違和感の芽生え
――午後九時四十分。
帝都の空は煤けた雲に覆われ、夜風には機械油と石炭の匂いが混じっていた。
軍本部の灯りもまばらになり、衛兵の交代を告げる靴音が、石畳に乾いた響きを落とす。
グレゴール・ヴァルター大尉は、ようやく机上の書類を片付け終え、椅子にもたれかかるようにして背筋を伸ばした。
背中でぐぎりと音が鳴る。机に向かいっぱなしだった腰と肩が抗議の声を上げていた。
ふう、と短く息を吐いて懐中時計を取り出す。
いつもより少し早く終われた今日を、小さく幸運と呼んでみる。
それでも時刻はすでに午後九時を越えており、自宅に帰ってから何かを作る気力は到底なかった。
軍靴を鳴らし、灯りの消えた本部をあとにする。
向かう先は、基地近くにある一軒のカフェ。
古びた外観に似合わぬほど中は整っており、手頃な価格で温かい食事を出してくれる、ヴァルターの“最後の砦”だった。
疲れた頭で今日の反省を繰り返しているうちに、小さな看板が目に入る。
灯りの落ち着いたランプの下に、金属製の扉。
迷いなくその取っ手を引くと、控えめな鈴の音が夜に溶けた。
「いらっしゃいませ」
澄んだ声に顔を上げれば、白いエプロン姿の少女が出迎えていた。
栗色の髪をおさげに結い、柔らかな笑みを浮かべる彼女――ドリス。
ここに通うようになって半年ほどになるが、彼女は必ずと言っていいほど接客に現れた。
彼女の仕草や口調には、派手さはない。
けれど、その整った所作と控えめな態度には、どこか育ちの良さを感じさせるものがあった。
年齢的にはまだ十代半ばといったところだろうか。だが、その受け答えは妙に落ち着いており、ヴァルターにはどうにもその“無垢な完成度”に引っかかるものを感じていた。
「ビーフシチューを頼む」
疲労の混じった声でそう告げると、ドリスはこくりと頷いた。
どこか嬉しそうな、けれど表には出さぬ控えめな笑みを浮かべて、彼女は厨房へと姿を消す。
ヴァルターは定位置の窓際に腰を下ろし、背中を預ける。
照明はやや落とされ、外からの光が窓硝子に淡く映る。
暖かな空気と香りの混じるこの場所は、戦場のような本部からすればまさに別世界だった。
ふと壁の時計に目をやる。
――まだ注文から一分も経っていない。
「お待たせしました」
ドリスの声と共に、料理が運ばれてきた。
陶器の皿に湯気を立てるシチューと、こんがり焼かれたパン。紅茶の香りが、静かな空間をやさしく満たす。
ヴァルターは、眉をひそめた。
「……ずいぶん早いな」
何気なく漏れた問いに、ドリスは少しだけ首を傾げた。
「はい。いつもこのくらいの時間にお越しになりますし、ご注文も決まっていらっしゃるので……あらかじめ、準備しておいたんです」
その口調は落ち着いていて、誇張もなく、まるで当然のことのように淡々としていた。
紅茶に口をつけながら、ヴァルターはドリスの言葉を反芻する。
常連客の好みを覚えるのは接客として理にかなっている。準備をしておくのも、それが合理的な範囲であれば問題はない。
……だが。
(本当に、たまたまか?)
彼は今日、出張から帰ってくる部下の書類をまとめていたが、場合によってはもっと遅くなる可能性もあった。
あるいは、疲れすぎてそのまま自宅に直帰していたかもしれない。
にもかかわらず、彼の“いつもの注文”が、完全な形でこのテーブルに並んでいる。
その事実は、理屈では説明できない違和感を伴って、ヴァルターの脳裏にまとわりついていた。
(偶然……とは言い難い)
厨房の方に視線を送る。
ドリスは食器を拭きながらこちらを見ていたようで、目が合うとふわりと微笑んだ。
その笑みは優しく、どこまでも無垢に見えた。
だがヴァルターの内心では、その笑顔がまるで“仕掛けられた罠”のように見えた。
――完璧すぎるのだ。
所作も、接客も、返答も。
まるで“こうあってほしい理想の女の子”を演じるために、台本でもあるのかと錯覚するほどに。
(ただでさえ、厄介ごとが増えているというのに……)
それが幻覚や妄想であればいいと願うように、ヴァルターはスプーンを取り、温かなシチューを口に運ぶ。
濃厚なソースと柔らかく煮込まれた肉が、疲れた身体にじんわりと沁みる。
「お味、いかがですか?」
柔らかく投げかけられた声に、思考を中断される。
ドリスが、厨房の入口に立っていた。手には、食後の紅茶に添える角砂糖の小皿。
「……申し分ない。いつも通り、だ」
その言葉に、ドリスは嬉しそうに微笑んだ。
ヴァルターは、無意識にもう一口シチューをすくう。
味に変わりはない。優しい、家庭的な味。
けれど――この違和感だけは、簡単に飲み下せそうになかった。
(俺は……見られている?)
言葉にできない何かが、じわじわと胸に染み込んでくる。
視線、間、気配。
ほんのわずかずつ、輪郭を持ちはじめた不信感は、今夜初めて彼の中に「名前」を得ることになる。