36. 騎士
慣れない人混みと視線に緊張しながら、イルザはアレクシアと共に校舎に入った。
初めは二人を遠巻きに見ていた生徒達だったが、アレクシアの友人が挨拶したのを皮切りに、続々と周囲に人が集まりはじめた。
皆最初はアレクシアに声を掛けるのだが、一番の目的はイルザである。
アレクシアはイルザを守るように少し前に出て対応した。
アレクシアを介して自己紹介が終わると、イルザは内心の焦りを表に出さないように気を張りながら会話を交わした。
ひとしきり話終えると、ほっとしたイルザが少し微笑む。
それを目の当たりにした相手が言葉を失うと、その隙に次の挨拶がはじまる、という調子だ。
アレクシアが上手くあしらってはいるが、押し寄せる人はきりがなかった。
教室の前まで進んだところで二人は完全に囲まれ、ついに一歩も進めなくなった。
これはイルザにとっては想定外の事態だった。
魔女と噂されていた頃は視線を合わせることすら嫌がられていたから、今回もどちらかといえば忌避されると思っていたのだ。
困惑しながらも笑みを絶やさずにいたイルザだったが、延々と続く挨拶に顔がひきつり始める。
アレクシアの声にも疲れが見え始めた頃、生徒がざわついた。
何事かと目を向けると、廊下の先にミランの姿があった。
こちらへ向かってくるミランは、イルザが知らない男子学生と話している。
イルザと居る時とは少し違う、砕けた表情だ。
無意識に見つめていると、顔を上げたミランと目が合った。
刹那、ミランは破顔した。
それを見たイルザの心臓は、どっとおかしな音を立て、周囲からは悩ましげな溜め息が漏れる。
廊下を塞いでいた生徒達は、いつの間にか両端に寄っていた。
波が割れるように道が開けたことを少し気まずく思いながら、イルザは膝を折って頭を下げた。
すぐに、イルザの視界にミランの靴が見えた。
きれいに磨かれたその靴は、イルザが予想した位置では止まらなかった。
挨拶を交わすには近すぎる距離に疑問を感じるより前に、イルザはミランに抱き締められていた。
後方の女子生徒から、また悲鳴が上がった。
当然、イルザも驚いた。
驚いたものの、それはすぐに喜びに上書きされた。
久しぶりにミランの温かさと匂いに包まれて、イルザはふわふわと満たされた気持ちになる。
会わない内にまた大きくなった気がする身体を抱きしめ返し、身を委ねた。
――その時、ミランの背中越しにアレクシアと目が合った。
赤い顔で視線を外されて、イルザは我に返る。
(……ここは学園で……前に進めない程の人だかりになっていたはず……)
見知らぬ大勢に見られていると自覚すると、イルザは恥ずかしさのあまり気が遠くなった。
かといってミランを拒むこともできず、息絶え絶えに小さな声をあげる。
「………あの、………殿下………」
「なに?」
ミランが耳元で応えたので、イルザの腰が抜けた。
以前よりミランの声が低い。
「会いたかったよ」
さらには頬に口づけられる。
「…………は、い…………」
イルザは、いっそのこと気を失いたいと思いながら、蚊の鳴くような声で答えた。
アレクシアは赤くなった顔を手で覆う。
「……やりすぎだわ……」
ぽつりと呟いた声はイルザには聞こえなかったが、ミランには聞こえていた。
イルザを抱き締める腕を緩めてアレクシアを見る。
「アレクシアも、久しぶりだな」
「……お久しぶりです。殿下」
少し硬い声は、文句を我慢しているからだろう。
未だミランの腕の中にいるイルザは、赤い頬に手を当ててそっと冷ます。
「殿下」
腕の中のイルザを見ていたミランの後ろから、控え目に声が掛けられた。
声の主は、先ほどミランと話していた男子学生だ。
力の抜けたイルザの腰を支えながら、ミランは彼に向き直った。
「紹介する。アレクシアはもう知っているな。イルザ、彼は騎士団長の息子、エルガーだ。私と同い年で、クラスも一緒だ」
エルガーは一歩前に出て礼を取る。
そのキビキビとした動きが、騎士のようだとイルザは思った。
「お久しぶりです、アレクシア様。お元気そうでなによりです。はじめまして、イルザ様。エルガー=バルドリックと申します。お会いできてうれしいです。殿下の護衛兼同級生をしておりますので、お見知りおきください」
穏やかな笑みを浮かべるエルガーに、アレクシアはお久しぶりですと応えながら美しい礼をした。
続いてイルザもスカートをつまみ上げながら膝を折る。
「はじめまして、エルガー様。イルザ=メルジーネと申します」
エルガーはイルザにしばし見とれたが、ミランの殺気を感じて姿勢を正した。
「……父が、イルザ様の話をしていました。天使のように美しいなどとあの父が申しておりましたが、納得しました」
にっこりとイルザに笑いかけるエルガーに、イルザも笑みを返す。
「勿体ないお言葉です。閣下にはいつもお世話になっております。先日お会いした折りに、エルガー様の事をお聞きしました。お会いできて嬉しく思います」
エルガーは少し照れた様子で頬を掻いた。
和やかな雰囲気の二人を見つめるミランは、笑顔を張り付けてはいるが面白くなさそうだ。
「……そろそろ教室に入った方がいい。――イルザ、アレクシア、また昼に会えるだろうか」
「はい、喜んで」
始業時間も迫り、ミラン達がその場を後にすると、ようやく皆が教室へと向かった。
ミラン達を見送った二人も教室へと足を向ける。
ここ一年、イルザはお茶会に積極的に参加し、人付き合いを増やしてきた。
少しは慣れてきたとはいえ、緊張しながら教室に足を踏み入れる。
教室の中には同じく緊張した様子の人や、友人と楽しげに話す人、本を読む人など様々だった。
しかしイルザが入った途端、しんと静まり返った。
視線が一気にあつまり、イルザは思わず足を止めた。
(どうして足を止めてしまったの……気にしていない振りをしなければならなかったのに。早く、動かなくては――)
それでも縫い止められたかのように身体は動かず、焦りにのみ込まれる寸前、腕を引かれた。
はっとして振り返ると、緊張気味のアレクシアと目が合う。
(――大丈夫、一人じゃない)
二人は頷き合って微笑むと、一歩を踏み出した。
***
ひと気のない廊下まで来て、エルガーはミランに声を掛けた。
「――殿下。イルザ様はあの美しさですから、ご心配はわかりますが……心が狭いですよ」
その声は呆れたようでいて、どこか楽しげだ。
「これでいいんだ。お前は大丈夫だろうが、イルザの美貌は並外れているから危険なんだ。私の寵愛が深いと知れれば、少しは抑止力になるだろう」
「……でも、愛していらっしゃるでしょう?」
エルガーは少し冗談めかして言った。
優秀なばかりで可愛げのないミランが、少しは照れたりするかと思ったのだ。
しかし予想に反して、ミランは不快そうに眉を寄せ、ちらりとエルガーを見ただけだった。
「イルザはそんなものじゃない。くだらないことを言うな。婚約者を大切にするのは義務だろう」
先ほどの二人の様子からは想像もしていなかった冷たい反応に、エルガーは面食らった。
うかがい見たミランの表情から、本気で言っているのだと悟る。
(――あの愛人のせいか……)
今上陛下の愛人の話は公然の秘密だ。
政治的な思惑や、身分という障壁さえ乗り越えたレオナード国王の一途な愛は、美談として語られる事が多い。
しかしその愛が、ミランや王妃にとってどれ程忌まわしいものであったか、幼い頃からミランの側にいたエルガーは知っていた。
父親の冷たい態度に傷付く姿も目にしてきたが、いつからかミランは悲しまなくなった。
気持ちに折り合いをつけたのだろうとエルガーは思っていたのだが――、
(――父親を慕わしく思う気持ちを忘れるために、恋慕の情を捨てたのだろうか……)
自分と母を捨てた父を憎むためには、愛などくだらないものでなくてはならないから。
義務だと言いつつも、イルザと仲睦まじく過ごしているようだし、今のところ問題はないのだろう。
(……だが、愛を信じないままで、幸せになれるのだろうか)
恋をしたことがないエルガーにはわからなかった。
知っていたところで、両親仲が良く、多少厳しくも愛情を持って育てられた自分には、何も言えないとエルガーは思う。
ミランの言動に顔を赤くしていたイルザの事を思えば胸は痛んだが、エルガーは口を噤んだ。
始業の鐘が鳴りはじめた。
足を早めたミランの後を、エルガーは黙って追いかけた。




