狂気の覚悟
帝都の朝はいつも喧騒の中に始まる。薄明の空を背景に、駅舎の巨大なアーチがゆっくりとその影を伸ばしていく。白く煙る空気の中、出勤前の人々が行き交い、売店の呼び込みが飛び交い、汽車の汽笛が遠くから鳴り響く。
ヴァルターはその群衆の中にいた。
彼の視線は絶えず動いていた。行き交う労働者、学生、商人。どの顔も疲れていて、そして必死だった。誰もが、自分のことで手一杯だ。そんな中に紛れるように、ひとつだけ異質な存在があるはず。
――ドリスが言っていた。
「正義に酔ったエリート」
その言葉を思い出す。
ドリスの見立てが確かならば、犯人となる人物たちは労働者のような服装はしないだろう。
いや、あるいは労働者のような服装をしていたとしても、その佇まいには違和感が生まれるはずだ。
見るべきは、身なりに不自然な清潔感がある者。顔立ちに自信が浮かび、周囲を軽んじるような視線を持つ者。
大時計のある広場。
そこは通勤者の交差点であり、誰もが一度は通過する場所だった。建国百周年を祝して造られたその巨大な時計台は、帝都の誇りともいえる建造物だ。
犯人が本当に“目立つ場所”を狙うのならば、間違いなくこの場所を選ぶ。
ヴァルターはコーヒースタンドに立ち寄った。紙コップに注がれる熱い飲み物を受け取りながら、その視線は決して手元から離れない。
時計台の基部、周囲のベンチ、広告塔、ゴミ箱の裏側……。
――ヴァルターの側にドリスの姿はなかった。
彼女は追いつけなかったのだろう。それは、ヴァルターにとって好都合だった。
(巻き込む必要はない。追いかけてきても犠牲が増えるだけだ)
この時間帯、広場にはすでに数百人以上が集まっている。
仮に、犯人がこの広場で爆発を起こせば、死者数は百を超える。
――探せ。
お前の信じる正義は、悲しみを止めるためにある。
ヴァルターは、紙コップの蓋を外し、熱い液体をゆっくりと口に含みながら、ヴァルターは全身の神経を研ぎ澄ませ、通りすがる人の波を見据えていた。
その中で、不自然な人物がいた。
ケーキをいれるような紙箱を手に、服装はまるで工場労働者のようなくたびれたシャツと毛織の吊りズボンをはいているが、その手が妙に綺麗だった。
爪の間に油の黒い汚れがなく、髭もそられ、肌は日焼けなどしていない。
あきらかに、労働者とは違う存在だと断言できた。
ヴァルターはそれとなくコーヒースタンドから離れて、コーヒーを飲みながら男の後に続く形で歩いていた。
男は時折周囲を警戒するようにきょろきょろと視線を動かしていたが、明らかにそれは素人の警戒レベルであり、通路を曲がったり、トイレに入るような動作ははさまず、目的地であろう時計台の裏手に真っすぐに進んでいく。
男は周囲に背を向けるようにして、紙箱を時計台の根元に置いて立ち去ろうとしていた。
だが、ヴァルターは静かに男を呼び止めた。
「忘れ物があるようだが」
ヴァルターの声に男はびくりと大きく体を跳ねさせた。
「お前のものだろう、この紙箱は」
ヴァルターが静かに告げると、男はうろたえたように視線を彷徨わせていた。
「いや、あの……俺のじゃないよ、別の、誰かの忘れ物だろ!」
「……俺はおまえがこの紙箱を持ってきて、ここに置いたのを見ていたがな」
静かな、しかし、有無を言わせない口調で問い詰めると男は言葉に詰まりながら、冷や汗を浮かべていた。
もしもこれが爆弾であり、時限式のものであるならば、犯人の狙いは二十分後の通勤ラッシュの時間だ。
他人の命を犠牲にしながら、自分はこの場を立ち去って、安全圏から正義を騙ろうというその腹積もりにヴァルターは憤りを感じていた。
「別に、証拠なんかないだろ!」
「ならば、そこの監視カメラを見てみるか?
俺がいたコーヒースタンドの監視カメラならば、お前の姿も映されていたはずだ」
ヴァルターはそう告げると男に近寄った。
周囲はヴァルターと男の騒ぎに戸惑ったのか、何が起こった、というように遠巻きに野次馬が集まってしまっている。
一刻も早く、この場から群衆を立ち退かせなければならない。
そう感じながら、ヴァルターは男を捕縛しようとしたが、その瞬間、男は懐から拳銃を引き抜いた。
「く、来るな! 撃つぞ!」
男が拳銃を引き抜いた瞬間、周囲の群衆が一気に悲鳴を上げて、慌てて飛びのこうとした。
ヴァルターは即座に男の体を取り押さえようとした。
仮に撃たれたとしても構わなかった。
通常、弾丸は人間の肉体に当たればその衝撃の大半を殺される。
この体が盾となり、他の人間に被害がでなければそれで構わんとヴァルターが男の銃口に自分の体を出した瞬間、男の真横から透明な液体が浴びせられた。
「うわ!」
冷たいその感覚に男が思わず振り返ると、そこには髪を結った蒼いワンピースを着た少女――ドリスが佇んでいた。
ドリスの手にはライターオイルの瓶が握られており、彼女は笑顔も何も浮かべない表情のまま静かに告げた。
「そのまま引き金をひけば、全身が火に包まれますよ」
ただ淡々と、瞳孔の開いた黄色の瞳で見つめてくる少女に気圧されたかのように犯人の表情が強張ったその瞬間、ヴァルターは男の腕をひねり上げ、その腕から拳銃を叩き落とした。
「ドリス!軍部に連絡を!爆発物が設置された可能性がある、ただちに爆発物処理班を呼べ!」
「はい、ヴァルター閣下!」
ヴァルターは床にねじ伏せられたまま、まだ悪あがきのようにもがいている男を押さえつけていた。
ドリスはすぐに公衆電話に向かうと、軍部への連絡を行っていた。
アーデン家の令嬢、元帥の孫娘として中央へと直接連絡する権利が彼女には許されていた。