まかないの味
──ガシャンッ。
乾いた破裂音とともに、陶器の皿が床に散った。
白く細かな破片が店のタイルに飛び散り、薄暗い照明の下で小さく光る。
それはまるで、感情の輪郭が音を立てて崩れたかのような錯覚を覚えるほど、鮮烈な響きだった。
「あっ……」
ドリスは反射的に口元を押さえた。
気がつけば、自分の手元から滑り落ちた皿が、何もない床に砕けていた。
指先に、少しだけ熱い痛み。破片の一部が、肌をかすめたのかもしれない。
その場に膝を折ろうとした彼女の背後から、柔らかい声がかかった。
「……ドリスちゃん、大丈夫かい?」
そう声をかけたのは、このカフェの店長――アンナだった。
まだ三十代の働き盛りで、芯の強さと温かさを併せ持つ女性だ。
小柄で丸顔の彼女は、厨房から顔を出し、手に持っていた布巾を棚に放り投げると、慣れた足取りでドリスの元へ近づいてきた。
「手、見せてごらん」
「いえ、ほんのかすり傷ですから……」
「かすりでもなんでも、血が出てたら問題だよ。ほら、黙って」
有無を言わせぬ調子で、アンナはドリスの手を取る。
その手には、わずかに赤くなった切り傷。けれど血は滲むほどではない。
「大事にはならなくてよかったよ。……けど、どうしたのさ。ドリスちゃんが皿を落とすなんて、初めてじゃない?」
問いかけられたドリスは、目を伏せたまま、控えめに首を横に振った。
「すみません。ほんの一瞬、手が滑ってしまって……気をつけます」
その言葉は、丁寧で整っていた。
しかしその声音には、どこか力がない。
アンナはため息をひとつ。
「……やっぱり疲れてるんじゃないのかい。いつも夜勤ばっかりお願いしてるし、最近は閉店間際までずっと働き詰めだったろ?」
ドリスはかすかに肩を揺らしたが、それでも笑みを崩さずにいた。
「私は大丈夫です。……それに、ミーナちゃんもまだ小さいですし、お母さんが側にいてあげた方が安心できますよ。夜泣きもあるって言ってましたよね?」
アンナは驚いたように一瞬まばたきし、それからくすりと笑った。
「……ほんと、気の利くお嬢さんだよ、ドリスちゃんは。悪いね、助かってるよ、ほんとに」
「そんな、私の方こそ、こうして働かせていただいて……感謝してます」
ドリスは静かに頭を下げた。長い睫毛が影を落とし、その横顔はまるで修道女のように静謐で整っていた。
アンナは「まあ、あんまり無理しないでね」と言い残し、厨房へと戻っていった。
ドリスはその背中を見送った後、破片の散らばる床にしゃがみこむ。
破片一つ一つを拾いながら、その指先は僅かに震えていた。
(……集中、できていない)
自分でもわかっていた。
こんな失敗、普段の自分ならしない。
正確な手の動き。常に最善を意識した所作。ミスをしないよう、先回りして準備を整え、誰よりも効率よく、静かに、求められた役割を果たす。
それがドリス・アーデンという人物であるべきだと、ずっと思っていた。
失敗は、認められなくなる第一歩。
評価を失えば、自分はもう「意味を持たない存在」になってしまう。
だから、完璧でいなければならなかった。常に、正しく、控えめで、理想的で。
けれど、今日は違った。
視界の端に、いつも浮かぶはずの明瞭な視野が、霞んでいた。
手順を覚えているはずの動作が、わずかに鈍っていた。
その理由は、ただ一つ。
――ヴァルター大尉。
(あの方が……私を、拒んだ)
指が止まる。
掌の破片が、少しだけ皮膚を押しつける。
(私の何が、いけなかったんだろう)
問いは、胸の内に何度も渦を巻いていた。
昨日のあの瞬間、彼の言葉が、表情が、眼差しが、頭から離れなかった。
「俺には愛される資格がない」
それは、彼が自身を責める言葉だった。
ならば、彼の痛みを知っている者なら、その手を取ることができたのではないか。
──なぜ、彼は私を見てくれないのだろう。
(私は、あの人のためにここにいるのに)
社会勉強、という大義名分はある。
だが、彼女がこの店で働き続けている理由の本質は、たった一つだった。
彼がここに来るから。
彼のことを、もっと知りたいから。
彼の目に映る、自分でありたいから。
たとえそれが、一方通行であっても構わなかった。
(でも、もし本当に、あの方が壊れているのだとしたら……)
その欠けた部分を、埋められる存在になりたいと思ってしまう自分がいる。
彼が抱えた暗闇を知りたいと、心から願ってしまう。
そんな感情は、本来、望まれる令嬢のものではない。
だが、それでも抑えられなかった。
(私は──もう、戻れない)
破片を拾い終えた指先に、目立たないほどの小さな傷があった。
だが、その傷よりも深いものが、すでに彼女の心に刻まれていた。
ドリスは一人、誰にも気づかれないまま、目を伏せて微笑んでいた。
繁華街から外れたこの路地裏にある古びたカフェには、遅い時間でも決まって数組の常連が訪れる。
だが今夜は、不思議と客足がまばらで、厨房の奥からも控えめな調理の音しか聞こえない。
カウンターにいたドリスが、注文票を確認し終えると、店長のアンナが手を振って彼女を呼んだ。
「ドリスちゃん。もうすぐ閉店だし、まかない食べときな」
手に持っていたのは、白い皿に盛りつけられた――見慣れた料理。
煮込まれた牛肉とじゃがいも、にんじん。濃厚なルウの香りが鼻腔をくすぐる。
「……ビーフシチュー」
ドリスは目を瞬かせ、それからすぐに微笑んで頭を下げた。
「ありがとうございます。いただきます」
「ほんと、毎日こればっかりで飽きないの? 本当に好きなんだねえ」
アンナが苦笑しながら口を拭うと、ドリスは少しだけ首をかしげた。
「……ええ、そうですね。とても、温かい味ですし」
それは、嘘ではなかった。
ただし、ドリスがこの料理を好きになったのはヴァルターがそれを好むからであり、自分の嗜好ではなかった。
ドリスは皿を受け取り、隅のテーブルに腰を下ろす。
その動きは静かで、機械のように整っていて、完璧すぎるほどに馴染んでいた。
スプーンでルゥをすくい、口元へと運ぶ。
舌の上でとろけるような味わい。けれど、その濃さが喉を過ぎたとき、わずかな違和感が胸に滲んだ。
──本当は、そこまで好きというわけではない。
ビーフシチューという料理自体に、ドリスは特別な感情を抱いたことはない。
けれど。
彼が、ヴァルター大尉が、いつもそれを頼むから。
厨房でもすぐに出せるよう、まかない料理として先に用意されるようになったのは、他でもない彼のためだった。
いつ来ても、同じものを、同じ味で。
それが彼にとっての変わらぬ場所になるようにと――そう、ドリスは考えていた。
「……今日は、いらっしゃいませんでしたね」
ぽつりとこぼした言葉は、誰に聞かせるものでもなかった。
むしろ、誰にも聞かれたくないほどに、切実な吐息だった。
昨日までは、毎晩決まって訪れていた。
疲れた顔をしながらも、定位置に腰を下ろし、変わらぬ注文をして、静かに食事を終える姿。
それがドリスにとっての日常だった。
けれど、今日は来なかった。
(……やっぱり、怒っていらっしゃるのかもしれません)
縁談の場でのやり取りが、脳裏に蘇る。
彼は、まるで鉄でできた鎧のように、彼女の言葉を受け流していった。
彼女の想いも、努力も、形にさえならずに、弾かれてしまった。
──「俺には、愛される資格がない」
あの言葉の意味を、考え続けている。
まるで、彼は自分を罰しているかのようだった。
(でも、それは違う。違います……)
ドリスは、スプーンを強く握りしめた。
スープが少しだけこぼれ、皿の端を濡らす。
彼の過去に何があったのか。
なぜ、そこまでして誰かを遠ざけようとするのか。
なぜ、自分を拒絶する理由を、過去に求めてしまうのか。
理解できなかった。
けれど、知りたいと強く願った。
彼が歩んできた過去を、想いを、痛みを――すべて。
そのためなら、どんな手段も厭わないと思ってしまっていた。
だからこそ、ヴァルターの過去に対しても目を背けたくはなかった。
(次にお会いできたら……絶対に、挽回しなくちゃ)
あの時、驚きと悲しみに揺れた自分の顔を、彼はきっと見ていた。
でも、それだけでは足りなかった。
もっと、想いを伝える術を考えなければならない。
どんなに丁寧に笑っても、どんなに礼儀を尽くしても、それだけでは人の心は動かせない。
けれど、彼の心に届く何かを、きっと自分は持っていると、そう信じたかった。
ドリスは、ゆっくりと最後の一口を口に運ぶ。
けれどその味は、どこか遠くにあった。
濃いはずの味わいが、舌の上で霞んで、すぐに喉奥へと消えていった。
――まるで、何かを模しているような味だった。
「ごちそうさまでした」
静かに呟き、ドリスは皿を持って立ち上がる。
厨房に向かいながら、ふとカウンターに目をやる。
そこには、いつも彼が座っていた席。
夜の街灯が窓から差し込み、その席だけが微かに明るかった。
不在の彼を思いながら、その席に視線を送るその目には、
かすかな決意と、揺るがぬ執着の色が宿っていた。