縁談と蒼いドレス
翌日、ヴァルターは帝都中心部にある将校専用の会食サロンを訪れていた。
重厚な木扉を開けると、香ばしい肉とスパイスの香りが鼻をくすぐった。
手入れの行き届いたカーペット。絹のカーテンが揺れる窓辺からは、帝都の中庭が望める。ここは、格式ある軍関係者のみが利用できる高級施設の一つだ。
そしてその奥の席に、彼が最も頭の上がらぬ人物――ルートヴィヒ・アーデン元帥が腰を下ろしていた。
「おお、ヴァルター。悪いな、急に呼び出して」
「いえ、元帥閣下にお招きいただけるとは光栄です」
ヴァルターは直立の姿勢を取り、深く頭を下げた。
ルートヴィヒはそれを片手で制し、「堅苦しいのはやめろ」と苦笑する。普段の厳格さを知る部下なら、信じられないような柔和な笑みだった。
二人は向かい合って席に着き、すでに用意されていた前菜に手を伸ばした。
会話は最初、戦況や部隊の動向といった業務的なもので占められた。
ルートヴィヒは部下の話を丁寧に聞き、時に的確な指示や励ましを与える――まさに将としての器を備えた男だった。
そしてヴァルターにとって、少年兵時代からその背を追いかけてきた理想の軍人であり、同時に“救い主”とも言える存在だ。
彼が孤児で、スラムの生まれでなければ、軍に入ることも叶わなかった。
だが、ヴァルターの実直な働きぶりを見出し、上層部への推薦を行ったのがこのルートヴィヒだったのだ。
だからこそ、彼の前では常に誠実で在りたい。――その想いは、今も変わらない。
会食も終盤に差し掛かる頃、ルートヴィヒはワインのグラスを指先で転がしながら、ふと口を開いた。
「……ところで、ヴァルター」
「はい」
「おまえ、結婚のことはどう考えている?」
――突然だった。
ヴァルターは、手にしていたカップをわずかに止めた。
「……申し訳ありません。いささか唐突なお言葉に感じましたが……何か、ご事情でも?」
ルートヴィヒは苦笑を浮かべ、口元をぬぐう。
「事情というほどのものでもない。ただな……。わしには、孫娘が一人おってな」
その名を聞いて、ヴァルターは小さく頷いた。
戦死した息子の忘れ形見。病弱な妻を持ち、ドリスという少女を早産した――かつて耳にした、将の家族の話が脳裏を過ぎる。
「彼女ももう十七になる。周囲の者が、あれこれとうるさく言ってきてな。名家の令嬢だからこそ、ふさわしい相手を選ばねばならん、と」
言葉の端々に、祖父としての複雑な感情が滲む。
そして、ルートヴィヒはしばし沈黙し――やがて、まっすぐヴァルターの目を見て言った。
「……そこでだ。おまえ、あの子と一度、見合いをしてくれんか」
空気が変わった。
ヴァルターは一瞬、言葉を失った。
「……私が、閣下の親族とですか……?」
「ああ。正式に、とまでは言わん。まずは会って、話して、それから決めてくれればいい」
ルートヴィヒの言葉は穏やかだったが、その奥には強い意志があった。
だが――ヴァルターは即答できなかった。
軍人としての忠誠、恩人への感謝、名家への責任感……それらが彼の心を締めつけた。
しかし、それでも一言だけ、どうしても口にせねばならぬことがあった。
「私は、閣下のお気持ちには感謝しております。ですが……私には理想があります」
「ほう?」
「私が軍人として、平民としてここまで来たのは、自分の志のためです。誰か一人を選び、愛し、そのために生きるとき……私は“理想に殉じる覚悟”を、どこかで失ってしまう気がするのです」
真摯な口調でそう語ったヴァルターを、ルートヴィヒは静かに見つめた。
そして、何も言わずにグラスを手に取り、最後の一口を飲み干した。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「――見事だ。まこと、軍人らしい答えだな、ヴァルター」
「……閣下」
「だが、それでも言わせてもらおう。おまえのような男が、あの子の傍にいてくれればと、わしは願ってやまんのだ」
ルートヴィヒの声には、わずかに哀しみが混じっていた。
息子を戦に失い、残された少女一人に過剰なまでの期待と責任を背負わせてしまった。
彼はそれを、わずかながら自覚していた。
「断っても構わん。ただ――一度、会ってやってくれ。それだけでいい」
その言葉に、ヴァルターは口を閉ざした。
この将の真意が、ただの打算や家の都合ではないことは、彼が一番理解している。
「……承知しました。誠意をもって、お会いします」
それが、恩義に報いる唯一の方法だと、ヴァルターは思った。
◇
数日後、ヴァルターは軍服を正し、アーデン家の屋敷を訪れていた。
古い石造りの邸宅は、外観に反して内装は洗練され、調度品はどれも品位に溢れていた。
使用人の案内で応接間へと通されると、そこで彼を出迎えたのは――
「……!」
ヴァルターは、思わず立ち止まった。
そこにいたのは、蒼のドレスに身を包んだ少女。
細やかなレースと銀糸の刺繍が施された、気品ある装い。
だが、何よりもヴァルターの目を引いたのは、その顔だった。
つい昨夜――いや、何日も前から彼を「いらっしゃいませ」と出迎えていた、あのカフェの少女。
「……ドリス、か?」
思わず名前が漏れた。
ドリスもまた、驚いたように目を瞬かせ、しかしすぐに淡い笑みを浮かべた。
「はい。あのカフェで働いていたのは、社会勉強の一環だったのですが……。まさか、大尉が……お見合いのお相手だったとは。正直なところ、私も驚いています」
その言葉は、嘘を交えない、素直な響きに聞こえた。
しかし――なぜか、ヴァルターの背にひやりとしたものが走る。
目の前の少女は、あの夜、料理を用意していた店員だった。
ただの偶然とするには、あまりにも出来すぎた再会。
アーデン家の応接間には、静かな時が流れていた。
ヴァルターは、向かいの席に座る少女――ドリスを見つめていた。
昨夜まで厨房の奥でエプロン姿で立っていた少女とは思えないほど、彼女は“整って”いた。
清楚な青のドレスは光沢を湛え、白い手袋越しに細くしなやかな指が覗いている。
腰にかけたリボンは過度ではなく、それでいて格式を感じさせ、上品な香水の匂いがかすかに香る。
姿勢は崩さず、所作も静か。目を合わせてはすぐに伏せ、会話の節々には気配りがにじむ。
――まるで、絵から抜け出したような令嬢だった。
「……いつもとは、ずいぶん印象が違うな」
思わず口に出ていた。
ドリスは少し驚いたように瞬きをし、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「カフェでは、庶民の生活を学ばせていただいてましたから。こうしてお会いするのは、たしかに初めて……かもしれませんね」
その言葉には確かに理屈が通っていた。
が、それでも彼の心の底では、昨夜抱いた“違和感”が未だ消えずにいた。
ヴァルターはしばし沈黙を保ち、それから口を開く。
「社会勉強というのは……なぜ、そこまで?」
問いに、ドリスは少し首をかしげ、微笑を浮かべた。
「貴族と庶民の暮らしって、あまりにも違いすぎますから。
礼儀も、価値観も、言葉の意味さえ……。
でも、おじい様がいつもおっしゃるんです。“軍人は民を守るものだ”って。
だから私は、民のことを知らなければと思ったんです。自分の目で見て、手を動かして。そうでなければ、本当の意味で彼らを理解することなんてできないって」
――それは、あまりにも模範的な答えだった。
それでいて、理想に近い。
貴族の身でありながら、庶民の現実を知ろうと努め、苦労を厭わず働く。
姿勢は控えめで、話し方にも奢りがない。
まさに“完璧な”令嬢。
だが――。
(理想的すぎる)
それが、妙なのだ。
彼女には、どこか“造られた印象”がつきまとっていた。
努力の成果ではあるのかもしれない。だが、完璧であろうとする姿勢そのものが、どこか……不自然なほどに“必死”に見えた。
「……今回の縁談。君にとって、不満はないのか」
沈黙を破るように問うと、ドリスは驚いたように目を開き、すぐにふわりと笑った。
「ヴァルター大尉のことは、いつもおじい様から聞いていました。
戦果や統率、そしてお人柄のことも。
……私のような不束者が釣り合うとは思いませんけれど……不満なんて、ちっとも」
恥じらいを含んだ笑み。頬がわずかに紅潮し、手が膝の上でぎこちなく揃えられている。
その姿は、どこまでも純粋だった。
もし他の誰かが目にすれば、こう思うに違いない――「こんなに健気な子を拒むなんて、ありえない」と。
だが、ヴァルターの心は決まっていた。
「――俺は、結婚をするつもりはない」
静かに、けれど明確に。
その一言は、まるで部隊に命令を下すような声だった。
ドリスの笑みが止まり、その目が、見開かれた。
予想外の言葉に、時間が止まったように沈黙が落ちた。
ヴァルターは言葉を続ける。
「今回、君に会いに来たのは……正式に断りを入れるためだ。
君に非があるわけではない。ただ、俺は誰かに選ばれるような人間じゃない。
愛される資格なんて……俺にはない」
立ち上がりかけるその腕を、ドリスの手が掴んだ。
細い指が、震えていた。
「……何が、悪かったのですか?」
その声は、カフェで聞いたどの声とも違った。
低く、焦りを含み、うわずった声。
「私……何か、失礼なことをしましたか? 言い方が……態度が……」
「違う」
ヴァルターはかぶりを振った。
だが、ドリスは離そうとしない。
「だったら、どうして。どうして私じゃ、駄目なんですか。
私は……大尉のお役に立てるよう、ずっと……!」
「やめろ」
その声に、ドリスが一瞬、息をのむ。
ヴァルターはその手をそっと外し、言った。
「君に落ち度はない。ただ、俺が……壊れているだけだ。
君のような人が、俺の隣にいてはいけない」
それは、自己否定だった。
英雄と讃えられ、出世街道を走ってもなお、彼の心には拭えぬ影があった。
失われた過去。誓い。
そして、いつか再び訪れるであろう、喪失。
「……君には、もっと相応しい人がいる。君が何者であっても、心から君を大切に思えるような、真っ直ぐな誰かが」
ヴァルターは、そう言い残して踵を返した。
振り払った手の温度が、まだ指先に残っていた。
背後で、ドリスは一言も発さず、立ち尽くしていた。
扉を閉めた瞬間、ヴァルターは一瞬だけ、目を伏せた。
(……あの表情は、なんだ)
驚き。焦り。怒り――否、違う。
あれは、理解できないという混乱。そして、深い哀しみ。
ドリスの中に何があるのか、ヴァルターはまだ知らない。
だが、確かに彼は見たのだ。
カフェの奥で浮かべていた、あの完璧な微笑みではなく。
令嬢の仮面の下に隠された、本物の少女の顔を――。