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女の自覚

 薄曇りの空が、帝都の午前を淡く包んでいた。


 アーデン家の広い屋敷の一室――その奥まった寝室には、今なお淡い熱気がこもっていた。


 ドリス・アーデンは、重いまぶたを開ける。視界がぼやけて、天井の装飾が霞んで見えた。


 (……いつの間に、寝て……)


 身体が思うように動かない。喉は乾き、全身の関節が鈍い痛みを訴えている。それでも、心の中で最も鮮烈に浮かび上がったのは、昨夜の光景だった。


 彼の背中。振り返らないまま、突き放した冷たい声。


 「それを愛と呼ぶのならば――愛情というものに対しての冒涜だ」


 言葉の一つ一つが、まだ胸に残っていた。痛みではなく、ただ、静かに沁みる毒のように。


 ぼんやりとした意識の中――突然、ドアが三度、静かにノックされた。


 ドリスはびくりと身体を起こしかけ、だがすぐに咳き込んだ。浅くなった呼吸が、熱を含んだ空気を震わせる。


 「……何か……御用でしょうか」


 声は掠れていた。きっと使用人だろうと思いながら、かろうじてそれだけを口にする。


 だが、扉の向こうから返ってきたのは、想像もしなかった低く落ち着いた声だった。


 「……ヴァルターだ。少し、話がしたい」


 ドリスの時間が、止まった。


 「え……?」


 喉の奥から、かすかな声が漏れる。


 なぜ。どうして。こんなときに。


 「部屋に入っても、構わないか」


 ドリスの心臓が、瞬間、跳ねた。思考よりも先に、恐怖に似た焦りが全身を駆け巡る。


 (この部屋に、彼が……!?)


 慌ててベッドの端に手をつき、ぐらつく身体を起こす。冷え切った床に裸足で立ち上がると、バランスを崩しかけながらも扉に駆け寄った。


 「ま、待ってください……下に……下に降りますから……応接室で……!」


 必死に言葉を繋いだ。喉がひりついた。だが、それよりも何よりも――部屋を、見られてはいけない。


 この部屋には彼のすべてがある。


 写真。無数の、彼の姿を切り取った光景。


 それは紛れもなくドリスにとっての愛の形だ。

 だが、これがヴァルター当人にとって受け入れられるものではない、という自覚もあった。


「……お前は謹慎処分中だ。そして、病身でもある」


 ヴァルターの声が、扉越しに、冷静に響いた。


 「だからこそ、今お前を階下に連れ出すわけにはいかない。非礼は承知の上だが――許せ」


 その言葉が終わるよりも早く、ドアノブが回る音がした。


 「待って、ダメです、お願い、お願いですから……!」


 懇願の声は、開いた扉の向こうへと吸い込まれた。


 そして。


 部屋の中に踏み込んだヴァルター・グレゴールの目に映ったのは――


 淡く揺れるレースのカーテン。薔薇色の壁紙。優雅に整えられた少女の寝室。


 その中心に、ただ一人立ち尽くす、青ざめた少女。


 ドリス・アーデン。


 その背後。壁一面、机の上、棚の隙間、額縁、ラミネート、日付つきのファイル――ありとあらゆる場所に、貼り付けられ、飾られ、収められていたのは。


 すべて――ヴァルター自身の姿だった。


 基地での訓練風景。カフェで本を読む横顔。冬の街路で立ち止まる影。遠距離からの望遠で捉えた彼の背中。


 数百枚以上。


 数え切れぬほどの、グレゴール・ヴァルターの肖像。


 部屋全体に、彼だけが生きていた。


 「……っ」


 ヴァルターは、言葉を失った。


 そして、次の瞬間――


 目の前で、ふらりとドリスの身体が揺れた。


 すぐに駆け寄る。腕を取ると、驚くほど細く、冷たく、熱かった。


 「おい……立っているのも限界ではないか。無理をするな」


 「い、いけません……この部屋は……見ないで、お願い……」


 掠れた声で、消え入りそうに呟く。


 だが、ヴァルターは聞き入れなかった。


 その場で、少女の身体を支えるように持ち上げ、ベッドの方へと歩み寄った。


 「ヴァルター大尉……見ないで、ください……」


 その言葉に、ヴァルターの足が一瞬だけ止まる。


 そして無言のまま、ヴァルターの腕が乱暴にドリスの体をベッドへと押し付けた。

 ドリスはこれほどの至近距離にいるヴァルターを見たことが無かった。

 目はヴァルターの表情をとらえ、彼から目を離せずにいた。


 「なぜ……ここまで、己を削るような真似を……」


 ヴァルターは、低く呟いた。怒りというには静かすぎる声だった。けれど、その胸には確かに、どうしようもない感情が渦巻いていた。


 見ているだけで、幸せ。手を取らなくても、そばにいられなくても、それでいい。


 そんな歪んだ愛が、ここまでの自己犠牲を伴って積み重ねられていた。


 彼女は、壊れそうなほど一途だった。


 だが、それはもはや信仰に近く、ただの「想い」ではなかった。


「お前は、結婚するということの意味が分かっていないのか」


 そう、ヴァルターに問われて、ドリスは言葉が喉に詰まっていた。


 結婚するということ、婚約者になるということ、それはドリスにとってヴァルターの側にいていい、という許しを貰うことでしかない。

 それ以上は何も理解していない。

 見ているだけ、それ以上は踏み込まない、ただヴァルターの姿を眺め、ヴァルターの声を聞ければそれで十分。

 それがドリスの縁談への理解だった。


「結婚すれば、俺と子をなす必要もでてくる。それを理解しているのか」


 そう言われた瞬間、す、とドリスの瞳孔が縮んでいった。


 それは恐怖だったのか、拒絶だったのか、それがドリスには分からない。


 ただ、彼女の青ざめていた顔が一気に真っ赤に染まっていった。


 そんなドリスの反応にヴァルターもまた、眉根をひそめたまま、怪訝そうな目を向けていた。


「……考えて、いませんでした」


 か細く、絞り出すように漏らされたドリスの声は震えていた。


 娘としては美しく、愛される形に育った姿をしているのに、ドリスの心は10歳の頃、ヴァルターに手を引いて案内してもらった迷子のまま……子どものままで止まっていた。


 まさか自分が女として、男を受け入れることができる、など想定していなかった、というようにドリスは顔を真っ赤にして項垂れていた。


 ヴァルターは、今まさに自らの足で踏み入れてしまった「少女の聖域」を、じっと見下ろしていた。


 ベッドの傍。机の上。壁。棚。──そして、天井近くの梁にまで。


 そこに貼られていたのは、すべて、自分自身の写真だった。


 軍の式典、出撃直前、演習中。見知った風景と、自分の横顔、背中、横たわった姿までも──カメラの視線はひたすらに、ある一点だけを追い続けている。


「……悪趣味だな」


 呟いたその言葉は、誰に向けてというより、思考の底から漏れ出したものだった。


 その背後で、ドリスはまだ硬直していた。

 ベッドの上、膝を抱えるように座り、頬を赤く染めたまま視線をさまよわせている。

 彼女の動きは不自然なまでに小さく、どこか人形のようでもあった。


 ヴァルターは長い沈黙の末に、ゆっくりと首を振った。


「……ドリス」


 名前を呼ばれ、少女はびくりと肩を震わせた。


 だが、彼女は何も言わなかった。目も合わせようとしなかった。

 その沈黙が、逆に彼女の羞恥を物語っていた。


 ヴァルターは重いため息をつきながら、壁のひとつに貼られていた写真を一枚、剥がして手に取った。


 自分の後ろ姿。きっと演習帰りだろう、汗に濡れた制服の背が、異様なまでに克明に写っていた。


「……俺は、誰かを愛そうとは思っていない。そもそも、その資格もないと考えている」


 その言葉は、告白でも説教でもなかった。ただの、事実だ。


「お前は、俺を愛してると言った。だが……」


 ドリスがそっと顔を上げる。頬はまだ真っ赤で、瞳は潤んでいた。


 ヴァルターは、彼女の目を真正面から見据えた。


「お前は自分が女であるということを、本当に理解しているのか?」


 ドリスの目が、大きく見開かれた。


「女として、男と結婚し、共に生きるということがどういう意味を持つのか……その覚悟を、お前は持っていたのか?」


 少女の唇が、言葉にならないまま震える。

 否定も肯定もない。思考が追いついていないのだと、ヴァルターにはすぐに分かった。


 彼女の好意は確かだ。けれどそれは、愛というには幼すぎ、危うすぎるものだった。

 彼女自身が女である自覚を持たないまま、ただ憧れと信仰のような気持ちで結婚を夢見ていた。


 ヴァルターは最後に、はっきりと言い残した。


「……女としての自覚を持て。でなければ、伴侶として誰かの傍に立つ資格などない」


 そのまま、ヴァルターは踵を返した。

 ドリスが何かを言いかけた気配があったが、それを聞く前に、彼は扉を開いて部屋を出た。


 扉が閉じる音が、まるで時を切り裂く音のように響いた。


     ◇


 屋敷の廊下を歩きながら、ヴァルターは額に手をやっていた。


 冷静でいようと努めたつもりだったが、少女の顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。


 あの真っ赤になった顔。潤んだ瞳。

 羞恥と混乱に沈みながらも、必死に言葉を飲み込んでいた姿。


(……だから、悪趣味だと言ってるんだ)


 何かが心の奥をざらりと撫でてくる。

 この感情は、不快か。それとも、違う何かか。


 その疑問に答える前に、ヴァルターはコートの裾を翻し、足早にアーデン家を後にした。


     ◇


 ドリスはベッドの上で膝を抱えながら、手を胸元に当てていた。


 心臓が、まるで壊れた時計のように、早鐘を打っていた。


「……私、おかしいです……」


 掠れた声で、呟いた。


 頬だけではない。耳の先までも熱く、顔全体が火照っている。


 もしかして、熱があるのか。風邪をぶり返したのか。

 自分でも、身体の不調なのか、それとも──何か別の“熱”なのかが分からなかった。


 ヴァルターに、あんな風に言われたのは初めてだった。

 あの人は、いつだって冷静で、どこか遠くて。

 けれど、さっきの彼は違った。

 あの目は、確かにドリス自身を見ていた。

 叱っていた。諭していた。そして、向き合っていた。


 自分が女であること。


 そんなこと、意識したことがなかった。

 ずっと、祖父の言いつけを守り、いい子であることに徹してきた。

 女らしさとは、控えめで清楚であることだと教えられ、そのまま大人になった。


 けれど、あの瞬間。

 ヴァルターの言葉は、まるで胸の奥に突き刺さる雷のようだった。


(私は、女として、彼に見られていた……?)


 その考えに、身体がびくりと震える。

 羞恥と、得体の知れない歓喜とが入り混じる感覚。


 そして、それに気づいた瞬間、またしても顔が赤くなる。


「……やっぱり、風邪……かも……」


 小さな声で呟いて、ドリスは枕に顔を埋めた。


 そうでも言わなければ、この熱の意味を認めたくなかった。


 彼を見ているだけで幸せだった。

 ただ、それだけで満たされていた。

 けれど――


 今日の自分は、確かに彼の視線を受け止めてしまったのだ。

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