許しの言葉
帝都新聞の朝刊には、黒々とした活字が踊っていた。
――《革命騎士団、壊滅。市場爆破事件との関連性を認める》――
その見出しを睨みつけながら、グレゴール・ヴァルターは眉間に深く皺を寄せていた。手には未だ読み終わらない新聞を握りしめ、湯気の立たなくなったコーヒーは手つかずのまま。
隣には、煙草の煙をくゆらせているカミユ・シェリングの姿があった。彼は小さな窓の外を見やりながら、ぼそりと漏らす。
「思ったより報道が控えめですね。もっとこう……『英雄的活躍で被害最小限』なんて、誰かの手柄にしても良さそうなのに」
「茶化すな。これは、笑い話ではない」
ヴァルターの声は低く、冷えていた。
新聞の記事を追う視線の奥にあるのは、文字ではなく、爆発直後の市場の惨状だった。
瓦礫と悲鳴。焼けた果物の甘ったるい臭い。泣き叫ぶ子供を抱えて走る人々。その混乱の中、ただ一人、少女が声を張り上げていた。
ドリス・アーデン。
彼女の行動がなければ、あの場は暴徒の群れと化していただろう。怯えた群集の不安が伝染し、秩序が崩れれば、第二、第三の悲劇が起きていた。
ヴァルターは新聞を乱暴に折り畳むと、視線を横に移した。
「……市場の爆弾、諜報部は把握していたのか?」
言葉には刺があった。カミユは少し肩をすくめて、フィルターの先から長く灰を落とす。
「私は、知りませんでしたよ。ええ、断言できます。……少なくとも、私には教えてもらえなかった」
「だが、誰かは知っていた」
「それは、どうでしょうね」
曖昧に笑ったカミユの顔には、珍しく苦いものがあった。
ヴァルターは握った新聞をきしませながら立ち上がると、声を押し殺すように呟いた。
「……ふざけた茶番だ」
爆弾の存在を知りながら、市場の住民を囮に使ったのだとしたら。それが、どれほど非人道的か。
だが、彼の怒りは、誰にも向けられなかった。ただ、焦げた果物の匂いと少女の泣き声だけが、記憶に焼きついていた。
ヴァルターは軍大学を後にし、向かう先を定める。
――カフェ「エトワル」。
事件当日の詳細を確認するため。そして、あの避難誘導が、ただの偶然だったのか、それとも明確な意思によるものだったのか。
その答えを、彼女から聞かねばならない。
しかし、カフェの扉を開けて中に足を踏み入れた瞬間、彼の視界に映ったのは、急いでレジ裏の物陰に隠れようとする少女の姿だった。
栗色の髪に、落ち着いたロングスカート。姿勢は低く、動きはぎこちない。だが、間違いなく――ドリス・アーデンだった。
「……何をしているのだ」
その声に、彼女はびくりと肩を揺らした。
彼女の姿を初めて見たのは、まだ雪が残る初春だった。凛とした令嬢然とした態度と、冷えた紅茶のような声。
だが今目の前にいるのは、そんな完璧な仮面を捨てた、どこか怯えた少女だった。
ドリスはレジの隅に身を寄せたまま、小さく頭を下げた。
「……ご命令でしたから。二度と、近付くなと。ですから……」
その言葉に、ヴァルターは深く溜息をついた。
「確かに言った。……だが、今は俺からお前に会いに来た」
一度ヴァルターが命令したことであれば、ドリスはその命令を忠実に守り続けるつもりなのか、とヴァルターは溜息をついた。
まるで、犬が主人の命令に従うかのような態度に、人間としてそれはどうなのか、という疑問がヴァルターの胸にはあった。
ドリスはおずおずと視線をあげて、ヴァルターを見つめて、その顔色をうかがっていた。
ヴァルターの言葉は正論だ。けれど、それでも。
あの言葉が、本当に心からの拒絶でなかったと、どうして信じられようか。
「……でも、私は、もう」
「ドリス」
ヴァルターの低い声が、遮るように響いた。
その声音に、ドリスは初めて顔を上げた。視線が合う。ヴァルターの瞳に宿るのは、怒りでも、蔑みでもなかった。
――ただ、真っ直ぐな意思。
「お前のしたことは、あの場に居合わせなかった俺にはできなかったことだ。民間人の立場で、あの混乱を抑えた。それは、誰にでも真似できることじゃない」
「……でも、私は……」
「十分だ。あの時、誰よりもお前は正しく動いた」
その一言に、ドリスの胸が音を立てて鳴った。
止めどなく溢れる安堵と、抑えきれない嬉しさとが、胸の内をかき混ぜる。
そして、ヴァルターは静かに言った。
「聞かせてくれ。あの時、お前が何を見て、何を考えていたか。俺は……それを知らなければならん」
その言葉に、ドリスはようやく、ひとつだけ小さく頷いた。
「あの日、私は……買い出しのために市場に向かったんです」
牛乳や卵、そういった生鮮食品の買い出しのためにドリスは市場に向かった。
ヴァルターに近付かないように、軍大学の講義があるまだ昼間のうちに店を出て市場に向かい、そこで買い物をしていた。
そして、爆発は市場の屋台から少し離れた路地で起きた。
ドリスの記憶が正確ならば、そこには市場で出た生ごみを捨てるための共有スペースがあり、その日もゴミ袋や段ボール箱が積みあがっていた。
爆発が起きた直後、ドリスは木製の屋台が盾になってくれたおかげで、直接的な爆風の影響は受けず、爆発が起きた地点からも離れていたため、怪我をすることはなかった。
ただ、その場の混乱は目の当たりにした。
皆が悲鳴をあげ、何が起きたかもわかっていない。
「最初は通報すべきだと思いましたが……公衆電話が、近くになかったんです。
どこかの店に入るにしても、この混乱ではパニックを起こした人たちが詰めかけていると思いました……。
それで……」
ドリスが周囲を見回した時、あの少女が立っていたのだ。
泣きもせず、悲鳴もあげず、ただ恐怖に立ち尽くしていた。
「……その姿に、私は、子供の頃の自分を重ねました。
昨日までの当たり前が、一瞬で壊れる恐怖……。
それを目の当たりにすると、人って、泣けなくなるんです……」
泣く、という行為はある意味で感情が正しく機能している証拠だ。
生理的な反応ではなく、起きた事実に対して悲しかったり、嬉しくて涙があふれ出す。
だから、理解できない事実を前にすると、人はまず硬直する。
ドリスの言葉を聞きながら、ヴァルターもまた、その意味が理解できていた。
ヴァルター自身も、三十年前の内戦で家族同然に暮らしてきたスラムの子どもたちが死んでいるのを目の当たりにした時、悲鳴も、涙も出なかった。
腹部から溢れる血液の熱も、痛みも、何もかもがどうでもよくなり、ただ失意の中で、昨日までの笑顔が永遠に失われた、という事実だけを突きつけられていた。
「そうしたら……勝手に、体が動いていたんです。
その子の手を握って、大丈夫だと、言っていました」
きっと、それはドリス自身が、母が血を吐いて倒れた時に誰かに言って欲しかった言葉だったのだろう。
自分の奥底にずっと置き去りにしていた子供の手を掴むように、目の前の少女の手を握って、「大丈夫だ」と、なんの根拠もなく口走っていた。
ドリスは改めて軽薄なことをしたものだ、と自分の行動を感じていた。
何が大丈夫なものか。
あの時、ドリスですら爆発の原因など分からなかったのだ。
もしも第二の爆弾がしかけてあったら?
もしもドリスがあの直後、大怪我を負っていたら?
きっとあの少女の心は完全に壊れていただろう。
自分がしたのはその場しのぎの偽善に過ぎない。
それでもヴァルターは静かに、ドリスを見つめて首を横に振った。
「俺がその場に居合わせたとすれば、あの少女の心は守れなかっただろう。
俺ならば、その場に居合わせた子供ひとりよりも、爆発の現場を抑えることを優先した」
それは軍人としてやるべきこと、という義務であり、同時にこれ以上の悲劇を止めるための行動だ。
だが、そんな正しい行動は誰の心も守ることはできない、ということをヴァルターもまた痛いほどに理解できていた。
だからこそ、ヴァルターは自分にできなかった、誰かの涙を拭うために動いたドリスの行動に対して、強い敬意を感じていた。
「……正直な所、俺はおまえのことが理解できん。
一方的な愛情を押し付けてくる姿には迷惑だと感じていた。
自己犠牲を当たり前のことだと思っている姿勢には怒りすら覚えた。
だが――確かにおまえはあの時、誰よりも正しかった」
そう静かに告げるヴァルターを見つめたまま、ドリスは困惑したようにし、なぜ、自分が褒められているのかを理解できていなかった。
ただ、自分の思うがままに動いただけ。
そこに理論もなにもない。
それに――。
「……」
ドリスは耳まで真っ赤になりながらそのまま後ずさりして、またレジの裏に隠れるようにしゃがんでいた。
「ドリス?」
心臓が早鐘のようにうるさく、耳の奥でバクバクと心音が響いている。
ドリスにとって、ヴァルターへの愛とは一方通行。
見つめ返されることなど、最初から想定していなかったのだ。
「わ、私……どうも、おかしいです。
不整脈、かもしれません……」
弱々しくか細い声を漏らすドリスの声を聞きながら、ヴァルターは溜息をひとつつき、それから眉根を寄せた。
「……強引な性分とその初心の差はなんなのだ」
そう苦言を呈してから、ヴァルターは自分がこれ以上ここにいてもドリスを苦しめるだけか、と判断して出口へと向かい、そして一度、レジの方に視線をやった。
「二度と姿を見せるな、という言葉は撤回する。
だが、くれぐれも以前のような無茶はするな」
短くそう告げると、ドアを閉じてヴァルターは店を後にした。
ドアについたカウベルがカランカランと軽い音を立てていた。