに触れる。
深く吸い込むようにして息を一つ吐き、誰にも見せることのない“本当の空間”へと戻っていく。
◇
部屋の中は、ほの暗かった。
分厚いカーテンが夜の光を拒絶し、テーブルの上のランプだけがじんわりと灯っていた。
壁には絵画が飾られていた――本来ならば。
けれど今、この部屋の壁一面を覆っているのは、写真だった。
机の正面、ベッドの上、鏡台の脇、引き出しの裏側。
貼られていたのは、グレゴール・ヴァルターという男の姿ばかり。
軍服姿で行進する彼。
部下と何気ない会話をしている横顔。
戦地から帰還し、くたびれた野戦服で汽車から降りてくる姿。
夜のカフェで、湯気の立つシチューを食べている無防備な表情。
そして――今日、基地の門で自分と再会し、夜道を歩いた後ろ姿。
一枚一枚、違う。けれど、どれも同じだった。
ドリスはコートを脱ぎ、淡く微笑みながらその中の一枚にそっと指先を触れた。
ヴァルターが、何気なく書類を読んでいる写真。その視線は真剣で、誰よりも遠くを見ていた。
(……素敵)
彼の顔を、姿を、表情を、呼吸を、残らず刻みたいと思った。
その欲望は、もはや抑えるべきものではなく、日々の糧として定着していた。
彼の背中が見えるたび、心臓が跳ねた。
彼の声が耳に届くたび、肺が息を忘れた。
彼の拒絶の言葉すらも、自分を見てくれた証として、胸に焼きつけていた。
(それだけで、私は……)
幸福だった。
世界の誰にも理解されなくて構わない。
ただ彼を見て、感じて、知っていられるなら、それが生きる意味になる。
ドリスは机の引き出しを開け、革表紙の古びた日記帳を取り出した。
カバーには何の飾りもなく、色褪せている。けれど中身はぎっしりと、均整の取れた文字で埋められていた。
一日も欠かさず書き続けた、彼の記録。
今日のページを開き、ペンを取る。
あくまで自然な文字で、淀みなく書き出した。
《第187回 記録》
天候:晴れ、夜はやや曇り。気温は低め、風は穏やか。
時間帯:午後10時45分?午後11時10分
場所:帝都南基地正門前?アーデン家屋敷前まで
大尉との接触、約6分。
基地門前にて遭遇。予期せぬ出会いとなる。
表情:疲労の色あり。だが、目の下の隈は前回ほどではない。
髪は整えられていた。制服はきちんと留められていた。
会話の内容は以下の通り。
・夜道の危険を理由に護衛を申し出てくださる。
・私は一旦辞退を申し出たが、最終的に同行する。
・道中、私は少し後ろを歩く。大尉は「それでは護衛の意味がない」と注意。
・私が「見ているだけで幸せです」と答えると、沈黙があった。
屋敷前にて、大尉は明確に「結婚も愛も望まない」と宣言。
私の応答:「わかっています」
その後、大尉は背を向けて去る。私は数秒間、その場を動けなかった。
記録:本日、大尉は私の存在を「拒絶」したのではなく、「確認」しただけに思える。
言葉は否定だったが、語調には断絶よりも、自戒の色が強かった。
感情:幸福、苦痛、安堵、空虚。
それらすべてが混じっていた。
記録を終えたペンを置く。
ドリスはしばし静かにページを見つめ、そしてそっと日記帳を閉じた。
彼女にとって、日記とは「今日の自分を残すため」のものではない。
思ったことを書き連ねるための道具でもない。
それは、彼を残すための器だった。
グレゴール・ヴァルターという男の一挙一動を記録し、思考し、保存すること。
それこそが、彼女にとっての唯一無二の「幸福のかたち」だった。
この手に彼を抱けなくてもいい。
この目で彼のすべてを見られなくてもいい。
ただ、“知っている”ということが、生きる意味になる。
それが、ドリス・アーデンの信仰であり、日記とはその“聖典”だった。
彼の拒絶の言葉すら、愛おしい記述に変換される。
彼の沈黙すら、心の奥底にしまわれていく。
カーテンの隙間から、月が覗いていた。
ドリスは、壁に貼られた写真のひとつに手を伸ばす。
そこには、今日の帰り道――夜風にコートを揺らしながら歩く、彼の後ろ姿。
ピントはややぶれていた。だが、それがかえって本物のように思えた。
ドリスはその写真に口づけるように、そっと額を寄せた。
「おやすみなさい、大尉」
それは、届くはずのない祈り。
けれど、確かに幸福な夜だった。