43. 逃走
孤児院が建つ郊外の街には、王国で最も貧しい地区がある。
ミラン達がイルザの失踪に気付いた頃、犯罪が多発するその街に、イルザは立っていた。
遡ること一時間、イルザによく懐いている六歳の少女、ラウラがイルザの手を引いた。
秘密だよと言って人差し指を口に当てながら、ラウラは孤児院の北側へイルザを連れていった。
暗くて狭いその場所は、あまり手入れが行き届いていない。
建物を囲う高い塀を蔦が覆い、使われなくなった道具や資材が積まれていた。
古い道具の奥は、人が行き交う場所から死角になっている。
そこへ小さな身体を滑り込ませたラウラは、イルザを手招きした。
身体を横にしながら古道具を避け、イルザがラウラの後ろに立つと、ラウラは塀に生い茂る蔦を持ち上げた。
そこにあったのは、子どもが通れる程の小さな穴だった。
ラウラはお腹が空くとそこから塀の外に出て、こっそり外のベリーの実を食べていたという。
雑然と積まれた道具は危険だし、塀の穴は塞がなければならない。
しかし、それを考える余裕はイルザになかった。
ラウラを表の庭に帰すと、イルザは一人、その穴の前に立ち尽くしていた。
喧騒は遠く、騎士も周りにいない。
しばらく彫像のように固まっていたイルザは、唐突にしゃがみこむと、その穴に潜り込んだ。
子どもがやっと通れるほどの小さな抜け穴を、細身のイルザは何とか通り抜けられた。
孤児院への慰問のため、服に装飾はなく、広がらないスカートだった事も好都合だった。
そして、穴を抜け出したイルザは、後ろも見ずに走りだした。
***
辿り着いたその地区には、決して近付くなと言われていた。
扉も窓もない家が、今にも倒れそうな風情で建ち並び、道端にはサイズの合わない汚れた服を引きずる子どもや、ピクリとも動かず横たわる人がいる。
皆一様に痩せこせて、肌の色が悪い。
彼らは突然現れたイルザを最初は不審そうに、次にぽかんと口を開けて見つめた。
イルザは顔も隠さず、ゆっくりと奥へと進んでいく。
治安の悪い貧しい地域に、いかにも貴族の令嬢が一人でいれば、拐われて奴隷として売られたり、弄ばれて殺されると聞いていた。
何にせよ、イルザの存在を消してくれるはずだった。
イルザが消えれば、この国を救う少女が現れるかもしれないのだ。
自殺や自傷は、どうしてもできなかった。
イルザを殺すように仕向けるつてもない。
どんなに苦しく辛いことが待っているのか、想像するだけで恐ろしかったが、だからこそ死ぬ覚悟ができると思った。
しかし、突然現れたイルザを、誰もが遠巻きに見つめるばかりだった。
細い路地は進む程に暗くなり、荒れ果てて人気がなくなっていく。
イルザは震える足を懸命に動かした。
『本当に、死ぬ必要があるの?』
薄暗い道の先に、イルザがいた。
(私は、竜を止められない。ミランの国には、なにもできない魔女ではなく、竜の乙女が必要なの)
『殿下が探しても見つからなかったのに、私が死んで何か変わるの? 突然、主人公が湧き出すの?』
魔女イルザは馬鹿にしたように笑った。
その言葉には真実味があって、イルザの足が止まりかけた。
霧のように透けるイルザの向こう、お世辞にも育ちが良いとは思えない青年が二人、壁に寄り掛かってイルザを見ていた。
(――でも……じゃあ、私はどうすればいいの? 愛されないなら、役に立つしかないのに)
止まりかけた足を動かして、イルザは更に奥へと進もうとした。
『……私は、幸せになってはいけないの?』
初めて聞く真剣な声に、イルザの足が止まった。
顔を上げて見れば、魔女はもう笑っていなかった。
表情が抜け落ちて虚ろなのに、どこか悲しげに見えた。
『………幸せに、なりたかったの』
魔女は歪み、薄くなっていた。
驚き見つめたその姿は、近づいて来た青年によって掻き消えた。
イルザを上から下まで眺めてニヤつく青年を前に、急に恐ろしくなっていた。
イルザの気持ちは揺れていて、どうしたらいいのか分からない。
(――怖い)
逃げられない獲物で遊ぶように、二人はゆっくりと近づいてくる。
(死にたくない……!)
じりっと下がりかけたイルザの手首を、誰かが後ろから掴んだ。




