過去の誓い
朝靄に煙る帝都の空を、鐘の音が静かに切り裂いていく。
軍政庁の中枢に位置する中央棟――そこにヴァルターの足音が響くのは、まだ勤務開始の報告すら上がる前の時間帯だった。
彼は制服の襟元を正し、重厚な扉の前で一礼した後、静かにノックする。
「失礼します。ヴァルター大尉、ただいま参上いたしました」
奥からの返答はない。
しかし、彼はそれを気にも留めず扉を開いた。
整然と並ぶ書類棚と、分厚い木製の執務机。その奥に座る男――ルートヴィヒ・アーデン元帥は、既に何枚もの書簡に目を通していた。
軍人としての峻厳な風貌と、祖父としての温もりを同時に備えたその姿は、今もなおヴァルターの憧憬の対象だった。
しかし今日ばかりは、そうした尊敬とは別の感情が胸に去来していた。
「……縁談の件。正式に、お断り申し上げます」
開口一番、ヴァルターはそう言って深々と頭を下げた。
ルートヴィヒは手を止め、しばし無言のまま彼を見つめ――そして、ふうと小さく溜息をついた。
「そうか。……やはり、というべきか」
溜息に込められたのは失望ではなく、諦観。
それでも、その眼差しには微かな寂しさが滲んでいた。
「……まだ、変わらんのだな?」
問われて、ヴァルターは顔を上げた。
そしてゆっくりと、語り始めた。
「はい。変わりません。
今でも……彼らの声が、目が、私に訴え続けているのです。
――“苦しかった”、“辛かった”と」
言葉と共に、過去の記憶が鮮明に蘇る。
◇
グレゴール・ヴァルターは、かつて帝都の外縁に広がるスラム街で育った。
貧困と病にまみれた場所で、誰もが今日生きるために全てを投げ出していた。
その中で、彼は一際静かな子供だった。目立たず、争わず、ただ淡々と日々を耐える――それが、生き延びる術だった。
友と呼べる存在は少なかったが、それでも幾人か、同じ年頃の仲間がいた。
孤児同士、自然と背中を預け合い、寒さに凍えながらも肩を寄せ合って眠った。
争いも多かったが、同じ空腹を知る者同士の絆は、確かにそこにあった。
だが、戦争はそのささやかな繋がりさえも壊した。
ある日、内乱の余波を受けて、帝国軍の兵士たちがスラムに入り込んできた。
物資の強奪、情報の探索、そして――見せしめ。
ヴァルターが気づいたときには、すでに何人かの友が撃たれていた。
誰かが叫び、誰かが泣いていた。
彼はとっさに拾った鉄棒を握り、声を上げて兵士に飛びかかった。
――銃声が響いた。
腹に焼けるような痛みが走り、そのまま彼は地面に崩れ落ちた。
意識が遠のき、目を開けたときには、周囲には動かぬ小さな影ばかりが横たわっていた。
そのどれもが、彼の名前を呼び、笑い合い、時に叱ってくれた友の骸。
温もりも、声も、もう二度と戻らなかった。
誰も助けてはくれなかった。誰も守ってはくれなかった。
だから彼は、自らに誓ったのだ。
――二度と、こんな悲劇を繰り返させはしない。
力を持つ者となり、理不尽に抗い、涙を止められる存在になるのだと。
そうして彼は軍に入り、血と鉄を味方につけて、ここまで歩いてきた。
◇
ヴァルターは静かに目を伏せてから、改めてしっかりとルードヴィヒと向き合った。
そして、ルートヴィヒに向かって再び深く頭を垂れた。
「閣下のご厚意には、心から感謝しております。
ですが私は……あの誓いを、いまだ胸に宿しているのです。
もしも、誰かを愛してしまえば、私はその人を最優先にしてしまう。
それは……戦場において、己を見誤ることにも繋がりかねません」
静かながら、芯の通った声だった。
ルートヴィヒはしばし黙した後、立ち上がり、窓辺へと歩を進める。
曇天に包まれた帝都の景色を眺めながら、彼は背を向けたまま呟いた。
「……あの子のことを、守ってほしいと思ったのは、たしかに祖父としての願いだ」
「……」
「だがな、ヴァルター。それだけではない。
おまえのような破滅的な生き方を、誰かが止めてくれるのではないかと……そう思っていたのだ」
その言葉には、静かだが重い真情が宿っていた。
「理想に生きることは、素晴らしい。だがそれは、ときに、人としての幸福から最も遠ざかる選択だ。
わしはな……おまえに、もう少し、自分のために生きてほしかったのかもしれん」
その背は、どこか寂しげだった。
ヴァルターは、敬礼もせず、ただ静かに一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まる音が、無言の別れを告げた。
◇
ルートヴィヒは残された執務室で、書類に手を伸ばすでもなく、椅子に深く沈み込んでいた。
「……あの頑固者め」
溜息交じりにそう呟いた彼の目には、ほのかな悔いと、届かなかった願いの残滓が揺れていた。
ヴァルターを選んだのは、孫娘のため。
だが、それと同時に――ヴァルターのためでもあった。
あの青年の、あまりにも強く、あまりにも脆い魂を、誰かが包んでくれればと願った。
それが、ドリスであればよかったのに。
だが、現実はそううまくはいかない。
再びペンを握った指先が、わずかに震えていた。