06. 予言
空は青く晴れ渡り、キルシェの花を散らす風はあたたかい。
しかし、王宮の奥庭でイルザと向かい合うミランは、肌が粟立つような寒さを感じていた。
花びらが舞う中に佇むイルザに表情はなく、感情や思考は読めない。
「……災いとは、何が起こるの?」
緊張を隠して静かに問えば、赤い唇が開き、心地よい声が不吉な言葉を紡ぐ。
「ーー最初は地震です。六年後の冬、王国は大きな地震に見舞われます。春になってもキルシェの花は咲かず、種蒔きの時期に雪が降り、農作物が被害を受けます。夏は冷えて長雨と水害が各地を襲い、秋は花が狂い咲くーーその花が散る頃に、大きな噴火が起こるのです」
急峻な山に囲まれたこの国には火山があり、数百年前に噴火した記録が残っている。
また数十年に一度は大きな地震も起こる。
山から流れ出る水は豊富で、国を潤すと同時に絶えず水害の危険を孕んでいた。
考えにくい事ではあるが、それらが同時期に発生する可能性は排除できない。
様子を伺うような視線にミランが頷くと、イルザは話を続けた。
「麓の町は火砕流にのみ込まれ、噴火は王都を含む国中に灰を降らせ、不作と水害を免れた農作物にも被害をもたらします。冬は寒さ厳しく、多くの民が飢えと寒さで犠牲になるのです。同じ頃、リントブルム湖が枯れ、深刻な水不足に陥ります。人々は水を奪い合い、暴動が起きて国は荒廃し……」
イルザは迷うように一旦言葉を切って、震える手を握り締めて息を深く吸い込んだ。
「ーーそして最後は、竜が湖の底から目覚め、この国を蹂躙するのです。……信じられないと思いますが、湖の地下深くには、古代の竜が眠りについています。神話に現れる黒い竜です。この竜の頭は馬車より大きく、その体は王宮の塔より高いのです。千年の眠りからひとたび目覚めれば、竜は死ぬまでこの国を破壊し続けます。家も街も人も、長い尾で薙ぎ払われ、巨体に踏み潰され………厄災を生き残った人々も、残らず死に絶えるのです」
地震から始まる災いと、地下から現れる竜。
それを聞いたミランはぞっとした。
ミランには、イルザの語った災いに覚えがあった。
***
王族の私的な宮殿である内宮への立ち入りは、普段から厳しく制限されている。
その中でも最深部の廊下の奥には、地下へ降りる石の階段がある。
薄暗い階段を降りた先には、頑丈な鍵がついた鉄製の扉が現れる。
そこは王や宰相など、ほんの一握りの人間だけが立ち入りを許された禁書庫である。
重い扉を押し開けば、ひんやりとした空気が肌に触れ、独特な匂いが鼻をつく。
荒く削られた石造りの壁に窓はなく、蝋燭の仄かな明かりだけが壁一面の本を照らし出す。
様々な理由で閲覧を禁じられた数百冊の本の中で、最も厳重に保管されているのが、"予言の書"と呼ばれる古びた本だ。
王国には、建国の王と並び称される‘’預言者‘’がいる。
予言の書は、建国の王を導いたという預言者が書き残したと伝えられている。
その本を読んだ時、ミランはよくある神話のひとつだと思った。
なぜ禁書庫にあるのか不思議に思いながら、何度も読まされた内容は、今でもよく覚えていた。
“かつて地上に神がいた頃、竜の国と人の国があった。二つの国は争い、隣り合う二国の境には血の川が絶えず流れた。万の罪なき命が天に昇った時、ついに神の怒りに触れ、天から星が落ちた。地上に落ちた星は二国を押し潰し、星から生まれた炎は全てを焼き尽くした。神は天へと帰り、竜の王は眠りにつき、人の子は楽園を求めて旅立ったーー”
この数百年後、西の大帝国に戦があり、皇子が預言者と数名の家臣と共にこの地に辿り着く。
賢明なる主の側で、偉大なる預言者は神の声を聞き、皇子は国を興して王となり、民は富と平和を手にした、と続く。
ここまでは国民の誰もが知る王国の創世記とほぼ同じである。
しかし、予言の書には続きがあった。
“ーー神の声を聞く預言者は王に告げた。
『この地で王国は千年栄え、民は安寧を享受するだろう。しかし千年後、大地が揺れて幸福は終わりを告げる。山が火を吹き、太陽は隠れる。川が溢れ、大地が氷り、枯れない湖が枯れ果てた時、地の底に眠る竜の王が目覚める。怒れる竜を前に人々は為すすべなく屍を晒し、この国は跡形なく滅ぶだろう』ーー"
イルザが語った厄災は、これにあまりにも酷似していた。
ミランに予言の書を教えたのは、当時ミランの教育を担っていた現宰相のライノアである。
幼き日のミランが、千年後はいつなのかと無邪気に聞いた時、ライノアは、早ければ十数年後だと答えた。
非論理的な事を嫌い、一切の誤魔化しや嘘を言わなかったライノアが、表情を強ばらせてミランに言いきったのだ。
それがミランには恐ろしかった。
一方で、竜が現れるなんて馬鹿げているとミランは思っていた。
王の正統性や強さを示すため、国の創世神話に神や竜が登場するのはよくある事だ。
他に学ぶべき事は山ほどあり、その後は予言の書のことなど思い出すことはなかった。
しかし今、イルザの話を聞いて真っ先に思い浮かべたのは予言の書だった。
御伽話が現実のものとなって突然目の前に現れたような感覚をミランは味わっていた。
恐れたのは、逃れられない死の予感なのか、それともそれを語る少女なのか、ミランはわからなくなった。
まるで見てきたかのように滅亡を語るイルザは、一体何者なのか。
整いすぎた姿形の彼女が、人ならざるもののように見えてくる。
声が震えていないか気になったのは、ミランにとって生まれてはじめての事だった。
「………竜が、本当にいると?」
「……それは……、……わかりません……」
「どこでそれを知ったの? ……誰かに聞いた?」
イルザは首を振って否定した。
「誰に聞いたわけでもありません。……私は、記憶にないほど幼い頃より、夜寝ていると同じ夢を見るのです。……正確に言うと、その夢の中で、私はいつも黒髪に黒い瞳の同じ女性になって、ニホンという国で生きています」
「ニホン……」
「はい。夢は断片的で、その女性は少女だったり大人の女性だったりします。……その夢の中に、この国が絵物語として出てくるのです」
ミランは曖昧に頷く。
「……物語は金髪金眼の少女が主人公なので、私はこの国の未来に起こることの全てが分かるわけではありません。その物語の主人公である少女の周辺で起こることしかわからないのです」
聞いたこともない国の、物語の世界と言われても、正直信じられなかった。
しかし、イルザが嘘をついているようにも見えなかった。
(空想の物語を信じ込んでいるのだろうか? それにしては、客観的で理性的に見える……)
伯爵家から殆ど出たことすらないイルザが、予言の書を知るわけもない。
「その夢の中の物語が、なぜこの国の未来だと分かるの?」
「王都の街並みや王宮といった建築物、地名、人物……全てが夢と同じなのです。ーー物語には、殿下も出てきました」
「私があなたの夢に?」
「はい。今よりずっと大人びて、殿下がいずれ通われる王立学園の制服を着ていらっしゃいました」
「イルザは?」
「……私は、主人公と関わりがないのです。主人公は私と同い年で、殿下の二つ年下です。貴族の庶子であることが判明して市井から引き取られ、十六歳で学園に編入します。そこから物語が始まるのです。殿下が十九歳、学園の最終学年になられる年に最初の厄災が起こります」
「……六年か……」
「……夢では、この竜を止められるのは"竜の乙女"と呼ばれる主人公の少女だけなのです。輝くような金の髪と金の瞳をもつ彼女は、竜と心を通わせ、地下に眠る竜と会話ができます。竜が彼女を愛せば、竜は人に変じて国は救われます。……しかし、彼女と竜の想いが通じあわなければ、目覚めた竜は怒りのままにこの国を破壊しつくします。竜の鱗は硬く、どんな刃物も弾かれ、傷を付けることすらできない。……誰も、止められないのです」
そこまで話すと、彼女は口を閉ざした。彼女の話は結局、夢と現実が区別できない子供の戯言と言ってしまえる。
しかし王家で厳重に保管され、秘匿されてきたはずの予言の書と、彼女が語った夢の内容には共通点が多すぎた。
竜のことや物語の主人公だという金髪金眼の少女のことは非現実的だが、全体的には子供の妄想と片付けられる程の破綻がないように感じた。
もしも今の話が現実となれば、地震や火山の噴火だけでも一体どれ程の民が犠牲になるのか。
ましてや竜が引き起こす厄災など想像すらできなかった。
ミランはこれから自分が歩む道の先に、死人が折り重なって倒れている気がした。