忍び寄る女
温かな日差しが薄曇りの空からさすような昼下がりだった。
ドリス・アーデンは、カフェ「エトワル」の制服を着ていない自分を少しだけ不思議に思いながら、帝都の路地にある静かな喫茶店の奥に腰を下ろしていた。
仕事が休みの日は、自宅にいても構わなかった。軍大学に通っているわけでも、特別な任務があるわけでもない。アーデン家の令嬢であるとはいえ、ルードヴィヒ元帥は彼女に自由を許していた。彼女の人生を、少しでも自分のものとして感じられるように。
テーブルの上には、温かいコーヒーと、彩りの美しいベリータルトが置かれている。フォークで端を崩しながら、ドリスは静かに一口分を運んだ。
――甘い。けれど、ただそれだけではない。
タルト生地はほのかにバターの香りが広がり、ベリーの酸味と絶妙なバランスを保っていた。彼女がこの店に通う理由は、単純に甘い物が好きだからではない。料理や調理、味の設計について学ぶため。そう、これは『勉強』なのだ。
(こんなにも上品な酸味をどうやって出すのだろう……)
真面目な思案に沈みながらも、ふと、視界の端に映る人影が気になった。
喫茶店の隅、壁際のテーブルに座る男。
よれたスーツに、ややくたびれた鞄。年齢は二十代後半といったところか。痩せ型で、背筋こそ曲がってはいないが、どこか疲れた印象がある。
だが、妙だったのはその『清潔さ』だった。襟元はしっかりと整えられており、髪は短く刈られ、爪も綺麗に切り揃えられている。
コーヒーカップは既に空のようで、男はそれに手を伸ばすでもなく、ただ分厚い書籍を読み続けていた。開いたページを丁寧に指先で押さえ、集中を切らすことなく視線を文字に走らせている。
ひとつの席に、何時間も居続けているような気配。
(……苦学生、というより)
ドリスは、カミユ准尉に言われた言葉を思い出していた。
――『あなたには、情報提供をお願いしたい。』
何をすればいいのかは、まだ分からない。だが、あの駅での一件以来、自分の中で何かが少しずつ変わってきている気がしていた。
(正義に酔ったエリート……)
自分が革命騎士団に対して抱いた印象。
彼らは自らの正しさを疑わなかった。社会の仕組みが間違っていると信じ、その歪みを正すためなら手段を選ばない。それが暴力であっても、他者の命を犠牲にしても。
ふと、視線を戻す。
あの男。
まるで労働者の皮を被った、異質な存在。
ドリスはコーヒーを一口すすると、その熱と苦味の奥にある香ばしさに、わずかに眉を上げた。
心が、妙な予感を告げている。
(あの人も、何かを隠しているのかもしれない)
けれど――その何かが、無害なもので、自分の思い過ごしに過ぎないのか。
それとも、帝都を蝕む毒のような思想なのか。
それを判別する証拠がない。
ドリスは少しばかり考えてから、ケーキを口に運んだ。
この情報ではまだヴァルターの役に立つものではない。
もう少し、踏み込んだ情報がなければ、ヴァルターの役に立たない。
そう考えると、ドリスの行動指針は決定していた。
「ずいぶん、真剣に読んでおられるんですね……その、本」
ドリスは穏やかな微笑みを浮かべながら男へと声をかけていた。
テーブルの側に佇んで、静かに笑いかけるドリスの姿に男は一瞬戸惑ったような顔をしていたが、すぐに鼻を鳴らしていた。
「なに?君、店員?」
「いいえ……ただ、あんまり真剣に読んでおられたから。
小説ですか?」
嘘だった。
完璧な少女の笑顔を浮かべながらも、男が読んでいる本が小説などではないことはドリスにも分かっていた。
そして、男はそんなドリスを見て、「ただの馬鹿な女」とでも思ったのか、小馬鹿にしたような笑いを浮かべていた。
「哲学書だよ、読んだことないんだ」
いいながら、男は『社会構造の善悪』と書かれた本の表紙をドリスに見せつけるようにしていた。
本は随分と読みこまれているのか、表紙のはしにめくった痕跡が癖になっていた。
ドリスはその本のタイトルを知っていた。
数年前に販売されて、当時の学生運動を行っている一部の大学生にバイブルのように持ち上げられていた本だ。
だが、さも初めてその本を見た、というようにドリスは目を丸くして首を傾げた。
「どんな本なんですか?」
「君なんかじゃ分からないよ、もっと簡単な本から始めなよ」
「うーん……どういう本がいいんですか?教えてもらえたら嬉しいんですけど……」
ふふ、と微笑みながら告げるドリスに対して、男の方は自分の中の承認欲求が満たされたかのような気分で、初歩的な哲学書のタイトルをあげていた。
男がドリスに対して、こういった小馬鹿にした態度を取るのも当たり前の事ではあった。
帝国では女子への高等教育は一般的ではない。
小学校、中学校といった義務教育はあるが、そこから先は、帝国の女の大半は結婚する。
貴族階級の者であれば、家庭教育を受ける機会があるが、それ以外は義務教育の範囲までしか勉強していない。
そして、ドリスは今、一般的な市井の少女の服装をしているだけに、そういった義務教育どまりの女、と見なされたのだろう。
別段、ドリスはそうした男の偏見を訂正するつもりも、是正するつもりもなかった。
寧ろ、今回の場合はそういった状況が好都合ですらあった。
「……なるほど、それじゃあ今度、読んでみますね」
「まあ、分かるとは思わないけどさあ」
そう言いながら笑う男の瞳には、ドリスが馬鹿な女、自分が御しやすい相手に見えていることだろう。
そしてドリスにとって、それはまさに狙い通りの戦果だった。