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煙の向こう側

 重厚なドアが閉まる音とともに、軍議の時間は終わりを告げた。

 高級将官たちは硬い表情を解きながら、ぞろぞろと会議室を後にしていく。


「では、また来週」


「例の新型の砲弾の件、次回までに具体的な試算を出しておくよ」


 政治と戦略と利権が入り混じる重たい時間の後で、誰もが少し肩を落とし、自然と足は隣室へと向かう。


 ――シガールーム。


 軍本部の上階にあるそれは、騎士階級以上の高級将官たちだけが利用を許された、密談と休息の空間だった。


 壁には帝国の戦旗。

 窓には分厚いカーテン。

 調度品はすべて職人仕上げのものばかり。

 天井のシャンデリアが、琥珀色の光を落としていた。


「どうも、アーデン閣下。今日は一段と渋いスーツで」


「貴公もな、ヘルムート中将」


 ルードヴィヒ・アーデン元帥は、苦笑混じりに挨拶を交わしながらも、無言でソファに腰を下ろした。


 葉巻に火を灯す。

 その煙が、目の前の空気を曇らせる。


 他愛のない世間話が始まる。


「聞いたぞ、ルードヴィヒ。孫娘さんの見合い相手に、グレゴール・ヴァルター大尉を選んだとか」


「ふむ、まあ……そうだな」


 ルードヴィヒが淡く応じると、その場に微妙な空気が流れた。


「ヴァルター大尉か……なるほど。いや、あの男の戦果は聞いてるよ。実直で、まじめで……ね」


「ただなあ、貴族社会というのは、そう単純な話でもないぞ?」


「平民出身の軍人が、我らの輪に加わるというのは……ん、少しだけ、違和感があるというか」


 くすり、と誰かが笑う。

 あからさまな侮蔑ではなかったが、それは確かに、線引きされた笑いだった。


「まあ、ご令嬢のことだ。きっと、身分の差なんて気にしない純情な想いもあるのだろうが……はてさて」


 その場に漂う分かりやすい理解者のフリ。

 彼らはヴァルターのような男を理想として持ち上げつつも、現実という名の枠に閉じ込めようとしていた。


 ルードヴィヒは何も言わず、葉巻の煙をふっと吐き出した。


 その視線の奥で、静かな何かが揺れていた。


(かつての私も……ああ、そうだった)


 若い頃の自分を思い出す。

 命など、数字だった。

 兵士はコマ。効率と戦果のための消耗品にすぎず、犠牲の多寡は報告書の中でしか存在しなかった。


 アーデン家の名誉と地位を守ること。

 それこそが、ルードヴィヒの軍人としての第一義だった。


 ――そして、彼の息子は死んだ。


 前線で、ルードヴィヒ自身の描いた戦術の中で。


 あの瞬間、己の価値観は崩れ去った。

 残されたのは、病に伏した嫁と、早産で生まれたか細い命。


 ドリス。


 その名を思い浮かべただけで、胸の奥が軋んだ。


 話題は別の将官の息子の出世話に移っていた。

 だが、ルードヴィヒはもうそれに興味を持たなかった。


 グラスの中の琥珀色が揺れる。

 そして、その向こうに浮かぶのは、あの娘の顔だった。


(私の死後……あの子は、ひとりで生きていけるだろうか)


 それが、ルードヴィヒの脳裏にある唯一の不安だった。


 彼女はいい子すぎる。

 誰にも逆らわず、誰の期待にも応えようとする。


 それは時に、致命的なまでに脆い性質だった。


 もし、悪意のある相手と結婚すれば――

 ドリスは必ず、献身という名の自己犠牲を繰り返し、壊れてしまう。


 壊れるまで、声も上げずに、黙って耐え続けてしまうのだ。


(だからこそ、必要だった。ドリスを利用しない男が)


 財産でも、名誉でも、地位でもなく。

 ただ、彼女自身を見て、手を取ることなく、守れる男。


 ――グレゴール・ヴァルター。


 あの男は、決してドリスに触れようとしない。

 それは冷たいのではなく、あまりに誠実だからだ。


 誰かを守るということが、誰かを縛ることに変わると知っている。

 だから、彼は自ら手を伸ばさない。


(私は……あの男のそういうところを、信じていた)


 たとえ、周囲にどれほど笑われようと。


 ルードヴィヒは葉巻を灰皿に押し当て、煙の名残を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。


「……失礼する」


「おや、もうお戻りで?」


「歳を取ると、長く座っているのが辛くてな」


 誰かが冗談交じりに笑ったが、ルードヴィヒは軽く手を振るだけで応じた。


 扉の向こう、廊下に出ると、空気が一段と冷えていた。


 春とはいえ、まだ風は冷たかった。

 

 ルードヴィヒ・アーデンは、その中庭を一人歩いていた。

 軍本部の仕事を終えた後の僅かな時間、彼が基地内を歩くのは珍しいことではなかった。

 花壇の薔薇はまだ蕾のまま、ベンチにうっすらと煤がつもる。そんな中を、年老いた軍人の足音が淡々と響く。


 ふと、正面から歩いてくるひとつの影が目に入った。


 きびきびとした歩調、真っ直ぐな視線。

 黒い軍服に身を包んだその男を、ルードヴィヒはすぐに見分けた。


「……ヴァルター大尉か」


 声をかけると、男はぴたりと立ち止まり、敬礼をした。


「元帥閣下、突然の訪問、失礼いたします」


「何かあったのか。大学から直にこちらへ向かってきたようだが」


 その問いに、ヴァルターはほんの僅か、目を伏せてから答えた。


「本日は……私情にて、参上いたしました」


 それは彼にしては珍しく、曖昧な物言いだった。


 ルードヴィヒは眉をひそめる。


「私情、とは?」


 数秒の沈黙の後、ヴァルターは深く息を吐き、低く、はっきりと告げた。


「貴嬢ドリス・アーデン殿の行動について、閣下にお伝えしておくべきと判断しました」


 ルードヴィヒは足を止めた。

 ヴァルターの口調が、極めて慎重であると同時に、揺るぎないことに気づいたのだ。


 ヴァルターは続けた。


「私は先日より、ドリス嬢に幾度となく接触されております。大学の門前にて待ち伏せされ、贈り物を持参されることもありました」


 言葉は穏やかだった。だが、その実情は冷静すぎるほどの報告だった。


「彼女の行動は……好意を通り越し、私生活への干渉と呼べるものです。ゆえに、今日、直接報告させていただいた次第です」


 ルードヴィヒはしばし言葉を失った。


「……まさか、あのドリスが……」


 信じられない、といった調子で呟く。

 ドリスは常に静かで、従順で、決して誰にも迷惑をかけるような真似をする子ではなかった。

 だが――


(……だからこそ、か)


 彼女の中にある静けさが、本当はどれほど危ういものだったのか。

 それを見抜けなかった自分を、老軍人は内心で悔いた。


「……ヴァルター。お前には、迷惑をかけたな」


 静かに頭を下げたその姿に、ヴァルターはわずかに目を見開いた。


「元帥閣下……」


「わかっている。あの子は、誰よりも人の顔色を見て生きてきた。誰の前でも“いい子”であろうとした。……だが、その生き方が、誰かを縛るものになってしまったのなら、それは矯正されねばならん」


 ルードヴィヒの声は、僅かに震えていた。


「ヴァルター。……頼みがある」


「……なんでしょうか」


「……あの子を、拒絶してやってくれ」


 その一言に、ヴァルターは言葉を失った。


 ルードヴィヒは顔を上げ、ヴァルターの目を真正面から見据えていた。


「私が言っても、あの子は従うだけだ。感情を爆発させることができない。否、感情というもの自体を、自分の中で否定してしまっている。だが、お前なら……」


 その先の言葉を、彼は言えなかった。


 しばしの沈黙の後、ヴァルターは口を開いた。


「……私は、誰とも結婚するつもりはありません。自分が背負うべき信念を、私情によって歪めることはしないと決めています」


 それは、以前と変わらぬ彼の答えだった。


「ですが、だからこそ。彼女がこれ以上、私の背を追うことのないよう、私は改めて直接、拒絶を伝えるつもりです」


 その言葉に、ルードヴィヒは目を伏せた。


「……すまんな。老い先短い身で、孫娘の幸せを願うことすら、誰かに託さねばならぬとは」


「閣下」


 ヴァルターの声が、少しだけ柔らかくなった。


「私は、彼女を憎んでいるわけではありません。むしろ、その献身が、どこか哀しいとさえ思う。だからこそ、私は彼女を利用しないと、そう誓っています」


 その言葉に、ルードヴィヒはゆっくりと頷いた。


 春の気配が、まだ遠い空の向こうにかすんでいた。

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