46. エルガー
冬休みも残すところ一週間となったその日、エルガーはひと気の無い学園の廊下を足早に進んでいた。
一昨日、ミランが学園に居ると聞いてから急ぎ荷をまとめ、先程到着したところだ。
始業式前のしんとした廊下に、エルガーの靴音だけが響いている。
規則的に並ぶ柱の影が、磨かれた床の幾何学模様をいっそう複雑に美しくみせているが、見慣れたそれに感動する程の余裕はエルガーにはなかった。
たどり着いた生徒会室の前には護衛がいた。
彼の手で開かれた扉の向こうには、予想通りミランの姿があった。
顔を上げたミランは、少し疲れているように見えた。
「……久しぶりだな。どうかしたのか?」
じっとエルガーを見据えるミランは、実際はエルガーがなぜここにいるのか分かっているのだろう。
室内にいた護衛を下がらせたので、エルガーも遠慮なく切り出す。
「殿下。イルザ様に面会する許可をいただきたい。……殆ど部屋から出られないのだと聞きました」
その言葉に、ミランの眉間に深い皺が寄った。
「……私は一ヶ月謹慎しろと命じただけだ。既に謹慎は終わったし、部屋から出るなとは言っていない。イルザが自主的にそうしている」
「なぜイルザ様に会わないのですか? 殿下もご存知でしょう。イルザ様には殿下が必要です」
イルザは表向き体調不良ということになっていて、アレクシアが幾度も手紙を出し面会を求めたが叶わなかった。
心配したアレクシアがエルガーに相談したことで、エルガーはイルザの謹慎を知った。
その後、イルザに会おうとエルガーは王宮に通ったが体調を理由に断わられ、その内アルマに泣きつかれた。
食事も殆ど喉を通らず、夜も眠れずにいるのだとアルマは必死に訴えた。
「殿下!」
何も答えずにペンを走らせるミランに業を煮やして、エルガーは目前に詰め寄った。
ミランのペンが、がりっと音を立てて止まった。
「………何も……知らないくせに、」
ミランの呻くような声が聞こえた。
次の瞬間、
「……勝手なことを言うな!!」
机に整然と並べられていた書類が宙を舞った。
ミランが書類を払いのけて、半ば机に乗り上げながらエルガーの胸ぐらを掴んだのだ。
普段のミランなら、絶対にしない行動だった。
物に当たるような癇癪を起こしている所など、子供の時ですら記憶にない。
その目の下の隈と切羽詰まった表情で、ミランも限界なのだと分かる。
「……イルザ様に会いに行ってください」
エルガーの服を離すことができないのは、必死に感情を抑えようとしているからだ。
顔を歪めたミランは俯き、絞り出すように言った。
「………行けない」
「なぜです?」
エルガーは辛抱強く待った。
「……私では、イルザを傷付けてしまう。……ずっと、傷つけていた。かといって、手放すことはできない。……どうすれば良いのか、もう、分からないんだ……」
ミランはようやくエルガーの襟元から手を離した。
椅子を軋ませて座ると、片手で目元を覆った。
「何を迷うのですか。私には、お互いに想い合っているようにみえます」
「……そんなんじゃない。イルザは私に依存しているだけだ」
「本当にそうですか? 俺はそうは思いません」
ミランは力なく首を振った。
「……孤独なイルザにつけこんで、そう仕向けた。初めからずっと、イルザを信じるふりをして、王家のために利用したんだ」
ミランは項垂れている。
イルザの夢の話を聞いた時から、イルザを婚約者に据えた理由は分かっていた。
それを今さら、言い訳がましく口にした事に、エルガーは怒りを覚えた。
「――何があったか知らないが、愛していないと言って突き放して傷つけていたくせに、今更そんな事を言い訳にして、まだ躊躇するのか?」
思わず敬語が抜けていたが、それを取り繕う余裕はなかった。
「手放せないのなら、何をすべきだ? 愛する自信がない? なら、俺が代わりに彼女を幸せにする。国に忠誠を捧げ、既に秘密を知っている俺なら構わないだろう」
ミランは顔をあげてエルガーを見た。
苛立ちを滲ませるその表情に驚きはなく、それにも腹が立つ。
「早く婚約を破棄してくれ。今のミランでは、イルザ様を幸せにできない」
言い捨てたエルガーは、ミランに背を向け部屋を出た。
冷静になれず、足音荒く来た道を戻る。
エルガーは滅多に怒らないが、今回は腹が立って仕方がなかった。
ずっと自分の気持ちを抑えて、我慢してきた。
イルザがミランに向ける笑顔を見るたびに胸が軋み、傷付くイルザを見るたびに悔しかった。
ミランの境遇に同情はするが、イルザと距離を置こうとするミランに苛立っていた。
(気持ちを押し殺してきたのは、一体何のためだったのか。ミランの幸せを願い、イルザ様を想えばこそ、ひた隠しにしてきたのに)
エルガーは、廊下に蹲って震えていたイルザの姿を忘れられない。
思えばあの時から、エルガーにとってイルザは只の友人ではなかった。
あんなにひたむきに想われて、なぜ応えないのか、エルガーには分からなかった。
(――ミランが友人でなければ……イルザ様がもしそれを望むなら……どんなことをしてでも、どこまでも、彼女を連れて逃げるのに――)
だが、イルザが決してそれを望まないことを、エルガーは知っていた。
***
静けさを取り戻した部屋で、床に散らばった書類を二、三枚拾い上げたところでミランの手は止まった。
エルガーがイルザと結婚する可能性は低い。
エルガーも分かっているだろうが、もうよほどのことがない限り、イルザはミランと結婚する。
だが、エルガーはイルザに恋情を抱いているし、イルザも最初からエルガーに好意的だった。
厳しくも愛情深く育ち、誠実なエルガーなら、きっと穏やかで温かい家庭を築くだろう。
金や権力に興味がないイルザにとっては、妃として暮らすよりよほど幸せだ。
二人の幸福な日常はあまりにも容易く想像できて、ミランの手の中の書類がぐしゃりと音を立てた。
止まったのは一瞬だった。
ミランは書類を投げ捨てて走り出した。
廊下を歩く見慣れた姿を見つけて、ミランは大声でエルガーを呼んだ。




