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殲滅と爆破

 夜の帳が落ちて、帝都の石畳を冷たい風が撫でていた。カフェ「エトワル」の閉店後、通りの明かりはまばらで、商店街の灯もひとつ、またひとつと消えてゆく。


 ドリス・アーデンは、その通りに姿を現すことはなくなっていた。


 夜のシフトから外してもらい、店の買い出しも早朝や昼間に変更していた。

 店主のアンナは彼女の頼みを不思議がったが、ドリスは「体調の都合で……」とだけ説明して、それ以上を語ろうとはしなかった。


 けれど、それはただの口実だった。


 ドリスがヴァルターから言い渡された言葉――「二度と、俺に近付くな」という命令。それを、彼女は律儀に守ろうとしていたのだ。


 拒絶は痛かった。心臓を握り潰されるように痛くて、何度も涙が出そうになった。けれど、それでも、ドリスはヴァルターの命令に逆らうことはなかった。


(私の好きは、ただ見ているだけで満足だから……)


 それは半ば、信仰にも近い感情だった。

 神がそう言ったのだから、従わなければならない。

 そこにドリス本人の感情も意思も関係ない。


 やるべきだから、やる。


 ただそれだけだった。


 ――その頃、諜報部では最後の手配が完了していた。



「ネズミの巣を潰すにしては、随分と大掛かりになりましたねえ」

「当然のことだ、アーデルハイト中将は徹底殲滅を命じておられる」


 カミユは自分の先輩であり、アーデルハイト中将の副官であるクラウゼヴィッツ中尉の隣で苦笑を零しながら、火を放たれた拠点を見つめていた。


 ほうほうのていではい出してきた者たちは全員が即座に捕縛されていく。


 無論、この拠点に集っている人間だけではない。


 既に騎士団関係者の洗い出しは資金源、家族、友人、恋人、その他、あらゆる面から特定済だ。


 この帝都において、アーデルハイトの情報網から逃げられる人間などいない。


 誰がいつ、どこで、何を囁いたか、何をしていたか、誰と蜜月にあったか、その全てをアーデルハイトは掌握し、そして自分の興味の向くのに任せて弄ぶ。


「しかし、良かったんですか? 物的証拠、燃やしちゃってません、あれ」


 カミユは煙草の煙を吐き出しながら、燃え盛る拠点を見つめていた。

 だが、隣に立つクラウゼヴィッツ中尉はふ、と笑みを浮かべて腕組みをしていた。


「あの拠点は最近移ったばかりで、ほぼ物はない。

 以前の拠点は既に差し押さえ済みだ」


 炎によって巻き起こされる上昇気流に切りそろえられた真っ赤な髪をなびかせて笑うクラウゼヴィッツを見ながら、カミユは苦笑していた。


 女ながらに、このクラウゼヴィッツは男のようだ。


 精液の匂いも、愛液の匂いもしない。


 血液の代わりに鉛が流れていると言われても信じられるこの上官は、静かにマッチを擦ると、口元に加えていた細葉巻に火をともしていた。


「汚物は燻蒸消毒するに限る。

 帝都にはびこる悪臭もこれで多少はマシになるだろうよ」


 そう告げながら、それでもクラウゼヴィッツには笑みが浮かんでいなかった。

 クラウゼヴィッツはアーデルハイトから内密に聞かされていた話があった。


 ――最後の爆弾がまだ仕掛けられたままである。


 この革命騎士団を名乗る塵どもを根こそぎ殲滅するには、その爆弾を見逃す必要がある、とアーデルハイトから聞かされていた。


 クラウゼヴィッツにとって、アーデルハイトの命令は絶対だ。


 少なくとも、彼は無駄な犠牲を強いるほど非合理的な人間ではない。


 だが、クラウゼヴィッツ自身、十年以上の付き合いで知っている。


 アーデルハイトの心には倫理観というピースが一切はまっていない。


 アーデルハイトならば、爆弾の場所も分かるのだろう。今からでも止められるのかもしれない。


 だが、それよりもアーデルハイトは革命騎士団殲滅を選んだ。


 帝都三十万人の安全のため、爆弾の犠牲になる数百人を捨てることを選び、そしてその選択の残酷性がアーデルハイトの悦楽に繋がっている。


「……悪趣味なお方だ」


 そして、そのアーデルハイトに忠誠を誓い、犠牲を理解しながらも突き進むことを選んだ自分も。


 クラウゼヴィッツの呟きにカミユは一瞬、表情をこわばらせた。


 その直後、帝都南部にある市場から爆発が巻き起こっていた。



 市場に、突如として衝撃が走った。


 鈍く耳を打つ破裂音と共に、空気が歪む。

 次いで押し寄せた熱風が屋台のテントを吹き飛ばし、煙が空へと立ち上る。


 ドリスは、反射的に身を屈めることしかできなかった。


 爆風に煽られてよろめき、次の瞬間、背中から地面に叩きつけられる。冷たい石畳が身体に衝撃を伝えたが、不思議と痛みはなかった。


 ――助かった。


 間近にあった木製の屋台が盾になったのだ。爆風の直撃を免れたことが幸いだった。


 だが、耳がじんじんと痛む中、視界に広がる光景は、まるで戦場だった。


 地面に倒れ込む人々。煙に咽びながら逃げ惑う母子。

 破裂した果実が地面に飛び散り、血のような赤を広げている。


 ドリスは青ざめながらも、震える指先でスカートの裾を整え、無意識に立ち上がっていた。


(落ち着いて……やるべきことは、通報。軍部に知らせないと……)


 だが、辺りに公衆電話はない。

 通信機を所持している兵士も、この場にはいないようだった。


 そんな中、ふと視線の先に一人の少女が立ち尽くしているのを見つけた。

 十歳前後。栗色の髪をツインテールに結い、エプロン姿のまま、小さな両手を口元に当てて、硬直していた。


 青ざめて血の気の引いた顔、見開かれた目、言葉を放つこともできないまま、ただ開かれた唇。


 その表情をドリスは知っていた。


 七歳の時、母が初めて血を吐き出した時のドリスも、同じように硬直していた。


 昨日までの当たり前の日常が目の前で壊れていった瞬間。


 その瞬間、人はまず理解を拒んで、それから壊れるのを防ぐために仮面をかぶる。


 ドリスは咄嗟に少女に駆け寄って、手を握った。


「大丈夫。ガス管の爆発事故よ。もうこれ以上、何も起きないから」


 少女の顔に浮かぶ恐怖を、ほんの少しでも和らげたくて、ドリスは優しい声で告げた。

 根拠などなかった。ただ、そう言わなければ少女は立ち尽くしたまま、次の危険に晒される。


 彼女はゆっくりと頷いた。だが、緊張がゆるんだのか少女の目からは涙があふれていた。


 その姿に、ドリスは胸を痛めながらも、周囲を見渡し、声を張り上げた。


「動ける人は、動けない人を手助けして、非難してください! 一人でも多く、無事に逃げて!」


 人々は最初こそ混乱していたが、彼女の呼びかけに徐々に応じ始めた。

 店主らしき男が老人を支え、若い女性が子供の手を引く。


 ドリスは少女の手をしっかりと握り、軍大学の方角――比較的安全だと判断した方向へと導くように歩き出した。


(お願い、どうか、間に合って……)


 少女と共に走り、ようやく軍大学の門が見えてきたとき、制服姿の学生たちが走り出してくるのが見えた。


 その中心にいたのは、彼だった。


 グレゴール・ヴァルター。


 鋭い視線で周囲を見回し、即座に怪我人の救護へと動いている。

 あの戦場のような混乱の中でも、彼の動きには迷いがなかった。


(見つからないように……)


 ドリスは反射的に視線を伏せ、制服の襟を引き上げて身を隠そうとした。

 けれど、ほんの一瞬、ヴァルターの視線が彼女に向いた。


「……ドリス」


 低く、だが確かな声。


 その場にいた全てが、静止したような錯覚。


 ドリスの胸は、どくん、と大きく跳ねた。


 ――姿を見せるな。


 その命令に背いてしまった。


 ドリスは冷や汗を浮かべ、体を硬直させていた。


 もう爆発の衝撃は終わったはずだというのに、足元が揺れているように感じた。


 目の前の視界が狭まり、黒く塗りつぶされていくかのような錯覚。


 だが、ヴァルターから告げられたのは予想外の言葉だった。


「お前が避難を誘導したのか」


 ヴァルターの側には、先程ドリスが市場で手を引いていた少女が立っていた。


 彼女はまだ涙を零しながら、それでもドリスのスカートを掴み、ぎゅっとしがみついていた。


 ヴァルターはその姿を見て、静かに息をついた。


「よくやってくれた。爆発の現場でパニックにならず、動けたことは……十分な功績だ」


 そう告げると、すぐにヴァルターは再び救護に向かっていく。


 たった一言。


 よくやった、とそれだけでドリスは全身の力が抜けたようだった。


「お姉ちゃん……」


 自分のスカートの裾を握り、不安げにしている少女の背中を撫でながら、ドリスは涙を滲ませて、そのまま笑った。


「これで、良かったんだ……」


 何も特別なことをする必要なんて、最初からなかったのだ。


 ただ、自分にできることを、一生懸命にしていれば、ヴァルターは見ていてくれる。


 それを感じて、ドリスは静かに息を吐きだして、少女の背中をただ優しく撫でていた。

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