29. 図書室
秋風が冷たさを増し、その日も少し肌寒かった。
王宮の図書室に来ていたイルザとアルマは、既に数冊の本を抱えている。
最後に一番上の段の本を取ろうと、アルマは精一杯背伸びをしていた。
本に指はかかっているのだが引っ張り出せずにいると、アルマの上を通って目的の本を取る手があった。
優しい人も居るものだと、アルマが笑顔で振り返ると、そこに居たのは宰相のライノアだった。
ライノアは、アルマにとって雲の上の人である。
その人が眉間に皺を寄せた厳めしい顔で見下ろすので、アルマは振り返った状態のまま固まった。
硬直するアルマに替わってイルザが進み出て頭を下げると、ライノアは手にした本を差し出した。
この本で合っているかと、低い声が尋ねる。
「ありがとうございます、閣下。大変助かりました」
イルザがそう答えて恭しく本を受け取ると、アルマも慌てて頭を下げて後ろへ下がる。
そのまま去っていくだろうという予想に反して、暫くしてもライノアは去る気配がない。
アルマがちらりと視線を上げると、険しい表情のライノアと目が合った。
その眼光の鋭さに、アルマはひっと息をのんで、先ほどより深く頭を下げる。
青ざめるアルマを知ってか知らでか、ライノアは一つ咳払いをするとイルザに声をかけた。
「随分、難しい本を読まれるのですね」
「……まだ、勉強不足です。少しでも殿下のお役に立ちたいのですが……」
「ーー貴女がそこまでしなくても、殿下は約束を果たされます。私も助力を惜しみません。それでも安心できませんか?」
ライノアが眉間に皺を寄せながらそんなことを言うので、アルマの心臓は恐怖できゅっとなった。
“約束”が何かはわからないが、ミランとライノアを信じていないのかと咎めていると思ったのだ。
イルザもはっとライノアを見て、それから俯いて考え込んでしまった。
どう取り成せば良いのかと、アルマの視線は二人の間をさ迷う。
慌てるアルマと俯くイルザを鋭く見やったライノアは、眉間の皺を一層深くして、ため息を付いた。
「……言葉が足りなかったようですね。責めているわけではないのです」
ライノアの意外な言葉に、イルザとアルマは同時に顔を上げた。
「貴女は、まだ子供です。親の庇護のもと、親に甘えてもいい年だ。ご両親でなくてもいい。もっと大人に甘えるべきだと、私は言いたかったのです。殿下は決して貴方を見捨てない。……私も、貴方を助けたい」
アルマは思わずぽかんと口を開けてしまったが、イルザも驚いて目を丸くしている。
眉間に皺を寄せたまま見下ろしてくるライノアは怒っているようにしか見えず、言葉の優しさと全く一致していない。
しかしまっすぐイルザを見つめる青灰色の瞳を見て、アルマはその言葉が本心だと感じた。
イルザも体の力を抜いて口を開く。
「ーーありがとうございます、閣下。……決して疑うわけではないのですが……」
イルザは迷うように言葉を切った。
「……私は、怖いのです。何かしていないと、悪いことばかり考えてしまうのです。……私はきっと、どこかおかしいのだと思います。父や母に疎まれるのも当然です。自分でも、わからないのですから」
アルマは思わずイルザを見た。
会話に割り込む事はできず、喉まででかかった言葉をなんとか飲み込む。
「そんな風に、思っていたのですか……」
ライノアは溜め息をついて手で顔を覆い、暫く黙りこんだ後、静かに膝をついた。
イルザと視線を合わせると、そっとイルザの手を取った。
「貴女は、決しておかしくない。勤勉で、思いやりがある。尊敬に値する方だ」
アルマが言いたかった言葉を、ライノアはきっぱりと告げた。
それが嬉しくて、アルマは少し泣きたくなった。
「ご両親の言葉は忘れてください。貴女さえよければ、私が父になりましょう。……結婚すら、したことのない男ではありますが……」
いつも自信に満ちたライノアの、どこか情けない言葉は、ひたすらにイルザを思って発せられたものだった。
ライノアの言う父というのは、恐らく実父母の他に後見人として責任を持つ代父のことだろう。
今はほとんど見られなくなった慣習だが、その関係性によっては実父母並みの、無視できない存在となる。
王宮へ入って半年以上経ち、最近ようやくイルザの真面目で大人しい性格が知られるようになった。
イルザを受け入れる者は増えてきているが、その半数はミランの寵愛を受けるイルザに取り入ろうという下心があった。
だが、国の重鎮であるライノアは、イルザに取り入る必要がない。
打算なしにイルザを認め、後見するとまで言及したのだ。
「ーーありがとうございます……そのように言っていただけて、嬉しく思います……」
俯きがちに応えるイルザの後ろ姿を見つめながら、アルマは鼻をすすった。
ライノアは照れているのか、ごほんと咳払いをしてさっと立ち上がると、イルザの持っていた本を取り上げて歩き始めた。
二人が慌てて追いかけると、ライノアは図書室で一番居心地の良い席に本を置き、自分はその横に座った。
イルザは戸惑いながらライノアの隣に座り、何故かアルマまで向かいの席に座らされる。
手にしていた分厚い本を読み始めたライノアに声を掛けるのも憚られ、イルザとアルマも仕方なくその場で本を開いた。
ほどよく光が差し、静かな図書室は心地よいあたたかさだ。
アルマはいくらもしない内に眠くなった。
欠伸を噛み殺していると、前の席のイルザも船を漕いでいる。
さほど長くもない時間が過ぎた頃、ついにすとんとイルザの体から力が抜け、傾いた身体をライノアが支えた。
起きている時のイルザは、その落ち着いた佇まいと知的な話し方で、およそ十一歳とは思えないが、寝ているとあどけない子どもに見えた。
イルザを起こさぬようにそっと体勢を変えながら、ライノアは静かに口を開いた。
「アルマ。イルザ様はよく眠れていないのか」
ライノアが自分の名前を知っている事に驚きながらも、アルマは口を開いた。
「はい。昔から眠りは浅いそうで、夜中に何度か目覚めてしまわれるようです。加えて、最近は寝る間も惜しんで熱心に勉強されていて、お疲れなのだと思います」
「……そうか。私からも、しっかり休むように申し上げよう。……今日の講義はあと一つだったな。取り止めてこのまま休ませなさい。私が教師に連絡しておく。イルザ様には教師の体調不良とでも言っておけばよい」
「畏まりました」
ライノアが合図すると、控えていた若い従僕が、二十冊ほどにもなる三人分の本を慣れた様子で積み上げていく。
そのあいだ、ライノアは腕の中のイルザを見つめていた。
「……どうか、お許しください……」
ライノアの小さな呟きが、アルマには聞こえた。
見上げたライノアの眉間には、いつも通りくっきりと皺が刻まれているが、少し悲しげに見えた。
それは幼すぎる婚約に対する謝罪なのか、理由はわからないが問うことはできない。
アルマには踏み込めない一線がある事は理解しているが、今は少しだけそれを寂しく思う。
積み上げた本をぐらつく事なく運ぶ従僕が、器用に図書室の扉を開けると、ライノアはゆっくりと立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。
アルマはライノアの後ろを黙々と進む。
長い廊下でふと見上げると、窓の外は燃えるように紅葉していた。




