燃える理想
朝陽はまだ低く、帝都の空には煤けた灰色が溶け残っていた。
グレゴール・ヴァルターは、軍大学の宿舎の食堂でコーヒーを片手に、広げた新聞の一面を見つめていた。
紙面を飾っていたのは、昨日の百貨店火災の続報。
そして、そこに添えられた見出しは、ヴァルターの目を射抜くような言葉だった。
――《革命騎士団、声明を発表。王政と貴族社会の即時解体を要求》――
ぎり、と紙面を握る手に力が入る。
記事にはこう記されていた。
『昨夜の百貨店爆破事件について、今朝未明、帝都新聞社に革命騎士団を名乗る集団から声明文が届いた。声明文によれば、現行の王政体制および貴族制度は「腐敗と階級格差の象徴」であり、社会構造の是正を求めるための行動としてテロが敢行されたとのこと。』
その下に記されたのは、ぞっとするような一文だった。
『――これからも、我々の正義が届かぬ限り、血と火は繰り返される。』
「……ふざけるな」
低く、だが明確に怒りを含んだ声が、喉奥から漏れた。
「正義だと? 自己の要求を突きつけるための暴力行動に他ならん。そんなことのために関係のない市民を巻き込んだというのか……?」
自分の隣で、新聞を覗き込んでいた男が肩をすくめる。
カミユ・シェリング。諜報部の准尉であり、ヴァルターとはスラム時代からの旧知である。
「まったく……定期的に湧きますねえ、こういう連中は」
呆れたように言いながら、カミユは煙草を取り出したが、ここが禁煙であることに気づいてやれやれとしまい直す。
「私が知る限りでも、同じような思想を掲げる集団は過去三十年で八つ。すべて壊滅したか、自然消滅したかのどちらかですが。結局ね、革命って名のもとに暴れるだけの無責任な連中ですよ、こういうのは」
だが、ヴァルターの表情は怒気を含んでいた。
ただの憤りではない。
吐き捨てるように言葉が漏れた。
「……誰かの涙を踏み台にして、何が正義だ。そんなものが赦されてたまるか……」
ヴァルターの頭に浮かんだのは、昨日の光景だった。
血まみれの掌で微笑んでいた少女の顔。
自分が死ぬことよりも、ヴァルターを生かすことを選ぼうとした姿。
彼女だけではない。
この火災で命を落とした者がいた。巻き込まれて怪我を負った者もいた。
それが正義の名の下に正当化されるというのなら――
「……俺は、そんなものの味方になどなれない」
ぽつりと漏れた言葉に、カミユがちらりと視線を向ける。
「……ま、当然でしょうね。私達は一応、秩序の側の人間ですし、それで飯を食っていますから」
カミユはそう言いながら、新聞を軽く指で弾いた。
「諜報部も既に動いていますよ。声明を出したグループの特定、潜伏先の洗い出し。……ま、年内には片が付くでしょう。今回はうちの上司もかなり本腰入れてるみたいでして。いやはや、珍しい」
だが、ヴァルターの顔からは、どうしても苛立ちが消えなかった。
今、自分は軍大学の学生という立場にある。
佐官に昇進するためには、この過程を経ることが義務であるとはいえ――
「俺は……今、何もできない」
その言葉には、痛切な無力感が滲んでいた。
軍人でありながら、ただ座学に励む日々。
現場で血を流している者がいるのに、自分は講義室で理論を学び、課題に追われるだけ。
昨日の火災が起きた瞬間も――自分は、偶然そこにいただけだった。
それすらも、軍人としてではなく、ただの“民間人扱い”の学生として。
「……俺は、何のために軍人になった?」
ヴァルターの声は、誰にも向けられていなかった。
だが、それを聞いたカミユは、ため息混じりに呟いた。
「グレゴール、あなたは潔癖すぎますよ。そんなに正義にこだわりますか?」
「……正義の味方を気取るつもりはない。俺にその資格はない。俺はただ、悲しむ者を減らしたいだけだ」
苦しそうに額を押さえるヴァルターに、カミユは言った。
「本当にあなたはロマンチストですねえ」
その言葉に、ヴァルターは何も返さなかった。
ただ、静かに新聞を畳み、その場を立ち去った。
背中越しにカミユの声が響く。
「……そうそう、一応、教えておきますよ。次の連中の狙いは、駅、だそうです。いやあ、被害は今回の比ではないでしょうねえ。日常生活の中で、避けられる場所じゃない。時間帯によっては勤め人も、迎えに来た家族も、ただそこを通りがかっただけの人間も、皆が対象にされてしまうんですから」
カミユの一言にヴァルターは拳を握り締めて立ち上がると、そのまま食道を出ていった。
ヴァルターの背中に向けて、カミユはふ、と笑みを浮かべて声をかけた。
「どうするんです?今のあなたは軍人として動く許可を得られないのに」
「現行犯逮捕の権利は民間人でも認められている」
ただ静かに、それだけを言い切ったヴァルターの姿にカミユは苦笑していた。
ようは、犯人たちが爆弾をしかけるそのタイミングを狙う、というのだ。
どうやって?
犯人たちの情報などろくに持っていないくせに、それでもやると決めたからには、ヴァルターは地べたを這いつくばってでも犯人の痕跡を探すのだろう。
そんな旧知の男を面白そうに眺めながら、カミユは口元を緩めていた。
ヴァルターが大学の門を出た瞬間だった。
「ヴァルター大尉──!」
振り返るまでもなく、その声が誰のものかは分かっていた。
ドリス・アーデン。
彼女は両手に包帯を巻いたまま、息を切らせながら立っていた。
その細い指先には、一部しわくちゃになった新聞が握られている。
そこに印刷された活字の一つ一つが、ヴァルターにも記憶されていた。
「……どうしてここに」
ヴァルターの問いに、ドリスは静かに、しかしまっすぐに彼を見上げた。
「この新聞を読んで、ヴァルター大尉なら動くと思いました。だから……来ました」
その言葉は、まるで信仰に似ていた。
ヴァルターはほんの一瞬だけ、沈黙した。
彼女の行動力に眉根を寄せながらも、今は無下にしている暇などなかった。
それゆえ、静かに一歩近づき、ヴァルターは問いかけた。
「……ドリス、お前がこの事件の犯人だったとしよう。どこに爆弾を仕掛ける?」
唐突すぎる問いに、ドリスは目を見張った。
だが、即座に真剣な表情に変わる。
彼女の瞳が揺れる。思考を巡らせているのが分かる。
「……私が、犯人の立場なら……」
言葉を慎重に選びながら、ドリスは語り出す。
「きっと、作戦が失敗することなど、そもそも考えていないはずです。もし、失敗を想定しているならば、こんなに大々的な声明文など出さない。まして、組織の名を記して誇示するなんて、あり得ない」
ヴァルターは無言で頷いた。
「彼らは、自分たちの掲げる正義に酔っているんです。きっとこう思っている──自分たちこそが、この歪んだ社会を正すべき存在で、自分たちより愚かな市民たちは、導かれるべき存在なのだと」
ドリスの声音には静かな熱があった。
彼女の頭の中で、これまで優等生、理想の令嬢の思考を擬似的に再現してきたのだろう。
「だからこそ、きっと彼らは……目立つ場所を選ぶと思います。人々の視線を引き、結果を誇示できる場所」
「──駅の中央大時計だ」
ヴァルターの声が、それに被さるように響いた。
帝国建国百周年を祝して作られた、あの巨大な記念碑。
駅の中央にそびえ立ち、人の流れの中心にあり、日々多くの市民の目に触れる象徴。
「そこならば、成功すれば“革命の狼煙”として名を残せる。失敗しても、大勢を巻き込める」
言い終えると同時に、ヴァルターは駆け出していた。
「ヴァルター大尉!」
ドリスもまた、その背を追いかけて走り出す。
ヴァルターはドリスに振り向かなかった。速度も一切落とさず、走る。
みるみるうちにドリスは後ろに置いていかれ、追いつけない。
それでも、ドリスは脚を動かすことを止めなかった。