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断絶

 ドリス・アーデンは、自分なりに方針を立てていた。


 ヴァルターに受け入れられる存在であるために、ただ執着するのではなく、彼の許容範囲を意識して行動すること。


 そのための三か条を、自らに課していた。


 その一、危険なことはしない。

 ――自分を犠牲にしようとすればヴァルターが怒る。


 その二、善良であること。

 ――これは前提条件。ヴァルターにとっては悪人は論外。


 その三、押しつけがましくしないこと。

 ――以前のマフィンの時にも分かったように、押し付ければヴァルターは拒絶する。


 この三つを守れば、少なくともヴァルターに疎まれはしないはず。

 そして、それはドリス自身が慣れ親しんだ完璧な令嬢という仮面の範疇に収まる行動でもあった。


 だが、現実は、彼女の想定よりもいびつだった。


 カフェの閉店作業を終えた二十三時。

 灯も落ちきった商店街の片隅で、ドリスは看板を抱えて店の裏手に向かっていた。


 そのときだった。


「ドリスちゃん」


 唐突な声に、ドリスの身体がぴくりと震えた。


 あの男だった。哲学書を語り、勉強会へと誘ってきた、あの男。


「どうして、来なかったのかな?」


 声は笑っていた。だが、目は笑っていなかった。

 男はゆっくりと歩み寄り、ドリスの前に立ちはだかった。


 「ごめんなさい。今日はバイトのシフトが変わってしまって……」


 静かに、穏やかに。

 あくまで常識的な範囲で、ドリスは嘘を重ねる。


 だが、男は許さなかった。

 その手が、唐突にドリスの腕を掴んだ。


「約束、したよな?」


 指の力が強まる。

 痛みというほどではないが、拒絶の意志を明確に示せば、逆に怪しまれるかもしれない。


(ここで突き放せば、潜入の意図を疑われる。

 でも、距離を取らなければ、危険が増す……)


 そう思案している間にも、男の怒気は膨れ上がっていった。


 「お前みたいな女が、なんで俺のいうことに逆らうんだよ!」


 「ちょっと顔がいいからっていい気になりやがって……俺たちが本気で社会を変えようとしてるのに、遊び感覚で首を突っ込んで……!」


 吐き捨てるような言葉。

 次の瞬間、男はドリスの身体を乱暴に壁へと叩きつけた。


 鈍い衝撃が背中を襲い、呼吸が詰まる。


「……っ」


 男の顔が近づく。

 わずかに、酒の匂いがした。

 男の右腕が振り上げられる。


(ああ……結局、こうなるんだ)


 何のために警戒して、演技して、ルールを決めたのか。

 だが、まあ――殴られて終わるならそれでいいだろう。

 多分、この男はドリスが調子に乗った馬鹿な女だと吐き捨てて立ち去って行って、それで話はおしまい。

 殴られて終わりなら、まあいいか。


 そんな投げやりな感情で、ドリスは目を閉じた。


 だが、衝撃は来なかった。


 代わりに、聞こえたのは男の怒鳴り声だった。


「ぐっ……な、なんだよ、お前!」


 静かに、冷え切った声が響く。


「……腕を離せ」


 それは、ドリスにとってこの世界で最も馴染んだ声。


 目を開けると、そこにはヴァルターがいた。


 彼は男の振り上げた腕を、鋼のような手で掴み、ねじり上げていた。


 男は青ざめた顔をしながらよろめいて、ドリスの胸倉をつかんでいた手を放した。


 ヴァルターは何も言わなかった。

 ただその無言の圧力だけで、すべてを圧し潰していた。


 ドリスは震える指で、胸元を押さえながら、ヴァルターの横顔を見つめていた。


 しまった、と思った。

 ドリスが危険なことに首を突っ込んでいることを、ヴァルターに感付かれてしまいかねない。

 けれど、今自分が口を挟めば、余計に騒ぎが起きてしまう。


 ドリスは自分の背中を冷たい汗が伝い落ちていくのを感じていた。


「くそ女が……」


 男はドリスに対して、吐き捨てるような口調で罵声を浴びせると、そのまま逃げるように走っていった。


 ヴァルターの冷やかな目が、ドリスへと注がれている。


 ドリスは何も言えないまま、ただ静かにヴァルターを見上げていた。


 彼の瞳は真っすぐに自分を見据え、内には怒りを滲ませながら唇を開いた。


「……今度は何をした」


 ヴァルターは静かな口調で問い詰めていた。


 だが、そこには嘘やごまかしを一切許さない厳しさが潜んでいた。


 まるで刃を突き付けられているように、首筋にちり、と痛みを感じながらドリスは渇いた舌を動かした。


「……テロリストの、勉強会へ、潜入しました」


「それは誰かの命令か」


「……私の意思です」


 ドリスは静かに首を左右に振った。


 カミユからは止められていた、祖父のルードヴィヒには内密にしていた。


 ただ、ヴァルターの役に立てれば、それだけの思いだったが、その正当性もカミユに否定されている。


 そして、ヴァルターは今、深くため息をつくと失望したように目を伏せた。


 その表情が、何よりもドリスの心臓を刺し貫く。


「二度と、俺の前に現れるな」


 ただ冷やかに、そう言い切るとヴァルターは立ち去って行った。


 これまでは、夜だから、危険だからと送ってくれていた。


 だが、ヴァルターはもはや一度もドリスに振り返らず、そのまま立ち去っていく。


 その背中にドリスは手を伸ばすことすらできず、ただ、その場にへたり込んでいた。


 詰られるのとも、拒否されるのとも違う。


 完璧な絶縁。


 もうお前に関わるつもりはない、そうヴァルターが示した態度にドリスは目の前が真っ暗になったようで、自分の体を支える力すら残っていなかった。

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