絹糸の執着
夜の帝都はひときわ冷え込んでいた。
軍大学の授業を終えたグレゴール・ヴァルターは、日課のごとく敷地内の歩道を歩いていた。時刻は午後八時を少し回ったところだ。
夜間照明が淡い光を放ち、石畳に長い影を落としている。
周囲に学生の姿はない。皆、夕食か課題か、それぞれの時間に沈んでいるのだろう。
ヴァルターもまた、今日の講義内容を思い返しながら、静かに歩を進めていた。
だが、大学の正門が見えたときだった。
その影に、ひとつの異物が存在していた。
門柱にもたれかかるように立つ女――その細い身体に見覚えがあった。
栗色の髪は見慣れぬように後ろでまとめられ、首元までしっかりとボタンを留めたコート姿。
だが、その端整な容貌は、どうしようもなく血の気を失い、真冬の硝子のように青ざめていた。
「……ドリス、嬢……?」
思わず名を口にしたその瞬間、彼女はヴァルターの存在に気づき、はっと顔を上げた。
そして、弱々しく、それでも嬉しそうに、彼に向かって笑みを浮かべた。
「グレゴール……大尉……」
声が掠れていた。
ひどく乾いた声だった。だが、その中に確かにあったのは、狂おしいほどの愛情の熱だった。
ヴァルターの眉間に深い皺が寄る。
足を速め、彼女の前まで歩み寄ると、すぐにわかった。
体調を、完全に崩している。
頬は落ち、目元は腫れており、立っているのがやっとといった有様だった。
「何をしている……この時間に、体調も崩している身で……!」
苛立ちと怒りが、声に滲んだ。
その声に、ドリスは微かに肩を揺らし、しかし相変わらず笑みを浮かべたまま答える。
「……お会いしたくて。どうしても……お顔が見たかったんです」
その一言で、ヴァルターの表情が一変した。
怒りよりも先に、吐き気に近い嫌悪が喉元までこみ上げる。
「――縁談に不満はない、と言っていたな」
低く、冷たい声だった。
「それはつまり……婚約者という立場さえあれば、自分が俺の傍にいることを正当化できる、そう考えていたのか」
ドリスの微笑みがかすかに揺らぐ。
「私は、そんなつもりでは……」
「何が違う? 俺の行き先に現れ、体調を崩してまで門前に立ち続ける。
――それをストーカーと呼ばず、何と呼ぶ」
ドリスの顔から、一気に血の気が引いた。
それでも、彼女は動じなかった。いや、動けなかったのかもしれない。
「迷惑だ。やっていることは、ただの自己満足に過ぎない。
俺の意志などどうでもいいというのか。俺が何を願い、何に殉じようとしているかなど、一切顧みず、ただ自分の欲だけで追いかける」
その言葉のすべてが、刃だった。
一言ごとに、ドリスの身体が小さく震える。
「私は、ただ……会いたかっただけなんです」
震える声が、夜気に吸い込まれていく。
その目は潤んでいた。だが、涙は零れない。
ヴァルターは黙っていた。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、ドリスは、今にも崩れ落ちそうな声で呟いた。
「私は……グレゴール大尉を、愛しているんです……」
ドリスはまるで祈りを口にするかのように漏らし、暗い目線を地面へと落としていた。
ヴァルターは、その言葉を静かに聞き届けると、ほんの一拍だけ間を置いて、冷たく言い放った。
「それを愛と呼ぶのならば――愛情というものに対しての冒涜だ」
風が吹き抜けた。
ドリスの髪が揺れ、足元の落ち葉が転がる。
けれど、彼女は動かなかった。ただ、口を半ば開いたまま、何かを言おうとして、それを諦めた。
ヴァルターは目を閉じた。
唇を結び、そして背を向けた。
月は雲間に隠れ、星も見えない。代わりに街灯の光が地面を照らし、濡れたような石畳に映り込んでいた。
「送っていく」
その言葉に、ドリスは瞠目した。
言い返す暇もなく、グレゴール・ヴァルターは踵を返し、すぐに歩き出していた。
まるで命令のようだった。
歩調にためらいはない。振り返る素振りも見せず、すでに彼の背は遠ざかり始めている。
ドリスはその背中を見つめながら、慌てて足を踏み出した。
けれど、すぐに気づく。
――足が、重い。
肺が焼けるように熱く、鼓動は不規則に早鐘を打っていた。
意識が浮つき、地面が斜めに傾いて見える。
それでも、ドリスは言葉ひとつ発さなかった。
泣き言も、弱音も、懇願すら。
ただ一心に、グレゴール・ヴァルターの背中を見据え、彼に追いつこうと歩を進め続けた。
だが――
(追いつけない……)
歩幅の差は歴然だった。
彼の歩みは規律を刻む兵士のそれ。無駄がなく、鋭い。
それに対し、ドリスの足取りは沈み、もつれ、時折ふらついた。
それでもドリスは必死にヴァルターの背中を追いかけた。
ヴァルターの背がどんどん遠くなる。目の前にあるのに、永遠に届かない気がした。
そして――
「俺は決して、お前に振り返らない。待たない」
その声は、背を向けたまま放たれた。
突き放すような口調。振り返らずに語るその姿は、まるで境界線を引くかのようだった。
「俺は自分の理想のためだけに生きている。誰かの手を取ることも、支え合うこともない。
そんなものは――夫婦の在り方ではない」
その言葉に、ドリスの足が止まった。
そして、ただ、呆然と立ち尽くした。
目の前にあるのは、彼の背中。
冷たく、まっすぐで、決してこちらを見ようとしない背。
彼の言葉の意味を、彼女は理解できた。
それでも――その重さに、身体が追いつかなかった。
(……そんなこと、わかってるのに)
膝が震える。胸が痛い。けれど涙は流れなかった。
彼女の中で、涙はとっくに枯れていたのかもしれない。
◇
アーデン家の屋敷に着いたのは、それから数十分後のことだった。
門番の影が門灯の下に浮かび、屋敷内には控えの使用人たちの姿もちらほらと見えた。
ヴァルターはまっすぐに門へと向かい、インターフォンの受話器を取った。
「こちら、グレゴール・ヴァルター大尉。アーデン家ご令嬢の件で」
すぐに、応対の声が聞こえてくる。
「お嬢様は今……」
「体調が思わしくないようだ。屋敷から離れた場所――時計台広場近くの街灯下で見かけた。今もその辺りにいるかもしれん。迎えを頼む」
「かしこまりました! 至急、車を――」
だが、その声を遮ったのは、別の場所から起こったざわめきだった。
「お嬢様――!? お嬢様ッ!!」
門の脇、敷地の外――石塀に手をついて、誰かがよろけながら立っていた。
ヴァルターが振り向く。
そこには、よろめきながら、ひとり歩いてくるドリス・アーデンの姿があった。
遠目にもわかる。
呼吸は乱れ、肌は青白く、今にも倒れそうだった。
それでも、彼女は自分の足で、ヴァルターを追ってきていたのだ。
「なんて……無茶な……!」
使用人たちが一斉に門から駆け出した。
数人がかりで彼女を支え、肩を貸し、急ぎ屋敷の中へと運び込もうとしていた。
だが――
ヴァルターは、その場から動けなかった。
まるで、何かに縫いつけられたかのように。
目の前にあるのは、無理を押してまで自分を追いかけてきた少女の姿。
あれほどの拒絶を浴びせられても、それでもなお、前を見据え、足を止めなかった少女の姿。
使用人たちの慌ただしい声が響く中で、ドリスはふらりと顔を上げ、ヴァルターの姿を見つけた。
そして、ほんの僅かに、唇を動かした。
言葉にはならなかった。
だが、その視線には確かにあった。
――「それでも、あなたが好きです」と。
ヴァルターは目を見開いたまま、その視線を受け止めていた。
心の奥で、何かが軋んだ音を立てた。