煙からの逃亡
三階に到着した瞬間、グレゴール・ヴァルターはエレベーターの扉に体当たりするようにして身を叩きつけた。
通常、外部から操作するボタンは反応を失っており、内側の開閉も機能していなかったが、内側の非常レバーに指をかけ、全体重をかけて引き倒すと、軋んだ音を響かせながら、扉がわずかに口を開ける。
そこに肩をねじ込み、金属が悲鳴を上げるような音を立てながら、腕の力で強引に引き裂いた。
わずかな隙間から、冷たい空気が流れ込んできた。
やっと開いた──そう判断したヴァルターはすぐに身を翻し、後方に続いていたはずのドリスへと振り返り、腕を伸ばした。
「ドリス!」
声に驚いたように、ドリスははっと顔を上げた。
彼女の手は、梯子の金属部分にしがみついているものの、その指は震えていた。
細く、華奢なその手は、日頃、重いものを持つことにも、長時間の保持にも慣れていない。
額には汗が浮かび、唇は真っ青だ。
「もう少しだ。手を離すな。しっかり掴め」
ヴァルターの言葉に、ドリスは小さく頷いたが――その瞬間、バランスを崩した。
ふ、と重心がずれたかと思えば、次の瞬間には足場を失い、ドリスの体が宙へと投げ出される。
手から滑り落ちた靴が、下のエレベーターへと落ちていく。
そのまま落下するかと思われたが、ヴァルターはすかさず手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
「くっ……!」
ドリスの体重がヴァルターの片腕にのしかかる。
煙が上昇してくる気配が、ドリスの背後から迫ってきていた。
「そのままだ、動くな!」
ヴァルターは歯を食いしばり、もう一方の腕を伸ばして彼女の身体を抱えるように引き上げていく。
指先が滑る。服の布地が手の中でずれ落ちる。だが、絶対に離さなかった。
ヴァルターの指が食い込み、ドリスの腕の骨が軋むほどに強く握り締めていた。
やがて、ようやくドリスの肩を抱えたまま、ヴァルターはエレベーターの外へとその身を引き上げる。
勢いで後方に転がるように着地しながら、すぐさま立ち上がり、彼女の体を抱え直す。
「立てるか?」
「……はい」
彼女はそう言って立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。
立てない。
それが明白になった次の瞬間、ヴァルターは彼女の体を軽々と抱きかかえていた。
頬が彼の肩に触れる。熱を感じる。耳が、焼けるように赤くなる。
「っ……!」
こんな状況下でなければ、ドリスはとっくに気絶していたかもしれない。
けれど、ヴァルターの腕の中にいるという現実が、恐怖や痛みよりも先に、彼女の心臓を激しく鳴らしていた。
(違う、こんなときに、こんな……)
体の隅々まで、彼の存在が染みわたるようだった。
硬い胸板に抱き寄せられ、肩越しに流れる息遣いを感じながら、ドリスは必死に呼吸を整えようとした。
(おかしい……私は、助かることよりも、この腕の中にいることに……)
嬉しい、と思ってしまった。
それは、自分でも許せない感情だった。
火災のただ中にいるというのに、命の危機の中にいるというのに。
それでも、心のどこかで、この瞬間が永遠であればいいとさえ思ってしまった自分がいた。
(どうして……私は……)
ヴァルターは彼女の思考など知る由もなく、冷静に非常階段の方向を見据えていた。
「ここから非常口まで走る。掴まっていろ」
「……はい」
彼女の声は震えていたが、確かだった。
ヴァルターは言葉通り、駆け出した。
廊下の先、非常用の赤い扉の先にある階段を目指して――
まだ火の気は届いていない。だが、煙は確実に這い寄ってきている。
煙は上に昇る時には横に広がるよりも遙かに早く進軍してくる。
火災現場での死因の大半が炎ではなく、煙にまかれた事なのはそのせいだ。
目を細めながらも、ヴァルターは一歩も躊躇わず前へ進んでいく。
その背中はどこまでも頼もしく、けれどどこか、切なかった。
ドリスは彼の肩に顔を預けながら、ぽつりと呟いた。
「……ヴァルター大尉は、どうして、私を助けてくれるのですか……?」
答えは返ってこなかった。
だが、それでも。
その腕の強さが、何よりの答えだった。
非常階段を駆け下り、グレゴール・ヴァルターが建物の外に出た瞬間、その目に飛び込んできたのは、赤と青の光に染まる夜の街だった。
建物の正面玄関は封鎖され、すでに複数の消防車が集結し、放水を開始していた。隊員たちが怒声を上げながらホースを引き、火花を散らすように水が建物へと浴びせかけられている。
空気には煙と焼けた金属の匂いが充満しており、現場一帯は騒然としていた。
――地震ではない。
最初に感じた揺れは、確かに激しいものだった。だが、周囲の他の建物には外傷がない。ガラスの破損や壁の崩れなど、目立った被害は確認できない。
となれば、原因はこの建物の内部にある。ヴァルターは即座に判断を下した。
(地下か……?)
この百貨店には地下にレストラン街がある。ガスを使用する店舗も多いはずだ。何らかの要因で引火し、爆発を引き起こした――それが最も現実的な仮説だった。
あるいは、古い配線による電気系統のショートが誘因となった可能性もある。
だが、今は原因追及よりも目の前の命だ。
腕に抱えたままの少女、ドリス・アーデンの体重が思ったより軽いことが、どこかひどく胸に堪えた。
ヴァルターは救護所のテントに向かい、手短に声をかけた。
「女性一名、保護をお願いします。煙を吸っている可能性がありますが、意識は明瞭です」
「了解しました!」
白衣姿の救急隊員が担架を引き、ドリスを受け取ろうとする。
だが、ドリスはヴァルターの腕から離れる瞬間、きゅっと制服の袖を掴んだ。
「わ、私……大丈夫です。ヴァルター大尉がいてくれましたから……」
微かに震える声。
だが、その声とは裏腹に、彼女の掌は赤く擦り切れていた。
梯子を登る際に握り続けた金属の冷たさと硬さ、そして力を込めすぎたあまりに皮膚が剥がれ、血が滲んでいた。
ヴァルターはそれを見て、声を潜めるように言った。
「痛みは?」
「……いえ。……今、言われて初めて……」
ドリスは困惑したように目を瞬かせ、自分の手を見つめた。
何かを感じていたはずなのに、気づかなかった。
火災の恐怖よりも、ヴァルターに抱き抱えられていた高揚感が、そのすべてを塗り潰していたのだ。
自分でも信じられなかった。手が痛いとさえ、思っていなかった。
医療隊員は素早く消毒用の布を取り出し、ドリスの手を覆う。
「この程度なら大事には至りません。ただし、煙を吸っている可能性もありますから、しばらく休息を取ってください」
「……はい」
ドリスはこくりと頷いた。
その間にも、ヴァルターはすでに背を向けていた。
「俺の方は怪我はない。他の避難者の保護を優先してくれ」
その言葉を残すと、ヴァルターは歩き出した。
ドリスはその背中を、ベンチに座りながら目で追いかける。
あの広い背中。
どんな炎も恐れず、どんな状況にも動じない軍人としてのその姿。
自分は、その背を、ずっと見てきた。
(……でも、あの人の隣に立つということは、こういうことなんだ)
彼女の中で、何かが変わり始めていた。
ヴァルターに守られることだけを求めていた少女は、今、自分の手の痛みと、彼の腕の重みを初めて意識した。
(私は……)
ただ「見ているだけで幸せ」では、もう済まされない。
彼にとって、私の命は「守るべき対象」であっても、「並び立つ者」ではない。
それを痛感した。
でも――それでも、あの人の隣を目指したい。
ドリスは、掌に滲んだ血の感触を感じながら、そっと指先を握りしめた。