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37. リーヒェン



 イルザが学園に入学して半月たった。

 最初は多少の混乱もあったが、クラスで受ける授業や友人との交流、寮での生活にも徐々に慣れ、振る舞いに気は遣うものの以前ほど緊張せずに過ごせるようになっていた。


 学年が違うミランと会うことは本来あまりないのだが、あれからイルザとアレクシアは週に何度かミラン達と一緒に昼食を食べている。

 その度、エルガーは一学年の教室まで迎えに来ていた。

 申し訳ないからと断ったが、笑顔で拒否された。




 エルガーは恐らくイルザの夢にも出てきていた。

 自信がないのは、ミオが基本的にミランの物語ばかり見ていたので、エルガーの記憶がほとんどないからだ。


 イルザがエルガーについて知ったのは、王宮に入ってからだった。

 騎士団長の息子で、ミランとは同い年。

 いわゆる幼なじみである。

 父親の才を受け継ぎ、あらゆる武芸に秀でていると聞いていたイルザは、騎士団長のような厳めしい人物を想像していた。


 しかし実際のエルガーは、長身で体格はがっしりしているものの、短く切り揃えられた赤毛の下の相貌は優しげに整っていて、よく笑う好青年だった。



***



 その日も、イルザとアレクシアは、気遣いが上手いエルガーと楽しくおしゃべりしながら、長い渡り廊下を歩いていた。



 ふと前方を見たイルザは、一人の青年がこちらへ向かってくることに気付いた。

 少し長い焦げ茶色の髪を後ろへ流した青年は、ミランやエルガーと同じ年頃のように見えた。

 その黒に近い焦げ茶色の瞳がイルザに向けられた瞬間、イルザの心臓が跳ね、足が止まった。

 意思の強そうな切れ長の瞳のその青年が、リーヒェン=シュヴァルツだと、イルザは知っていた。


 イルザが立ち止まるのとほぼ同時に、エルガーが彼に気付いて声を上げた。



「――リーヒェン!」



 笑顔で彼に手を振るエルガーに対して、リーヒェンは無表情に頭を下げるだけだが、二人は親しい友人だ。

 外務大臣の嫡子であるリーヒェンもまたミランと同い年で、幼い頃からエルガーと共に有力な側近候補として共に過ごしてきた。

 海岸沿いの豊かな所領を治める侯爵家の跡継ぎでもあり、文武両道と名高く、将来を期待されている。


 彼は二年前、隣国へ留学したとイルザは噂で聞いていた。



「久しぶりだな! 帰国はもう少し後になるときいていたが……会えてうれしいよ」


「ああ、久しいな。少し日程を早めた」



 リーヒェンはやはり無表情だが、にこやかに話し続けるエルガーは気にしていないようだ。



「リーヒェン、紹介するよ。バトラー侯爵家のアレクシア様と、殿下の婚約者で、メルジーネ伯爵家のイルザ様だ」


「はじめまして。アレクシア嬢」


「はじめまして。お会いできてうれしいですわ」



 アレクシアは優雅に微笑んだが、リーヒェンは一つ頷くだけで、アレクシアの笑顔が一瞬ひきつった。

 その表情に気付かないまま、リーヒェンはイルザの方を見た。



「お久しぶりです。イルザ嬢」


「……お久しぶりです。リーヒェン様」



 アレクシアとエルガーは驚いた。

 イルザは王宮で暮らし始めるまで殆ど誰とも交流がなかったと知っていたからだ。



「リーヒェンは、イルザ様と知り合いだったのか?」



 エルガーが驚いて聞いたが、リーヒェンは少し、と答えただけで素っ気ない。

 イルザも黙っているのでアレクシアとエルガーは困惑するばかりだ。



「……殿下がお待ちだろう。早く行った方がいい」



 リーヒェンはそう言って、もう会話は終わりだと言わんばかりに会釈をした。

 エルガーとアレクシアは、戸惑いながら会釈を返して別れた。

 イルザもまたリーヒェンの横を通り過ぎようとした。



「………お前は、殿下に相応しくない」



 すれ違いざま、押し殺した低い声が耳を掠めた。

 イルザは驚いて振り返ったが、リーヒェンは背を向けて歩きだしていた。



***




「リーヒェンなら、さっき私の所に来た」


 生徒会室にいたミランは、仕事の手を止めてソファに腰掛けるとそう答えた。



「……はっきり言って、あまり良い印象ではなかったわ」



 イルザの隣に腰掛けていたアレクシアは、友人であるエルガーやミランを気にしながらも、そう言って眉根を寄せた。

 エルガーも久々に会ったリーヒェンの態度には違和感があったようで、首を傾げている。



「元々愛想がいいわけではないが、今日は少し素っ気ないというか……すまない、悪い奴ではないんだが……。イルザ様とはどういう知り合いですか?」



 エルガーの率直な質問に、イルザは言葉を選びながら答えた。


 リーヒェン=シュヴァルツは、イルザの幼少期を直接知る、数少ない人物のうちの一人だった。

 七歳のイルザは北の棟と本邸を自由に行き来できるようになっていたが、伯爵家の限られた人以外との接触が禁止されていた。

 そんなイルザに、一時遊ぶことを許された少年がいた。

 それがリーヒェンである。


 あの頃、リーヒェンは月に二度ほど伯爵家を訪れた。

 その時だけイルザは美しく着飾り、本邸で彼とお茶をしたり遊んで過ごした。

 当時のイルザは気付かなかったが、恐らく婚約者候補として相性を見るための、いわばお見合いだ。


 シュヴァルツ侯爵家には当代で娘がいないので、なるべく美しい娘を娶り、次の代で王族との姻戚関係を結ぶことを目論んでいたのだろう。

 同世代の中で容姿に優れ、同じ侯爵位を持つのはアレクシアだったが、彼女はすでに王太子の婚約者候補の筆頭だった。

 そのため、続く伯爵位の令嬢の中で、その歴史の古さで一目置かれているメルジーネ家に白羽の矢が立った。


 侯爵家の富と名声に抗えなかったのか、伯爵は見合いを受けた。

 絶対に夢の話をするなと、父である伯爵から何度も言われたことをイルザは覚えている。

 そして何度か会う内に、イルザはリーヒェンに心を許した。

 イルザと遊んでくれる人など他にいないのだから当然である。

 少し年上で、優しい彼なら信じてくれるかもしれないと思ったイルザは、父の言いつけを破った。



 しかしリーヒェンは、彼が信じないものに関しては狭量だった。

 イルザの話を信じるどころか、嘘つきと詰り、怒って帰ってしまったのだ。



 縁談はもちろん失敗した。

 侯爵家と繋がりを持とうと張り切っていた伯爵は大層怒り、以後イルザが外部の人間と会うことは二度となかった。


 高い爵位と堂々とした振る舞い、正義感の強さからリーヒェンは同世代の子ども達の中心だった。

 そんな彼に嫌われたイルザの悪評は、その後急速に広まっていった。




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