蛇の囁き
爆発物処理班が現場に到着したのは、事件が起きてから五分後のことだった。
既に犯人は拘束され、広場の一部には黄色い規制線が張られており、一般市民たちは警官の指示に従って周囲から退去を始めていた。
大時計の根元に設置された紙箱――爆弾は、確認の結果、実に粗雑な代物だった。
火薬の調合も中途半端で、導線の巻き方にも素人の手が混じっていた。
専門家たちはその構造を確認するなり顔をしかめ、口々に言った。
「市販の技術書を一冊読んだ程度の知識で作られたものだな。よくこれで革命などと口にできるものだ」
けれど、その爆弾がもし起爆されていたら、目の前の広場にいた何百人の市民が巻き込まれていたのも、また事実である。
ヴァルターは、押さえつけた男が引きずられていく姿を見送りながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。
背後には、彼にとってあまりにも予想外だった少女の姿がある。
「ドリス」
その名を呼んだとき、ドリスは静かに顔を上げた。
先ほどまでの鋭さが消え、彼女はまるで何事もなかったかのような穏やかな瞳で、彼を見つめていた。
「助かった。……礼を言う」
ヴァルターの言葉に、ドリスは首を横に振った。
「私は、何も……犯人が燃えることを恐れていなかったら、きっと引き金を引いていたはずです」
その言葉を制するように、ヴァルターは鋭く告げた。
「だからだ。もし引き金が引かれていたら、お前にも火は及んでいただろう。更には他の者にも、飛び火したおそれはある」
ドリスはその言葉に唇を噛んだ。
けれど、彼の声には怒りよりも――痛みが混じっていた。
守れなかった未来を想像してしまった、そんな沈黙の色が、彼の瞳にはあった。
ドリスはそっと手を胸に当て、口を開いた。
「……でも、私は、きっとまた同じことをします」
「……なんだと?」
「閣下が、私の目の届くところにいる限り。私がそこにいて、あなたが危険に晒される可能性がある限り、私はまた……きっと、同じことをします」
その言葉に、ヴァルターの眉が僅かに動いた。
「……それは、ただの自己満足だ」
「でも、それが私の愛です。愛するあなたに差し出すものが、愛以外であるはずがないんですから」
その声音には一切の揺らぎがなかった。
何かを誓うような瞳で彼を見つめるドリスの姿に、ヴァルターは思わず視線をそらした。
「……勝手にしろ。だが、ひとつだけ覚えておけ」
言いながら、彼は一歩、ドリスに近づいた。
その距離は、腕一本分。
けれど、彼の言葉は冷たくも鋭く、深く心に突き刺さるものだった。
「また同じ真似をするならば……お前は、二度と俺の傍に来るな」
ドリスの瞳が揺れる。
それは、静かな拒絶だった。
彼の声は穏やかで、怒鳴ってもいなければ、咎めるようでもない。
それでも、その言葉の奥にあった決定的な距離は、ドリスの胸を締めつけた。
ヴァルターはそのまま背を向け、静かに歩き出した。
ドリスはその背を見送る。追おうとはしなかった。
ただ、小さく息を吐き、微笑んだ。
(……やっぱり、私はおかしい)
拒絶され、睨まれ、見据えられ、それでも――嬉しいと感じてしまっている。
彼の中に、自分が確かに存在していたことが、愛しさよりも、ただ嬉しかった。
「あなたに憎まれても、嫌われても――愛していられるなら、それでいい」
それが、執着だとわかっているのに。
彼の言葉が拒絶だと知っているのに。
それでも――愛してしまった。
その瞬間だった。
背後から小さな気配が近づき、ドリスの耳元に囁く声があった。
「危険な真似をしなければ、近付いてもいい……ですよね?」
その声に、ドリスは振り返った。
カミユ・シェリング――ヴァルターの旧友であり、帝国の諜報部に属する男だった。
「……あなたは?」
「いやあ、実に面白いものを見せていただきましたよ。まさかアーデン家のお嬢様が、あんな手段で犯人を制圧するとは」
カミユは愉快そうに笑っていたが、その目だけは、いつもの飄々とした色ではなかった。
「……あなたの執着心、実に興味深い。いえ、実に利用価値が高い」
「……何を言っているんです?」
ドリスの問いに、カミユは一歩、彼女に近づいた。
「あなたがあの男を追い続ける限り、私はそれを利用します。もちろん――あなたを保護するという名目でね」
その声は甘やかで、どこか狂気をはらんでいた。
けれど、ドリスは怯えることもなく、微笑みを返した。
「……どうぞ。
私は別に、あなたには興味がありませんから」
「ええ、私もあなたに危害をくわえるつもりはない。
ただあなたの行動を利用する、あなたも私を使えるならば使いなさい」
私は、彼のためなら何にでもなる。
その視線の先にいたい――たとえ、それがどんな形であっても。
「あなたには、情報提供をお願いしたい。
その観測者としての目を使って……それが、ヴァルター大尉の役にも立つ行いですよ」
カミユのその言葉に、ドリスの瞳が初めてカミユを真っすぐに捉えた。
カミユは蛇のような笑みを浮かべながら口元を吊り上げていた。
「ふふふ、帝都の中は入り組んでいる。
ある意味では前線よりも厄介かもしれない……いや、前線なんて、内地勤務の私は行ったことがありませんがね」
カミユはそう言いながら自分の口元に指を添えた。
だが、ドリスはすぐにカミユに関心を失っていた。
ドリスの中にあるのは、自分の目がヴァルターの役に立つ、と言われた評価への喜びだけで埋め尽くされていた。