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生きること

 軍大学の講堂に、ゆったりとした沈黙が流れていた。

 百名以上が座れる大教室。だが、今日そこに並ぶ椅子の半数以上は整然と埋まっていた。

 座る者たちは皆、肩章に銀の縁を掲げた将来の佐官候補たち。帝国の軍部において、次代を担う若者たちだ。


 教壇に立つのは、一人の老軍人。

 雪のような白髪を後ろに流し、深緑の礼装の上から軍の外套を羽織っていた。

 胸にはいくつもの勲章。だが、どれひとつとして目立つようには飾られていない。


 ルードヴィヒ・アーデン元帥。


 帝国において戦術の鬼と称された名将にして、今なお現役の軍務を担う者。

 その圧力は、声を発さずとも教室全体を支配していた。


 彼が黒板に背を向けたまま語り始めたとき、室内の全員が無意識に背筋を正していた。


「……戦場に立つ者に求められるのは、勇気や忠誠心ではない。

 第一に必要なのは、生きて帰る覚悟だ」


 低く、しかし凛とした声だった。


「兵士一人を育て上げるのに、どれだけの費用と時間がかかるか。

 装備の支給、訓練、教育。基礎を固めるだけでも三年はかかる。

 それをたった一つの作戦で失うことが、どれほどの損失か――諸君は想像できるかね?」


 誰も答えられなかった。


 ルードヴィヒは腕を組み、ゆっくりと教室を見渡した。

 その視線の重みに、何人かは無意識に息を呑んだ。


「もちろん、戦死は名誉だ。栄光に殉ずることを否定はしない。

 だがな――戦死してしまえば、二度と次の任務には立てぬ。

 帝国は、命を燃やし尽くす兵士よりも、何度でも帰ってこられる兵士を欲しているのだ」


 その言葉に、ヴァルター――グレゴール・ヴァルター大尉は静かに目を伏せた。


(……あの時と、変わらない)


 心の中に、あの日の記憶がよみがえる。

 初めてルードヴィヒ・アーデンと出会った日のことだ。


     ◇


 それは、内乱の終結から間もない頃だった。


 ヴァルターはまだ下士官で、訓練生と呼ばれる立場にあった。

 同期の中でも成績は上位だったが、階級という壁は高く、彼のような平民出身者が将官と会話する機会など本来なかった。


 だが、例外があった。


 ルードヴィヒ元帥は、その頃すでに一線を退いていたものの、戦術教官として若手の育成に尽力していた。

 誰よりも厳しく、誰よりも“命”に重きを置く人物だった。


 その講義で彼が初めて語った言葉は、今もヴァルターの胸に焼き付いている。


 ――「死ぬ覚悟を持つな。生きて帰る覚悟を持て」


 その声の裏には、深い疲労があった。

 後に知ったことだが、その頃のルードヴィヒは最愛の息子を戦争で失ったばかりだったという。

 さらに、早産で生まれた孫娘の健康も不安定で、嫁の体調も優れず、心労が重なっていた。


 けれど、講義の場ではそれを一切感じさせず、ただ兵を守るという信念を貫いていた。


(……あの頃から、ずっと変わらない人だ)


 ヴァルターはふと、あの時のルードヴィヒの目を思い出していた。


 悲しみを背負いながら、それでも“次の世代”にすべてを託そうとしていた眼差し。


 それは、偽りなく軍人の背を押す者の目だった。


     ◇


 講義の中でルードヴィヒは、戦略論や戦術についての講義にはあまり時間を割かなかった。

 それよりも、兵士一人ひとりの生をいかに扱うべきかを語る時間の方が長かった。


「指揮官にとって、命令とはただの言葉ではない。

 一つの指示が、何人もの生死を分けるのだ。

 だからこそ、安易な決断を下してはならない。

 部隊を失うことは、任務の失敗ではなく、国家の損失なのだ」


 その言葉に、教室が再び静まる。

 軍人としての理想を語るのではなく、現実の損益として“人命”を語るその在り方に、どこか冷たさを感じる者もいたかもしれない。


 だが、ヴァルターにはよくわかっていた。


 それは、誰よりも人命を重く見ているからこそ生まれる言葉だということを。


 「命の価値を冷静に量れなければ、軍人は務まらない」

 それが、ルードヴィヒ・アーデンという男の“矛盾なき本音”だった。


     ◇


 講義が終わる頃、教室内には言葉を失ったような空気が満ちていた。


「本日は以上だ。諸君が指揮官となる日を、私も願っている。

 だが……その時は必ず、部下を生かして帰すことを第一に考えろ。

 それができない者は、前線に立つべきではない」


 そう言い残して、ルードヴィヒは教壇を去っていった。

 誰もが姿勢を正し、敬礼でその背を見送った。


 教室の出口に向かうその背中を、ヴァルターは最後まで見つめていた。


(――生きて帰ること。それこそが、兵士の責務)


 それは、戦場で多くの仲間を喪った彼にとって、なおさら重い言葉だった。


 そしてその信念は、ルードヴィヒから確かに“託されたもの”でもある。


(……だが、ならばなぜ)


 ふと、心に微かな葛藤が過ぎる。


 あのルードヴィヒが、なぜ孫娘との縁談を自分に持ちかけたのか。


 自分は戦場に戻るつもりでいる。

 安寧や幸福とは程遠い場所へ、また身を投じようとしている。

 それでも、ルードヴィヒは――あの兵士を守ることを誰よりも重んじる軍人は、自分に孫を託そうとした。


(……わからない)


 その問いには、まだ答えが出せなかった。


 けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 自分はその信頼に、応える資格がない――それだけは、今も揺るぎなかった。


     ◇


 講義が終わり、教室から学生たちがぞろぞろと退出していく中で、グレゴール・ヴァルターは一人、背筋を正して座っていた。

 最後のノートを閉じ、立ち上がろうとした瞬間、教壇を下りた老軍人がゆっくりと近づいてくる気配がした。


「……久しぶりだな、グレゴール・ヴァルター大尉」


 その声に、ヴァルターは敬礼を返した。


「お疲れ様です、元帥殿」


「肩肘張らんでいい。今は教官としてここにいる」


 そう言って笑ったのは、他ならぬルードヴィヒ・アーデン元帥だった。

 教室の空気とは打って変わり、穏やかな声音と柔らかな目元。

 それでも、歳月を重ねた軍人の風格は滲み出ていた。


「中庭でも歩こうか。少し話したい」


「……かしこまりました」


     ◇


 中庭は、春の光が差し込む静かな場所だった。

 よく整えられた芝生と、手入れの行き届いた並木。

 遠くで噴水の音がかすかに聞こえ、柔らかな風がコートの裾を揺らしていた。


 ルードヴィヒとヴァルターは並んで歩きながら、ゆっくりと会話を交わす。


「大学での生活はどうだ」


「有意義です。戦場では得られない知識も多く、日々学ばせていただいています」


「真面目な答えだな。お前らしい」


 ルードヴィヒが微笑む。

 ヴァルターは視線を正面に向けたまま、しばし無言のまま歩き続けた。


 そして数歩の沈黙の後、低い声で問いかける。


「……ドリス嬢のことですが」


 ルードヴィヒは、足を止めた。

 少しだけ風が強くなり、木々がざわりと鳴る。


「縁談の件の後、彼女に……何か変わった様子はありませんでしたか」


 その問いは、まるで何かにすがるような声音だった。

 それは、彼女の変調に対する責任を、どこかで感じているからこそ口に出せたものだった。


 ルードヴィヒは一瞬だけ考える素振りを見せ、次いで苦笑した。


「……あの子のことは、気にするな。あれでも、我が家の自慢の孫娘だ。簡単には壊れんよ」


 その口ぶりには冗談めいた響きがあった。

 だが、ヴァルターはその奥に、確かな懸念の色を感じ取っていた。


 ルードヴィヒはベンチに腰を下ろし、手袋を外して膝の上に置いた。


「ドリスはな……あの子は、生まれてすぐに保育器に入った。早産でな、母体が限界だったんだ」


「……」


「父親、つまり私の息子は戦地で命を落としたばかりで、嫁もまた体を崩し、八歳の時には療養所で暮らすことになった。

 だから、あの子は、幼い頃からずっと、私と二人だった」


 語るその声に、重みがあった。

 年老いた指先が、ベンチの肘掛を無意識に撫でていた。


「ずっと、いい子だったよ。泣き言も言わず、わがままも言わず。

 まるで自分が我慢しなければならない立場だと理解していたようだった。……幼い子供が、だ」


 ヴァルターは、その言葉を黙って聞いていた。


「名家の令嬢、アーデン家の後継。周囲は勝手にあの子に理想を重ねる。

 そして……あの子もまた、それに応えようとした。応えすぎたんだ」


 ルードヴィヒはゆっくりと顔を上げる。


「お前の目にも映っただろう。“完璧すぎる”あの子の姿が」


 ヴァルターは息をひとつだけ吐いた。


「……はい」


「私は軍人だ。兵の緊張と張り詰めた神経には敏感でな。

 ドリスは、いつだって張り詰めすぎている。……弛緩というものを知らん」


 静かに語られる言葉。

 孫娘への深い愛情と、どうにも届かない距離へのもどかしさが滲んでいた。


「だが、それでも……これは、あの子自身の問題だ。

 自分で乗り越えるべきものだと、私は思っている」


 ヴァルターは目を伏せた。

 頭では理解できる。だが、胸の内に残る痛みはどうしようもなかった。


 生まれる前に父を失い、母とも離れて育ち。

 誰にも甘えることなく正しくあろうとし続けた幼い少女。


 その姿は、どこか過去の自分と重なっていた。


「……元帥閣下」


「うん?」


「もし……もし、自分があの縁談を受けていたとしても。

 彼女の孤独を、癒すことはできなかったと思います」


 それは、自責でも後悔でもなかった。

 ただ一人の人間としての限界を知る者の言葉だった。


 ルードヴィヒは小さく頷き、立ち上がった。


「それでも、私があの縁談を持ちかけたのは……お前なら、ドリスを利用しないと思ったからだ」


 老将の背中は、深い影を落としていた。


「理想に殉じるというのは、な……生きる以上に、難しいものだよ、グレゴール」


 ヴァルターは答えず、ただ敬礼を返した。

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