鏡の娘
誰かの手が腕を取っていた。
「お嬢様、もう……お部屋にお戻りください!」
「早くベッドに……お身体が冷えてしまいます」
使用人たちの慌てた声。
それに、ドリス・アーデンは曖昧に頷きながら、ふらふらと歩を進めていた。
だが、自室の前まで来たとき、彼女は唐突に立ち止まり、小さく言った。
「……中には、入らないでください」
それは、か細い声だった。
だが、使用人たちはすぐに従った。ドリスがそういうときは、何か理由があるのだと知っていたからだ。
ドリスは扉を閉めると、鍵をかけることはせず、ゆっくりと、よろける足取りで部屋の奥へと進んだ。
冷たい空気。しんと静まり返った空間。
そして、その壁面を埋め尽くす――無数の写真。
ベッドの脇、机の上、棚の奥、額に飾られたもの、ラミネート加工されたもの……。
どれも、どこかの場所で撮られたグレゴール・ヴァルターの姿だった。
制服姿で部隊を指揮する姿。基地の外で歩いている後ろ姿。カフェで無言で紅茶を啜る横顔。
笑顔はほとんどなかった。それでも、どれも彼だった。
ドリスはふらりとベッドに腰を落とし、くたりと背を預ける。
息が浅く、熱に浮かされたような視界の中で、それでも彼の姿ははっきりと焼き付いていた。
「……ただ、見てるだけで……幸せなんです」
ぽつりと漏らした声は、誰に聞かせるでもない独白だった。
枕元の写真立てを手に取り、そこに映る無表情のヴァルターを見つめながら、彼女は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、忘れもしない、あの日の記憶だった。
◇
それは、ドリスが十歳の頃――建国祭のことだった。
帝都中が浮き足立ち、街には色とりどりの旗がなびいていた。
各地から集められた兵や市民が大通りに集まり、演説や軍楽隊の演奏が響き渡っていた。
祖父であるルードヴィヒ・アーデンに連れられ、ドリスは特別席にいた。
だが、人の波に押されるようにして、気づけば柵の外へ出ていた。
人混みの中で、祖父の背はすぐに見失った。
泣くこともできなかった。
助けを求めることも、叫ぶことも。
ただ、恐怖と混乱の中で、足を動かせずに立ち尽くしていた。
そのときだった。
「どうした、迷子か?」
低く優しい声。
ドリスが顔を上げると、そこにいたのは、まだ士官にもなっていない若い兵士――新兵のグレゴール・ヴァルターだった。
凛とした顔立ちに、落ち着いたまなざし。
彼は屈み、目線を合わせて言った。
「心配するな。俺が一緒に、行ってやる」
差し出された手は、少しだけごつごつしていた。
だが、温かかった。
その手を握った瞬間、心に差していた霧が晴れたように、ドリスは安堵した。
その後、ヴァルターは迷子の子どもだとは一言も言わず、「式典の引率です」と自然に嘘をついて護衛に声をかけた。
見事な機転だった。祖父のもとに戻った時、ルードヴィヒは彼に軽く敬礼を送り、「よくやった」と短く言った。
それだけの出来事。
だが、幼いドリスにとって、その時の記憶は世界が色づく瞬間だった。
(あれが、始まりだった)
安心。尊敬。憧れ。信頼。
言葉にできない感情が、あの一瞬に芽生えた。
そして、それは恋という言葉に姿を変え、年を重ねるごとに深く根を張っていった。
◇
ドリスは写真立てをそっと戻し、ゆっくりと横になった。
熱で思考は鈍く、身体の節々が軋んでいた。
それでも、瞼の裏には、あの夜のヴァルターの背中が焼き付いて離れなかった。
(振り返らなくてもいい……私を見てくれなくてもいい……)
彼が自分を見なくても。
名前を呼んでくれなくても。
ただ――その背の、すぐ後ろを歩きたい。
距離があっても構わない。
触れられなくても、届かなくても。
あの人が進む道に、自分もついていきたい。
(私の願いは……きっと、それだけ)
部屋の時計が、静かに時を刻む。
彼女にとっての幸せは、きっと常識の枠から外れていた。
手を繋ぐことでも、抱きしめられることでもない。
――ただ、彼の後ろに、いたい。
愛の名を借りた執着。
それが、ドリス・アーデンという少女の、恋心の根だった。
◇
重い曇り空が、帝都の朝に蓋をしていた。
煤煙で汚れた帝都においては、この程度の曇り空はいつものことだった。
アーデン家の食堂には、磨かれた銀器と白いクロスの整った朝食の風景があった。
いつもと変わらぬ食卓。だが、今朝は一つだけ、決定的に異なっていた。
――ドリス・アーデンの顔色。
席についた彼女は、淡いクリーム色のナイトドレスの上から、分厚いショールを羽織っていた。
身なりは整っている。所作にも乱れはない。だが、体調を崩しているのは誰の目にも明らかだった。
頬はこけ、目の下にくっきりと影を落とし、唇の色は青みがかっている。
それでも、ドリスはまっすぐと祖父の席を見て、静かに頭を下げた。
「おはようございます、おじいさま」
「……ああ、おはよう」
ルードヴィヒ・アーデン元帥は、娘のように孫を見つめていた。
その目は、軍人らしからぬ柔らかさを湛えていた。
しかし、その優しさを覆い隠すように、低い声で言葉を紡ぐ。
「ドリス、今朝から、お前は謹慎処分とする」
ドリスは一瞬だけまばたきをした。
それから、静かに頷く。
「……承知しました」
反論も、言い訳も、謝罪すらもなかった。
あるのは、ただ事実を受け止める静かな了解だけだった。
ルードヴィヒの眉間に、深い皺が刻まれた。
「昨夜、体調を崩していたと聞いた。にもかかわらず、屋敷を抜け出して外を歩き回っていたと……。自分の身体も管理できない者が、人の上に立てるはずがない。自覚しなさい」
言葉は叱責だったが、声には怒りではなく、焦燥のようなものが滲んでいた。
それでも、ドリスはうつむかず、まっすぐにその言葉を受け止める。
「はい」
ルードヴィヒは、やりきれなさを感じていた。
この子は、こうして叱っても、泣かない。怒らない。否、動揺すらしないのだ。
ただ、静かに、命令のように受け止める。
(まるで……鏡だな)
そう思った。
こちらの表情を映し、こちらの声色に反応するだけ。
彼女の中身が、まるで伝わってこない。
食卓には温かなミルク粥と焼き林檎、優しい味付けの野菜スープが並んでいた。
だが、ドリスはそのどれにも手をつけようとはしなかった。
「……ドリス」
言葉を選びながら、ルードヴィヒは尋ねた。
「何か……欲しいものはないか?」
それは軍人の語彙ではなく、祖父としての言葉だった。
長年、帝国の兵を率いてきた男にとって、それは最も不得手な役割だった。
だが、この孫娘のために、それでも踏み込んだ。
ドリスは、微かに首を振る。
「……ありません。私は……今のままで、充分です」
「充分?」
「ええ。贅沢も、不満も……ありませんから」
ルードヴィヒは、ほんの少しだけ目を細めた。
(そうじゃない……そうじゃないんだ)
欲しいものがない、などと答える少女に、何を与えればいいのだろう。
彼はその答えを知らなかった。
食事を終えると、ドリスは軽く一礼し、使用人に付き添われて席を立った。
その背は、まるで作り物の人形のように真っ直ぐで、乱れ一つなかった。
◇
ドリスが去った後、ルードヴィヒは大きく、息を吐いた。
あの子は、いつも静かすぎる。
叫ばない。泣かない。怒らない。
だからこそ、彼女の内側がどこにあるのか、分からない。
(もし、泣いてくれたなら。怒ってくれたなら。そうすれば、こちらも人として向き合えるというのに……)
娘らしくわがままを言ってくれた方が、どれだけ楽だったか。
だが、ドリスは決して“普通”の娘にはならなかった。
生まれてすぐ、父親は戦死。
母親は早産で体を崩し、療養所へ。
そして、ドリスを育てたのは、この老兵ひとりだった。
だが、彼には――家族としての接し方がわからなかった。
厳しく。正しく。武人として、正義をもって導く。
それが、自分にできる唯一の育て方だった。
結果、彼女は育った。優しく、品があり、従順な完璧な令嬢として。
だが、それは――
(私が……両親を、奪ってしまったからだ)
ルードヴィヒの心に、古びた後悔が滲む。
息子を軍に送り出したのは、自分だ。
前線に出すべきではなかった。だが、彼を甘やかさなかったのもまた、自分だった。
そして結果として、戦死。
嫁もそれに打ちひしがれて病に倒れた。
残されたドリスだけが、何も言わずにいい子になった。
祖父として、謝る資格があるのかもわからなかった。
だからこそ――彼は叱れなかった。
体調を崩してまで外に出たというのに、罰すら与えきれなかった。
「……情けないな、私は」
誰に言うでもない呟きが、食卓の冷めた林檎を震わせた。
◇
その後、ルードヴィヒは執務室へと向かい、ドリスの部屋には静かに「謹慎」の張り紙が貼られる。
ドリスは、何も言わなかった。
ただ、自室に戻り、また静かに座り、写真に囲まれた空間で、ただヴァルターの姿を見つめ続けていた。
それが、彼女にとっての日常だった。