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64. 送別




 それはすきま風が鳴らす音に似ていた。


 王都郊外の山際にある修道院の庭で、孤児たちの世話や午後の作業に追われていたシスター達は、その音に気付いて作業の手を止めた。

 今しがた干した洗濯物はほとんど揺れていない。

 風もないのに鳴る音に首を傾げていると、その音は少しずつ大きくなっていった。

 漠然とした不安を感じて、シスターは顔を見合せ、幼い子は近くのシスターにひしと抱きついた。



 すると突然、辺りが暗くなった。


 空を見上げた彼女達の目に飛び込んできたのは、黒々とした巨大な影だった。

 同時に突風が巻き起り、庭にいた者は皆体勢を崩して倒れた。

 木が激しく揺れて軋み、がしゃんと何かが割れる音がした。

 悲鳴すら上げる間も無く風は止んだが、その一瞬で洗濯物は散乱し、庭の鉢が倒れ、あらゆる物が遠くへ飛ばされていた。

 子ども達もシスターも、しばらく呆然と尻餅をついたままだった。


 どこからか子どもの泣き声が聞こえてくる。

 はっと気付いたシスターが、慌てて転んだ子どもの元へ駆け寄り、ある者は教会の中へと走り込んだ。




 あっという間に過ぎ去った大きな黒い影は、神話の竜によく似ていた。

 夢でも見たのだと思いたくとも、恐怖にひきつる子どもの顔をみれば、それが現実だと認めざるを得なかった。



***



 昼下がりの王宮、本来なら仕事に追われているはずのリーヒェンは、王族の居所である内宮にいた。


 豪華な応接室で一人ソファに座るリーヒェンは、落ち着きなく何度も茶を口に運んでいる。

 足音はしないものの、ドアの向こうでは忙しなく人が行き交っているようだ。

 壁際に控える侍女もそわそわとして、時折窓の外を眺めていた。


 長いような短いような時間が過ぎて、応接室の扉が叩かれた。

 現れた老齢の侍従に案内されたリーヒェンがたどり着いたのは城の西門だ。

 そこには王家の紋章入りの馬車が一台停まっている。

 イルザを竜へ差し出すための馬車だ。




 昨日、突如現れた竜について、噂は既に広まっていた。

 王国中を飛び回った竜を直接目にした者も多く、王宮内でも混乱と動揺が広がっている。

 そして今朝、突然下された王命がさらなる衝撃を与えていた。

 今や聖女のように慕われるイルザを、竜に差し出すという命だ。


 想像上の生き物と思われていた竜が現れただけでも混乱しているのに、明くる朝には生け贄などという時代錯誤な決定が、経緯もわからないまま下されたのだ。

 反対する者も多いが、その声が大きくなる暇もなく、今イルザは両陛下に出立の挨拶をしている。




 馬車が停まる西門の前庭には、見送りを許された者が集まっていた。

 エルガーとアレクシアの姿もある。


 リーヒェンは庭の手前で足を止めた。



(――俺に、ここに立つ資格があるか?)



 十歳で王宮に入ったイルザを、はじめは皆が警戒していた。

 にこりともしないうえ、傲慢な悪女とか呪われた魔女などと、綠でもない渾名がついていたから無理もない。

 他でもない、リーヒェンによって広まった悪名だった。



 しかしそれは、徐々に忘れ去られていった。

 ミランによる情報操作はあったにしろ、実際にイルザと接した大半の者が、悪い噂を否定したからだ。

 成人前から孤児院への訪問を重ねるなど、貧困層への支援や教育にも積極的で、特に貧しい平民からの支持は高い。

 厄災が起きてからは、平民に交じり汚れ仕事も厭わない姿勢がまた評価され、イルザの人気と知名度はうなぎ登りだった。

 街中では、王の名を知らない者がイルザの事は知っていて、その美しさを自慢気に語るのだ。

 


 災いが続く王国では、暗い話題ばかりが聞こえてくる。

 そんな中で、イルザは唯一の希望であり、今や国中がイルザと王太子の結婚を心待ちにしていた。



 リーヒェンもまた、彼女を警戒し続けながらも、その真面目さや、たゆまぬ努力を認めていた。

 もしかしたら、他の誰よりも国に尽くす善き王妃となるのではないかと、いつの間にかそんな風に考えるようになっていた。

 


(――だが、彼女はもう……)



 俯くアレクシアの背中が震え、エルガーが彼女を支えるのが見えた。

 見送りを許されなかった侍女達がすすり泣く声が聞こえてくる。

 その光景と声に、リーヒェンは耐えきれなくなった。

 制止する声を無視して、来た道を戻り始める。



 リーヒェンはイルザが孤立する原因を作った張本人だ。

 学園でイルザの許しを得たものの、特別親しいわけではなく、ほとんど会話をした記憶もない。

 イルザがなぜ竜の元へ行かなければならなくなったのかエルガーから聞いているが、それはミランの側近として知らなければならないからだ。

 なぜ呼ばれたのかわからなかった。

 感傷的なこの場に、あまりにも不釣り合いで、厚かましい気がしたのだ。



 

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