カフェへの復帰
カフェ「エトワル」の朝は、いつもより少しだけざわついていた。
春の気配を含んだ風が店先のベルを揺らし、開店前のガラス扉に小さな影が飛び込む。
「ドリスお姉ちゃんっ!」
元気いっぱいの声が、店内に響いた。
駆けてきたのは、店主アンナの娘、ミーナだった。まだ八つ。小さな体に大きな笑顔を乗せて、ドリスの胸に飛び込む。
「おかえりなさい! もうずっといなかったから、さみしかったよぉ……!」
「ふふ、ごめんね、ミーナちゃん。……ただいま」
ドリスはしゃがんでミーナを優しく抱きしめた。
その細い腕を抱きしめ返しながら、どこか安堵している自分に気づく。
久しぶりに踏み込むカフェの厨房は、変わらない温もりに満ちていた。
温かなスープの匂い、磨き上げられたカウンター、湯気を立てるポット──
「あんた、ほんとに大丈夫なのかい?」
ミーナの背後から、少し心配そうな声が飛ぶ。
カウンターの奥に立っていたのは店主のアンナだった。
エプロンの紐を締め直しながら、ドリスをしげしげと見つめる。
「顔色は……まぁ戻ってるけど、まだ痩せた感じがあるよ」
「ご心配おかけして、すみません……長くお休みをいただいてしまって」
深々と頭を下げるドリスに、アンナは「やめなって」と手を振った。
「休んで正解だったよ。……あのまま無理してたら、肺炎にでもなってたかもしれないからね」
「……ありがとうございます」
そう返しながら、ドリスは厨房の片隅にある白磁のカップを手に取った。
手のひらに伝わる陶器の冷たさが、日常へと戻ってきた実感を与えてくれる。
厨房では今日の仕込みが始まり、常連客の声が店内に響き始めていた。
ドリスはいつものように髪をまとめ、白いエプロンを身につける。
だが、ひとつだけ。以前と違う何かが、心の底にあった。
……女だという自覚。
それは、彼──ヴァルター大尉の言葉を聞いた夜から、ずっと胸の奥でくすぶり続けているものだった。
ふとしたタイミングで、ドリスは厨房の合間にアンナへと問いかけた。
「……アンナさん」
「ん?」
「ご結婚された時……どうして、旦那さまを選んだのですか?」
その問いに、アンナの手がぴたりと止まった。
「……へぇ、そんなこと聞かれるとはね」
驚いたように眉を上げてから、アンナは手元の布巾を脇に置いて、椅子に腰を下ろす。
「うちはね、戦争で旦那を亡くしてる。……だから、あんまり綺麗な話にはならないけど」
「……すみません、気を悪くさせてしまったなら……」
ドリスが慌てて頭を下げると、アンナは笑った。
「いいのよ。懐かしいってだけだから。……たまには話しても、旦那も文句言わないでしょ」
彼女の横顔は、どこか遠くを見つめるようだった。
「私があの人と結婚したのは、正直、生活のためだったのよ。戦後は混乱してて、女一人で生きるのは大変でね……」
「……はい」
「でも、不思議なものでさ。あの人、軍人のくせにのんびりしてて、とろくさくてね。靴もよく揃え忘れるし、洗濯物も裏返しのまんま」
くすっと笑うアンナの目元には、懐かしさが滲んでいた。
「ハンサムでもないし、特別な才能があったわけでもない。でも、あの人の隣にいると、不思議と心が静かになった」
「……落ち着く、相手だったんですね」
「うん。そうね……そういうのって、大事よ」
そう呟いたあと、アンナはふと目を細めて、ドリスを覗き込むように見つめた。
「だけどさ。ドリスちゃんが、こんな話をしてくるなんて……珍しいわね? 何かあったの?」
ドリスは一瞬、答えに詰まった。
けれど、無理に笑顔を作って首を横に振る。
「……いえ。ただ、ちょっと、興味があっただけです」
言葉に嘘はなかった。
ただ、その興味の中心にいる人物が誰なのかは──口にするつもりはなかった。
◇
昼時の喧騒の中で、ドリスはひとり、窓辺で紅茶の湯気を見つめていた。
落ち着く相手。
その言葉が、妙に胸に残っていた。
グレゴール・ヴァルター。
あの人のそばにいるとき、私は落ち着いていただろうか。
──違う。
胸が早鐘のように鳴って、目を逸らしたくなるほど恥ずかしくて、なのに、どうしても視線を追ってしまって。
それは「落ち着く」とは正反対の感情だった。
でも、それでも。
あの人の隣にいたいと、心が叫んでしまう。
そんな自分の心が、まだ愛なのかどうかも分からないまま──
ドリスは静かにカップを客のテーブルへと運んでいった。
◇
夜の帳が帝都に落ち、霧が街灯をぼんやりと包んでいた。
午後十時――。
カフェ「エトワル」は静かに、その日最後の営業を続けていた。
アンナは既に帰宅し、今店に残っているのは、ドリスと数人の客のみ。
閉店間際ということもあり、店内は落ち着いた空気に包まれている。
そんな中。
カラン、と軽やかな鈴の音が扉の上で鳴った。
反射的に顔を上げたドリスの目に、黒い軍服の男が飛び込んでくる。
「……!」
声は出なかった。
だが、その胸の奥で、確かに何かが跳ねた。
グレゴール・ヴァルター。
彼の姿を目にするのは、それこそ何日ぶりのことだろう。
変わらぬ厳しい表情と、鋭く研ぎ澄まされた雰囲気。
けれど、それすら懐かしくて、心がきゅっと締めつけられるようだった。
ドリスは自然と笑みを浮かべ、思わず一歩を踏み出しかけた――が。
「お、来た来た! ドリスちゃん、こっちも飲み物追加ね~!」
店内の奥から、軽薄そうな男の声が響いた。
茶色いコートを羽織った中年の男が、肘をつきながらグラスを傾けている。
顔なじみではあるが、酔うと途端に馴れ馴れしくなる厄介な常連客だ。
ドリスは一瞬、視線をヴァルターに戻すが、彼は無言のまま、いつもの窓際の席に腰を下ろしていた。
ためらいを押し殺して、ドリスは軽く会釈し、厨房に足を運ぶ。
すでに準備されていたビーフシチューを手に取り、慎重にテーブルへと運んでいく。
「……体調が戻ったようだな」
ふいに、低く抑えた声が落ちてくる。
「……はい。ご心配を、おかけしました」
返す声は少しだけ震えていたが、それは緊張のせいだ。
それとも、彼にまた会えた喜びのせいだったのかもしれない。
丁寧に料理を置き、スプーンを添え、ほんのわずかでも彼の横顔を見ていたくて、名残惜しそうにドリスは立ち去った。
「ドリスちゃん、酒もいっこ追加で頼むよ~!」
再び奥の男が手を挙げた。
「かしこまりました」
ドリスは笑顔を崩さずに対応する。
客あしらいは苦手ではない。むしろ、それこそが「完璧な令嬢」としての自分の強みだった。
男はドリスの細い手を取り、「あんたさ、ほんと可愛いよな」と笑いかけてくる。
「仕事中ですので、お手を離していただけますか?」
「冷たいなあ。そんなに肩肘張らなくてもいいじゃん?」
口元は笑っているが、目の奥に濁った欲望が滲んでいた。
ドリスは、模範解答を探していた。
店の雰囲気を壊さず、相手を怒らせず、でも自分の立場を守る方法――
それを考えた瞬間、ふと声が飛んだ。
「コーヒーを一つ、頼む」
ヴァルターの声だった。
不意に注がれたその一言に、ドリスも、男も、一瞬驚きの色を浮かべる。
「は、はい……!」
ドリスは思わず男の手をすり抜け、足早に厨房へと向かった。
彼がコーヒーを注文することなど滅多にない。
普段は紅茶か、ビーフシチューだけ。
(どうして……?)
ドリスは困惑しながらも、棚にしまわれていたコーヒー用のカップを取り出し、支度をしていた。
◇
厨房の奥でドリスがコーヒーを淹れている間にも、男は不機嫌そうに舌打ちをしながらヴァルターを睨みつけていた。
だが、ヴァルターはまったく気にする様子もなく、窓の外を見つめながらビーフシチューを静かに口に運んでいた。
腕を組み、背筋を伸ばした姿は、まるで揺るがぬ壁のよう。
その後ろ姿は、何も言わずとも、すべてを拒絶していた。
◇
ドリスはコーヒーカップを慎重に運び、テーブルへと置いた。
「……ありがとう」
「いえ」
言葉はそれだけ。
でも、ドリスの胸の奥では、何かがふわりと温かく弾けていた。
彼が来てくれた。
助けてくれた。
きっとそれだけのこと。
だけど、それだけで、十分すぎるほど嬉しかった。