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68. 歌



 春の嵐が過ぎ去った森は、新緑に雨粒が輝いていた。

 爽やかな香りに満ちた細道を、折れた枝葉を端に避けながらイルザは進んだ。


 森を抜けた先には、いつもより水嵩を増した湖が日の光を反射して輝いていた。

 竜が現れた日に枯れた湖は、一年ほど経った頃から徐々に水が戻り始め、最近ようやく元の姿に戻ったところだ。


 暖かな光が降り注ぐ湖の畔で、竜はいつものように丸くなっていた。

 普段ならイルザが来るのを察知して金の目をイルザに向けているが、今日は瞳を閉じたまま動かなかった。

 背中は規則的に上下していて、どうやら眠っているようだ。



 竜は毎日、日が沈んでからあちこち飛び回っていて、イルザには時折竜の声が聞こえた。

 どこまで飛んでいるのか、ひどく遠く微かな声だ。

 イルザにしか聞こえない声で、誰かいないのかと叫ぶのを聞くたびに、イルザは悲しかった。


 昨日は特に遅くまで飛び回っていたので、疲れきっているのだろうと思いながら、イルザはしげしげと竜を見つめた。

 揺れる水面がゆらゆらと光を当てるたび、漆黒の鱗が七色に輝いている。

 時折鳥が過ぎていき、湖の波の音が繰り返すばかりで、嵐など無かったかのような穏やかさだった。



 しばらくじっと待っていたイルザだったが、竜は起きる気配もない。

 寝ている竜をわざわざ起こす必要もないので、イルザは竜から少し離れて倒木に腰掛けると、リュートを膝に乗せた。


 離宮に来て一年ほど経った頃、沈黙に耐えきれなくなって持参したリュートを竜が思いのほか気に入り、以来イルザは必ずリュートを持ってきている。

 リュートを聞いていると、竜はうとうとと微睡むことすらあった。

 なので小さく弾く分には怒りを買うことはないだろうと、イルザはそっと弦を弾いた。

 何を弾こうか迷いながら小さく音を確かめていたイルザは、ふと初めてリュートを教わった日のことを思い出した。

 今思えば、塀で囲まれた庭に突然現れたり、どこか古めかしい服装だったり、おかしな点があった。

 青年が本当に預言者だったのか、確かめる術はないが、イルザは何となく確信していた。

 あの日も、森の中で木に腰掛けてリュートを弾いていた。

 初めてミランに聞かせたのもその曲だった。

 稽古で疲れきったミランの気休めになればと拙く弾いたことを思い出して、イルザは少しだけ微笑んだ。



 教師からリュートを教わるようになり、イルザはあの頃よりもずっと上手く弾けるようになった。

 曲もたくさん覚えたが、あの頃は一曲だけだった。

 今は殆ど弾かなくなってしまっていたその曲を、イルザは久しぶりに弾いてみることにした。

 あの日の青年の言葉を思い出しながら、イルザは静かに、丁寧に弾きはじめた。

 物悲しいその歌の意味は未だに分からないが、孤独な屋敷で何度も弾いた歌は、今でもしっかり覚えている。

 お世話にも巧いとは言えない演奏を、ミランは好きだと言ってくれた。

 ミランの優しい笑みが、幸せな感情と切なさを伴って甦る。

 もう涙は出ないが、胸が痛かった。



***



 囁くように小さな声で歌い、最後の音を小さく鳴らした時、竜が動いた。

 起こしてしまったようだと、イルザが慌てて立ち上がると、金の目が真っ直ぐにイルザを見ていた。



 その目を見て、イルザの心臓がどっと嫌な音を立てた。

 見開かれた金の眼は、イルザを見ているようで見ていない。

 どこか虚ろな眼差しに不安を募らせながら口を開いた時、空気が震えるほどの轟音が辺りを支配した。


 竜が吼えたのだと理解して、イルザは青ざめた。

 竜の怒りに、触れてしまったのだ。





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