似た者同士
数日ぶりに、ドリスはあの喫茶店を再び訪れた。
街路樹が柔らかく風に揺れる昼下がり。店内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れており、コーヒー豆を挽く音と食器の触れ合う澄んだ音色が、静かな空間をより上質にしていた。
彼女は店の奥に目をやる。
いた。
よれたスーツに身を包み、かつてと同じく空のカップを前に、本のページを指で繰る男。その姿は数日前とまるで変わっていない。変わったのはドリスの内心だけだった。
注文したブレンドコーヒーが運ばれてくると、ドリスはカップを一口含み、わざとらしく首を傾げながら立ち上がった。
そして、男のテーブルにそっと近づき、声をかける。
「こんにちは……この間おすすめ頂いた本ですが、私も読んでみたんです。でも、難しくて、どうしても分からないところがあって……」
小さな嘘。
男は本から顔を上げると、少し驚いたようにドリスを見た。だが次の瞬間には、目に見えて口元が綻び、得意げに頷いた。
「へえ、本当に読んだんだ。それで、どこが分からなかったのさ。教えてあげるよ」
ドリスはそれらしい部分をいくつか口にした。本当に読んでいれば簡単に見抜ける嘘だったが、男は彼女の言葉に満足げな表情を浮かべ、まるで講義でもするように話し始めた。
「要するにだね、社会というのは常に秩序と自由のせめぎ合いにあるんだ。あの哲学者はそこに超越的な意思の存在を仮定して……」
内容は、聞きかじった講義のなぞりでしかなかった。
言葉の端々には矛盾があり、論理の整合性もない。それでもドリスは、あたかも感銘を受けたかのように目を輝かせ、何度も小さく頷いた。
「そうだったんですね、なるほど。……そんな風に考えてるなんて。私、本当に勉強になります」
その一言に、男の鼻が高くなるのが分かった。
「もし興味があるなら、勉強会に来てみたらいいよ。
君はまあ、そこらの女よりは見込みがありそうだし、皆も歓迎してくれると思うよ」
「勉強会……?」
ドリスは首を傾げながら、さも純粋な関心を示すように尋ねた。
「うん。小さな集まりだけどね。
同じ志を持った仲間たちと一緒に、より深い理解を目指す場さ。次は三日後の夜、南ブロックの旧劇場跡だ」
「分かりました。ぜひ、行かせてください」
その笑みは、やや控えめに、だが確かに喜びを装ったものだった。
ドリスは心の中で静かに呟いた。
(これで……ヴァルター大尉の、お役に立てるかもしれない)
手の中のコーヒーカップをそっと握り直す。
彼女の掌には、震えはなかった。
◇
夜の空気はひどく冷たく、頬を撫でる風がドリスの肌をわずかに切り裂くようだった。
その日、彼女は喫茶店からの帰りにカミユ・シェリングの姿を見つけ、すぐに近づいていった。
「准尉、例の男の話……続報があります」
静かな声で、けれど明確に。
ドリスは、男から聞き出した勉強会の話と、日時、場所などを詳しく語った。
カミユは最初、楽しげな笑みを浮かべながら聞いていたが、報告を終えるころにはその笑みを薄く引き締めていた。
「なるほど、貴重な情報です。……ですが、あなたが行く必要はありません」
そう言って、彼はいつもの調子で肩をすくめた。
「一般人のあなたの協力はここまでで十分です。後は我々が動きますよ、アーデン嬢」
ドリスはその言葉に、僅かにまつ毛を伏せた。だが、すぐに顔を上げる。
「でも、私ならもっと……」
「駄目です」
カミユは言葉を遮った。普段の軽薄さを一切消した声音だった。
「相手は武装組織です。潜入調査は遊びではない。……もし巻き込まれたら、我々はあなたを守りきれない」
その言葉に、ドリスはうつむいた。だが、それでも彼女の目は諦めていなかった。
――三日後。
南ブロックの旧劇場跡。かつては高級社交場だったという建物は、今や取り壊し予定の廃墟として、薄汚れた幕を風に揺らせていた。
ドリスはマントで身を包み、静かにその中へと足を踏み入れる。
勉強会と称されたその集まりには、十名ほどの男女が集まっていた。皆一様に無表情で、だがその目にはある種の熱が灯っていた。
講演者はかつて大学で政治思想を講義していたという男だった。
彼の言葉は、巧妙に仕立てられていた。
「……この国の王政は腐敗しています。貴族たちは民の血と汗を吸い上げ、自らは金と権威を持て余す。変わらなければならない。我々の手で、正義を……」
その言葉に、参加者たちは熱心に頷く。中には拳を握りしめる者もいた。
ドリスは微笑みを浮かべて頷いていた。まるでその場に心酔している一員のように。
だが、心の奥は冷めきっていた。
(この人たちは――)
そう思いながら、彼女は内心でひとつひとつの言葉を切り捨てていく。
彼らの言葉には理想がある。熱意もある。だが、その実、それはただの鬱屈だった。
(社会に適応できなかった元エリート……)
自尊心だけが肥大化し、他者との歩み寄りを拒み続けた末路。
努力はしたのだろう、才覚もあったのだろう。だが、彼らは「選ばれなかった」側だ。
自分は認められていない、自分の才能を周囲は理解しない。
そう思い込んで、被害者だと自分たちを定義しながら、世界に対して憎しみを向けている。
だからこの世界を否定し、力で塗り替えようとしている。
その暴力に、正義という大義名分を与えることで、彼らは自身の劣等感を誤魔化している。
――会が終わる頃には、次回の勉強会の日程が配られた。ドリスはそれを丁寧に受け取り、建物を後にする。
だが、廃劇場の外に出た瞬間、冷たい声が背中に降ってきた。
「立ち入るな、と警告しましたよね」
振り返ると、そこにはカミユの姿があった。
彼の顔には怒りは浮かんでいない。ただ、その静かな声が全てを物語っていた。
ドリスは唇を噛みながらも、視線を逸らさず、まっすぐにカミユを見返した。
「でも、成果はありましたよ」
静かにドリスは日程表をカミユへと手渡した。
だが、カミユは呆れたように眉根をひそめ、そのまま日程表を受け取り、溜息をついた。
「あなたに協力を頼んだ私の見込み違いですかね。
いいですか、あなたはただの民間人だ。
普段の生活をして、その生活圏での異常を報告してくれれば十分。
それ以上は寧ろ迷惑なんですよ」
「でも、ヴァルター大尉の役に立てます」
ただ真剣に、真顔のまま言い切ってきたドリスに対して、カミユは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
カミユは女だから、とドリスを見下しているわけではない。
むしろその逆、女だからこそ、男の自分では踏み込めない情報を彼女が得られると思っている。
だからこそ、カミユは冷やかに断言した。
「あなたの行動と、連中の思想……よく似ていますねえ。
正しいことだと信じた暴力の押し付け。
自覚あります?
あなたがヴァルター大尉のためだといって、異常な行動を繰り返していること」
それはドリス、という少女の恋を原動力とした行為そのものへの否定であり、ドリスという存在への矛盾だった。
完璧な令嬢でいることこそが存在意義だったはずのドリスが、今、止められていたにも関わらずテロリストたちの集団に参加していた。
その行動の理由はすべて、ヴァルターのため。
ヴァルターのため、という正義さえあれば、何をしても許されると思い込んでいる、とカミユはドリスに突きつけていた。
「……」
言葉を失ったように項垂れるドリスの姿を見ながら、カミユは静かに腕組みをした。
「今後は二度と深入りしないように。
迷惑なんですよ、あなたの善意という行動は」
カミユは冷やかにそう告げると、ドリスの前から立ち去って行った。
……自分とテロリストたちは同じ?
ドリスは静かにそう考えながら、家路を歩いていた。
既に夜遅く、煤煙で月も隠れて薄暗い。
街灯のあかりこそあるが、暗い道を辿りながらドリスは静かに頷いた。
「……その通りね」
ヴァルターの役に立ちたい、という大義名分で、自分の恋という名の自尊心を守っている。
それならば、ドリスの本質はあの集団と何も変わらない。
だが、ドリスは口元に笑みを浮かべていた。
「それなら、受け入れてもらえるようにしないと……」
ヴァルターは危険なことをすることを望んでいない。
危険を冒さない範囲。
そして彼の邪魔にならない範囲。
それらを理解して、その中で、彼を愛し続ければいい。
目的は定まった、目指す地点は理解した、ならば後は実現するだけだとドリスの目は暗闇の中で輝いていた。