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閉じ込められた二人

 帝都中央区、午前十時過ぎ。


 重厚な石造りの建物の一角、階段を上がった先にある百貨店の文具売場は、平日午前という時間帯にもかかわらず、それなりの人で賑わっていた。


 グレゴール・ヴァルターは店内の片隅、筆記具の棚の前で立ち止まった。


 軍大学での講義に備え、使用していたインクがほとんど尽きていることに気づいたのは今朝だった。彼の愛用しているのは、特別なものではなく、速乾性に優れ、やや青みがかった廉価な黒インク。店に行けばすぐに手に入るだろうと思っていた。


 が――


 棚に残っていたのは、たったひとつ。


 そのボトルへと手を伸ばそうとしたその時だった。


「あっ……」


 小さく声が重なった。


 見慣れた声色に、ヴァルターは視線を動かす。


 そこに立っていたのは、栗色の髪を清楚に結い上げた少女――ドリス・アーデンだった。


 彼女の手もまた、同じインクへと伸びていた。

 だが、ヴァルターと目が合うと、彼女ははっとして手を引いた。


「失礼しました、ヴァルター大尉。どうぞお取りください」


 ドリスは柔らかく微笑みながら、一歩下がった。


「いいのか?」


「ええ。私はただの私用ですから。こちらは講義でお使いになるのですよね?」


 言われてみればその通りだった。


 ヴァルターは小さく頭を下げてインクを手に取り、礼を述べた。


「感謝する」


 ドリスは笑みを崩さず、すぐ隣にある別の銘柄を手に取る。


「このインク、人気みたいですね。前にも売り切れていたことがあって、それからは予備を持っておくようになったんです」


 どこか懐かしむように言う彼女の表情に、ヴァルターは応じず、ただ一礼しその場を離れようとした。


 だが、同じ方向のエレベーターへと向かった彼女の後ろ姿が視界に残る。


     ◇


 エレベーターの中は、外よりもわずかに空気が冷たい。


 ヴァルターとドリス、そして数人の買い物客が乗り込んだ箱型の空間に、軽やかな音楽が流れていた。


 ヴァルターは壁際に立ち、腕を組みながら目線を前方へと向けた。


 ドリスは、その斜め向かいに立っていた。


 じっと、彼を見つめている。

 まるで、目をそらせば自分が見失われてしまうかのように。


 その視線を感じながらも、ヴァルターは気づかぬふりを続けた。

 これまでもそうしてきたように。


 だが――


 突如として、エレベーターが強く揺れた。


「っ……!」


 重々しい振動が床を這い、天井の灯りが一瞬ちらつく。


 金属が擦れるような音とともに、エレベーターは急停止した。


 乗客たちがざわめく。


 ヴァルターはすぐに姿勢を正し、周囲を確認した。


「落ち着け。急なブレーキだが、恐らくシステムの一時停止だ」


 冷静な声で周囲を制すると、他の客も静まり返った。


 ふと足元を見ると、ドリスが床に崩れていた。バランスを崩して倒れたらしい。


「ケガは?」


 ヴァルターはすぐに膝をつき、彼女に声をかけた。


「だ、大丈夫です……。驚いただけで、打撲もないかと……」


 ドリスはそう言って立ち上がろうとしたが、エレベーターの隅に寄ったその時、ふいに眉をしかめた。


「……何か、焦げ臭い匂いが」


 その一言に、ヴァルターも気づいた。


 空気の中に、確かに微かだが金属が焼けるような匂いが混ざっている。


(まさか、火災――)


 エレベーター内の通気口に鼻を近づけると、煙の成分が入り混じった特有の臭気が鼻腔を刺激する。


 ただのシステム障害ではない。


 この建物のどこかで、火が出ている可能性がある。


 ヴァルターはエレベーターの操作盤に向かい、非常ボタンを押した。


 応答はない。


 インカムも繋がらない。地下の電波障害か、あるいは火災による遮断か――。


(まずいな)


 床に座り込んでいたドリスが、不安げに彼を見上げる。


「ヴァルター大尉……これは、まさか」


「おそらく、下層か電源系統で何かが起きた。安全装置が作動して停止したのだろう」


「このまま……閉じ込められてしまうのですか……?」


 ドリスは確認をしていたが、その声は妙に落ち着いていた。


 恐怖もなく、動揺もなく、ただ現状を把握しようとしている。


 それはヴァルターにとって、緊急時にパニックになられるよりはマシだったが、令嬢としてはどうしても違和感を覚える姿だった。


 エレベーター内に漂っていた焦げ臭さは、徐々に確信へと変わっていった。


 金属の軋む音、機械音の途絶えた静寂、そして、わずかに鼻腔を刺激する煤のような匂い。


 ヴァルターは冷静なまま、天井を見上げた。


 このエレベーターが止まったのは、四階と三階のちょうど中間地点。

 扉は開かず、非常通話も反応がないとなれば、頼れるのはただひとつ――整備用ハッチ。


 天井中央に設けられた小さなパネル。その先に非常用の昇降空間がある。


 あれを開けられれば、外へ出ることができる。


 ――少なくとも、自分一人であれば。


「大尉……?」


 ドリスの小さな声が、沈黙の空間を揺らした。


 ヴァルターは彼女に向き直り、静かに告げた。


「俺はこれから、天井の整備ハッチを開ける。そこから脱出できる可能性がある」


 彼女の瞳が見開かれる。思っていた以上に、その提案は現実味を持って迫ったのだろう。


「では……私も?」


「当然だ」


 即答だった。


 だが、ドリスは顔を伏せたまま、小さく首を振った。


「私は、ここに残った方がいいのではありませんか?」


「……何?」


 ヴァルターの眉がぴくりと動いた。


「私が一緒に行けば……きっと足手まといになります。体力もない、運動も得意ではない……。私が同行すれば、ヴァルター大尉の脱出の邪魔になるのではないかと」


「馬鹿なことを言うな。ここに残れば――煙が上がってきたら、逃げ場はない。エレベーターのような構造は、煙が上昇する煙突そのものだ」


 だが、ドリスはなおも微笑んでいた。


「それでも……私は、グレゴール大尉が無事に帰れる可能性が少しでも高くなるなら……」


「…………」


「私のせいで、あなたが逃げ遅れるなんて――それが一番、嫌なんです」


 その言葉には、迷いがなかった。


 まるで、自分の命がどうでもいいかのような淡々とした口ぶり。

 実際、彼女にとって死はさほど恐怖ではなかったのかもしれない。


 ヴァルターは一歩、彼女に詰め寄った。


 その眼差しが冷えきった鉄のように鋭くなった瞬間だった。


「ふざけるな」


 その一言は、刃のようだった。


「俺の命のために、お前が死んでいい理由になるとでも思っているのか」


「……っ、ですが、私は……」


「自分を犠牲にして、誰かを救えると勘違いするな。そんなものは“献身”じゃない。単なる自己満足だ」


 ドリスの肩が震える。


 それでも、彼女は笑おうとしていた。

 震えながら、潤んだ瞳で――それでも微笑みを浮かべようとしていた。


「違います……私は、あなたに生きていてほしいんです。私なんかより、あなたが……」


「違うと言っている!」


 ヴァルターの声が、エレベーター内に響いた。


 それは、いつもの彼からは想像できないほどの怒りだった。


 怒りと……苛立ちと、そして――恐怖。


「俺は軍人だ。生きるも死ぬも、自分の責任だ。だが、お前が勝手に死を選んで、俺に生を押し付けるのはただの逃避だ」


「逃避……?」


「ああ。お前は役に立てなければ、生きている価値がないと思っている。そうやって、誰かのために自分を捧げることでしか、自分の存在を肯定できない」


「……それは」


「それが、どれほど愚かなことか――お前自身が、一番よくわかっているはずだ」


 ドリスの瞳から、ようやく微笑みが消えた。


 代わりに浮かんできたのは、戸惑いと、困惑と、うっすらとした涙の色。


 彼女は言葉を失い、ただ唇を噛みしめていた。


「俺は、誰の命を踏み台にしてでも生き延びるつもりなどない」


 ヴァルターは背を向け、天井のハッチに手を伸ばした。


「来い。お前も行く。命令だ」


 それは、軍人としての言葉だった。


 でもそれ以上に、誰かを失う恐怖を知る人間の叫びだった。


 しばしの沈黙の後、ドリスは立ち上がった。


 その足取りは不安定で、涙を堪えるように唇を引き結んでいた。


「……はい。従います、ヴァルター大尉」


 その声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。


 ヴァルターはハッチを開けると、先に体を引き上げた。


 そして、天井から腕を伸ばし、下にいるドリスをエレベーターの上部へと引き上げる。


 狭い天井裏、鉄骨の梁に整備用の金属のステップがつけられている。


 ドリスがスカートをはいているため、ヴァルターは先に昇りながら、はっきりとした口調で下にいるドリスへと語り掛けた。


「下はみるな。俺の声だけを聞け」


「……はい」


 薄暗く、上を見上げてもヴァルターの影は暗闇の中に紛れてしまっている。


 それでも、確かにドリスはヴァルターの姿を見上げ、細い指で必死に梯子を握り締めて、上を目指して昇っていた。

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