70. 駆ける
厄災が始まってから三年、王国はようやく復興を実感し始めていた。
まだまだやるべき事は多く、王宮では忙しない日々が続いている。
その日もいつも通りに過ぎていくはずだった。
竜が唸り声をあげて暴れているという一報を聞くまでは。
最初にもたらされたのは、湖から数キロ離れた場所に常駐し、監視を続ける兵士から飛ばされた伝書鳩だった。
その約一時間後、馬を乗り継ぎながら王城へ駆け込んだ伝令も、同じく竜が暴れていることを伝えた。
周辺を破壊する竜が、まだ離宮を攻撃するに至っていないという情報は、既に数時間前のことだ。
王命で接近を禁じられているため、離宮にいる者達の無事も確認できていない。
報告を聞く王や宰相、軍部の長が集まる会議場はしんと静まり返った。
その中にはミランの他に、宰相補佐としてリーヒェンもいた。
「――まずは、現在の状況を確認しなければならない。接近禁止令は一時解除する。敵対行動と受け取られないよう慎重に斥候を放て。人選は任せる。次に――」
真っ先に口を開いた国王と、宰相を中心に話は進んでいった。
今後の対応は以前から想定していたため、さほど揉めることもなく、淡々としていると感じるほどだ。
しかし今の状況はかなり危機的だった。
竜の力は強大で、二年前も付近の村を幾つか潰している。
今度こそ、その怒りと破壊の矛先は、国の中枢へ向かうだろうと思われた。
今しも竜が現れて、命を落とす可能性すらあるのだ。
それを感じさせない冷静な態度は、国を背負う者としての静かな覚悟だった。
ミランは口を開かず俯きがちで、話が纏まると無言で席を立った。
皆無理もないと感じているようで、誰も何も言わず、一礼して出ていく姿を見送った。
リーヒェンはその後ろ姿を見つめながら唇を噛み締めた。
(……イルザ嬢を犠牲にして、生き永らえたのに……彼女は、無事だろうか……?)
次の瞬間、リーヒェンは顔色を変えた。
「少し出て参ります!」
言い捨てたリーヒェンは廊下を駆け出した。
リーヒェンが会議場を飛び出した頃、ミランは廊下を駆け抜けていた。
一瞬側を離れたクラウスは距離を縮められないまま後を追っている。
途中ですれ違ったエルガーが加わり、ばたばたと三人が走り抜ける姿を何人かがぽかんと見送った。
たどり着いた厩舎で、たまたま馬具をつけていた馬に飛び乗ると、ミランは王宮の門へ向かって駆け出した。
何をしようとしているか気付いた者は慌てて止めようとしたが、遅かった。
ちょうど荷を通す為に開いていた城門を、ミランは突破した。
その後ろをクラウスが追い、少し遅れてエルガーとリーヒェンが飛び出していく。
皆、装備は整っておらず、リーヒェンに至っては鞍もない状態だ。
「殿下!」
呼び声に少し速度を落としたミランに、リーヒェンが追い付き、馬を走らせながら荷を渡した。
リーヒェンの予想どおり、ミランは剣の他には何も持っていなかった。
急いで準備したせいか、いつもきっちりと後ろへ撫で付けているリーヒェンの髪が乱れている。
「……ここで待っています! ……死ぬなよ!」
腹立ち紛れに敬語が抜けた。
息を切らしてそれだけ告げたリーヒェンに、ミランはただ頷き返した。
また速度をあげ、どんどんと遠ざかるミランと二人の背を、リーヒェンはその場で見送った。
「必ず生きて、帰ってこい……」
***
まっすぐに馬を駆けさせるミランの後を、クラウスとエルガーが追う。
「何か策が!?」
隣に並んだエルガーが聞いた。
「ない」
きっぱりと言うミランに呆れてエルガーは沈黙した。
「無謀です」
クラウスが短く言った。
その顔は怒りを抑えているように見えた。
クラウスには珍しく、余裕が無さそうである。
「わかってる。だがマリーの報告を見れば、竜が高い知性を持つ生き物である事は確かだ。この二年間、竜は約定を守っていた。窓ガラスが割れたことはあったが、人に対して一切攻撃していない」
それは事実だった。
始めは空を飛ぶ竜を見るたびに逃げ惑ってた人々も、今や子どもが指をさす程度の反応しかない。
竜はある意味、王宮内も含め、人々から信頼されていたのだ。
「獣でないなら、竜の王なら、交渉の余地はある。竜がイルザ達のいる場所で暴れたのなら、約定を破ったことになる。こちらも馬鹿正直に取り決めを守る必要はない。無事を確認するだけだ」
「話が通じる状態とは思えませんが」
ウラウスは端的に反論した。
「竜は唯一話ができるイルザを大事にしている節がある。そこに付け入る隙があると思う」
「策でもなんでもない、ただの希望じゃないか」
エルガーは呆れながら言った。
「死ぬつもりはない……ただ、イルザに会いたいんだ」
ミランは湖の方を見て苦しげに笑った。
(……生きているイルザ様に、会えるだろうか……)
手綱を握るエルガーの手に力がこもる。
ミランも当然、わかっているはずだ。
エルガーすら胸が締め付けられるようなのだから、ミランの不安はどれ程のものか。
正気に見えるが、実際こうして飛び出してきた時点で狂い始めているのかもしれない。
ミランが事切れたイルザを目にした時どうなるのか、エルガーにもわからなかった。
もしものときは、縛り付けてでも無事に連れ帰らなければならない。
しばらく続いた沈黙を破ったのはクラウスだった。
張り詰めた空気を破るように、大袈裟に溜め息をついた。
「……こんな愚か者に、育てたてたつもりはなかったんですがね」
「……すまない」
わざとおどけてみせたクラウスの軽口に、うまく笑うことはできなかった。
ただ、エルガーも覚悟を決めた。
「――最後まで、お供します」
「………ありがとう」
三人はもう何も言わず、ただ湖を目指して馬を駆った。




