05. 北の離れ
イルザが軟禁された離れは、その昔の当主が妻のために作ったといわれている。
かなり古いうえに数十年使われていなかったため所々傷んでいるが、細部まで花や可愛らしい動物の意匠が凝らされ、壁紙や家具なども明るい色合いで統一されていて優美な佇まいだ。
本邸に比べればこじんまりとした建物は、広い庭ごと高い塀に囲まれ、二階から延びる渡り廊下でのみ本邸と繋がっている。
風呂やトイレ、台所も備えているため、離れだけで生活できるようになっていて、本邸と離れを繋ぐ渡り廊下が施錠されてしまえば、そこは美しい牢獄だった。
始めは侍女が一名、交代でイルザに付くことになっていた。
ところが、誰もがその役を嫌がった。
イルザはその傲慢さで元々嫌われていたうえ、呪われているという噂まで流れている。
仕事だからと強制したものの、イルザが暴れて怪我をするものが後を絶たず、怒り狂うイルザがいる離れの扉を開けるのを恐れて泣き出す者や、退職を申し出る者まで現れる始末で、当時の侍女長は頭を抱えた。
人が減ったうえに、エミリアの誕生日が近づき、忙しい時でもあった。
皆があわただしく準備をしていたある日、気付けば誰もイルザの世話をしていなかった。
侍女長は管理不足で叱責されるのではないかと怯えたが、実際には何も起こらなかった。
翌日になっても、伯爵夫妻が気付いた様子はない。
いつも通り優雅にお茶を傾ける夫人も、エミリアへのプレゼント探しに忙しい伯爵も、イルザがどうしているか気にも留めないのだと気付いた。
“一日くらいなら放っておいても大丈夫”
“この間はお世話したから”
“前回は、いつだったかーー”
いつしか使用人達は、イルザのために必要な仕事を全くやらなくなっていた。
そして誰もイルザの世話をしていないことに、伯爵夫妻は気付かなかった。
一日に二度食事を届ける下女が唯一イルザと接する人物だったが、信心深い彼女は魔女と噂されるイルザを嫌悪していた。
イルザの声を聞くことすら嫌がり、必死に話しかけるイルザに見向きもしなかった。
食事は施錠された離れの方の扉の下、鉄格子の付いた小窓の前に置くようになっていたが、下女は運んできた食事を毎回投げ捨てるようにそこへ置き、耳を塞いで走り去った。
そればかりか、食事を二回から一回に、時には丸一日運ばなかった。
恐ろしい事に、それを知っていても咎めるものは誰一人いなかったのだ。
最初の数ヶ月は、離れに近付くと扉を叩く音や声が聞こえてきた。
しかしある時から何も聞こえなくなった。
何人かの侍女がそれに気付いたが、食事を出せばなくなるので生きていると判断し、様子を確認する事はなかった。
かえって厄介事が減ったと安堵し、少しずつイルザの存在を忘れていった。
五歳の子どもがひとり放置されれば、普通ならあっという間に死に至ったであろう。
しかしイルザは生き延びた。
小さな身体で庭の井戸から水を汲みあげ、食事が出ない日は図鑑を片手に庭に出て、食べられる木の実や葉を探して飢えを凌いでいた。
暖かい季節はまだよかった。
冬になると、イルザは耐え難い寒さに苛まれた。
火を付けられないため、カーテンやテーブルクロスまで被って寒さをやり過ごした。
食事が無いときはただ水を飲み、井戸水が凍れば窓辺の雪を口にした。
そんな生活は、使用人達の怠慢が伯爵夫人の耳に入るまで、約一年続いた。
震える手で渡り廊下の鍵を外し、北棟に駆け込んだ夫人が見たのは、痩せ細り、汚れたベッドに横たわるイルザだった。
衰弱したイルザは起き上がることもできず、声も出せなくなっていた。
夫人は慌ててイルザを本邸に運び込ませ、医者を呼んだ。
***
療養するうちに、イルザの身体は健康を取り戻したが、失った表情は戻らなかった。
笑うことも泣くこともなく、表情がほとんど変わらないので、じっとしていると精巧に作られた人形のようだった。
伯爵は流石に良心が痛んだのか、療養を終えたイルザが本邸に戻ることを許したが、イルザ自身が北の離れで暮らす事を希望した。
身の回りの世話には口の聞けない侍女が一人付けられ、食事は毎回きちんと出されるようになった。
使用人はほとんど入れ替えとなり、新たに召し抱えられた者達が毎日離れを掃除し、洗濯もして、荒れ果てた庭も整備した。
新しい使用人には、イルザに対する良からぬイメージはない。
だが、イルザはもう誰にも心を開かなかった。
専属となった侍女のお世話は必要最低限で、身の回りの事はほとんど自分でしていた。
誰かが離れに来るたび、イルザは使っていない物置部屋などに閉じこもって姿を隠した。
そのため、ほとんどの使用人は、離れには誰もいないものと思って作業をしていた。
本邸の家族との交流もなく、エミリアにイルザという姉がいることを知らない使用人すらいた。
イルザが久方ぶりに本邸に姿を現した時に追い出されそうになったのも、イルザを知るものがその場にいなかったからだった。
十一歳になったイルザは、ただそこに立っているだけで目を奪われる美貌である。
見知らぬ少女が屋敷に入り込んだと呼ばれてきた執事見習いや下男達も、彼女を追い払うどころか声をかけることすらできずに立ち尽くしていた。
老執事がその場に呼ばれて混乱がおさまると、ようやくイルザは伯爵に会うという目的を果たすことができた。
数年ぶりの親子の対面だが、伯爵は何をしに来たのかと身構えるばかりだ。
そんな伯爵に、イルザは静かに頭を下げた。
イルザの願いは、王宮で開かれるお茶会への参加だった。
申し出を意外に思いながら、伯爵はイルザがまた"嘘"をつくのではないかと恐れた。
その場にいたエミリアが強く拒否したこともあり、伯爵はイルザの参加を認めず、どうしてもと言い募るイルザを軽くあしらうとすぐに忘れた。
ドレスや靴をなに一つ買い与えなかったので、参加できるはずがないと高を括っていたのだ。
しかしイルザは、伯爵の無関心を逆手に取って強引にお茶会に出向いた。
帰宅したイルザに伯爵は激怒し謹慎を命じたが、元々離れに引きこもっているイルザにとって、食事が抜かれたことを除けばいつもと変わらぬ生活だった。
それから一週間後、伯爵家に王太子からの手紙が届いた。
イルザが王太子に声をかけられたと聞いても信じなかった伯爵夫妻は、その手紙でようやく王太子の関心がイルザに向いていることを認めたのだった。
王宮に招待されたのが妹のエミリアではなくイルザである事に落胆を隠さなかったが、今回は王家に失礼のないようドレスや装飾品を全て完璧に整えることになった。
招待に戸惑うイルザを置き去りにして、伯爵夫妻はあわただしく準備を進め、あの話は決してするなと幾度も念押しした。
登城する日の朝、まだ空が暗いうちにイルザは起こされ、入念に身支度を整えられた。
お風呂で強く擦られた肌は赤くなり、乱れないようにきつく複雑に編まれた髪は、侍女の荒い手付きを見ればいかにも痛そうだ。
コルセットを締め上げられて息もできず、急拵えの靴はサイズが合わず指が痛んだが、イルザは何も言わなかった。
ようやく最後の髪飾りを差した頃には、昼になっていた。
驚くほど細くなった体で、イルザは浅く細く息を吐きながらゆっくりと鏡の前へ進んだ。
鏡に映るのは、月の妖精と見紛うほどの美少女だ。
艶のある銀の髪が縁取る顔は白く透き通り、髪と同じ色の長い睫毛の下には潤んだ紫の瞳。
透ける薄布が幾重にも重なり、細かな刺繍やビーズが散る可憐で贅を尽くしたドレスを纏い、瞳に似た紫の宝石が連なる華やかなアクセサリーが輝いている。
普通、この年頃の少女であれば美しい装いに心踊らせるものだろう。
しかしイルザは無表情で、顔色は真っ白だった。
イルザの反応を伺っていた侍女達は怪訝そうに顔を見合せた。
薄い手袋をはめたイルザの手が、震えながら大粒の紫水晶のチョーカーに触れた。
首元を弛めようとしたその手は、側にいた侍女にピシャリと叩かれて払い除けられた。
手間ひまかけて着飾らせたのに思ったような反応がなく、侍女達は困惑し苛立っていたのだ。
俯いたイルザを残して侍女たちが退室すると、イルザはそろりと窓辺へ向かった。
美しく整えられるようになった離れの庭を見るのは、いつもイルザひとりだ。
誰もいない花盛りの庭を、イルザは出立の時刻まで眺めていた。