27.クラウス
アレクシアを見送ったイルザはミランと別れ、庭を散歩していた。
夏の終わりを感じさせる、冷たい風が時折吹いてくる。
少し離れて付いてくる護衛に申し訳なく思いながらも黙々と歩いていると、アレクシアに初めて会った場所に差し掛かって、イルザは足を止めた。
くるりと向きを変え、逃げるようにその場を離れたイルザは、庭の小道が行き止まりになったところでようやく足を止めた。
そこは蔦に覆われた壁と塀に囲まれた小さな庭で、目ぼしい花もない。
葉を横に広げた古木だけが、ぽつんと置かれたベンチに影をつくっている。
静かな北の離れで過ごしてきたイルザにとって、王宮の庭は明るく開放的すぎた。
木々や壁が程よく視線を遮り、華やかさもないその場所が、イルザには心地よかった。
ベンチに座り、庭をぼんやりと眺めたイルザは、静かにため息をついた。
実際に話してみれば、アレクシアは物言いがきつい事があったり、はっきり言い過ぎる所はあるものの、素直で思いやりのある人だった。
はにかみながら笑う所は可愛らしく、イルザは好ましく感じた。
(……それにとても、美しいご令嬢だった……)
こんもりとした繁みの向こうに、アレクシアは真っ直ぐ立っていた。
植え込みの陰から現れたのには驚いたが、それだけ親しいのだろう。
ミランとアレクシアが並び立つ姿はあまりにも自然で、お似合いに見えた。
立ち居振舞いが堂々として気品があり、艶やかな黒髪と真っ赤な唇に彩られた肌は陶器のように滑らかだった。
サファイアのように輝く目は、生気に満ちていた。
その切れ長の目に見つめられて、イルザは悪夢に引き摺り込まれた。
視界がゆがみ、思わず閉じた目をそっと開けると、イルザは夏の園庭ではなく、曇天の広場に立っていた。
傷だらけの裸足の下は、ささくれ立つ木製の処刑台だ。
どす黒い染みが散る台の中央で、イルザはふるりと震えた。
今にも雪が振りだしそうな灰色の空に、イルザの白い息が溶けるように消えていく。
視線を少し上げれば、向かいの庁舎のテラスにミランと婚約者の姿があった。
象牙の扇で顔を隠し、艶やかな黒髪を美しく結い上げた婚約者。
その鮮やかな青い瞳は、汚いものを見るように冷たくすがめられていた。
(……殿下の本当の婚約者は、アレクシア様だったのに……)
イルザは、罪から目を背けて瞼を閉じた。
「ーーイルザ様?」
声を掛けられて振り返ると、そこにいたのはクラウスだった。
思わず周りを見回すが、ミランの姿はない。
「殿下はまだ講義中です。たまには息抜きをしろと追い払われました」
クラウスは少し大袈裟に肩をすくめる。
華やかな場が似合うクラウスが、寂しい庭の片隅に足を運ぶ事があるのだと、少し意外に思いながらイルザは腰を上げた。
「……私はもう戻りますから、どうぞごゆっくりお過ごしください」
会釈して去ろうとするイルザを、クラウスが引き留めた。
「もしよろしければ、ご一緒させていただけませんか? 殿下のかわりにイルザ様をお守りできれば、これ以上の安息はございませんので」
相変わらずの言葉に何と返せばいいのかわからないまま、イルザはひとつ頷いた。
ゆっくり歩き始めた二人の後ろを、侍女と護衛が離れて付いてくる。
会話が聞こえないほどに離れた所で、クラウスが口を開いた。
「……初めてご挨拶した日を覚えていらっしゃいますか? イルザ様は以前から私をご存知だったようでした。もしかして私も、例の夢に出てきたのでしょうか?」
これまで夢の話を一切しなかったクラウスが、一体どうしたことだろうと少し戸惑いながらイルザは答えた。
「……あの時は、大変失礼いたしました。クラウス卿を実際に目にして、ようやく実感したというか……驚いてしまって」
クラウスはいつも通り楽しげに笑った。
「殿下は現実味のない方ですからね。元々夢の中の王子様といった風情では、実感も何もないですからね」
「……そう、ですね」
確かにそうかもしれないと思ったイルザは、少し恥ずかしくなって言葉に詰まった。
そんなイルザを流し見て、クラウスは笑みを深めた。
それから少しだけ真面目な顔で聞いた。
「……アレクシア様も、出てきたのですか?」
イルザは思わず足を止めた。
同じく立ち止まったクラウスは微笑を浮かべているが、感情が読めなかった。
考えてみれば当然だが、幼い頃からミランと交流してきたアレクシアは、クラウスとの付き合いも長い。
イルザよりもずっと親しいのだ。
昨日の一件を不快に思うのも無理はないとイルザは思った。
初めて会った日からこれまで、クラウスは一貫してイルザに丁寧で優しかった。
会話が下手なイルザによく話し掛けて、いつも楽しませてくれた。
そんな彼に嫌われたかと思うと悲しく、これ以上嫌われたくないが、何を言ったらいいのか分からずイルザは沈黙した。
「……きっと、イルザ様が現れなければ、アレクシア様が殿下の婚約者になっていたでしょうね」
クラウスはどこまで気付いているのか。
口調はとても静かで、それがかえって怖かった。
イルザは震える手で日傘の柄を握り締め、次の言葉で断罪されることを覚悟した。
「……だから私は、イルザ様が現れた時、ほっとしたのです」
予想外の言葉に戸惑って、イルザはクラウスを見上げた。
「私に未来はわかりません。だからこれは、単なる憶測にすぎません」
クラウスは穏やかな表情で庭を眺めている。
「婚約者候補として最初に二人が引き会わされたのは、アレクシア様が六歳の時です。それから交流を続けて、お互いに知り合う努力をされてきました。――しかし、感情はどうにもならないものです。特に、恋心というものは」
そう言って、クラウスは笑った。
「幼なじみとしての親近感はあるでしょうが、それだけのように見受けられました」
「クラウス卿……」
「お二人が結婚すれば、大きな不幸はないでしょう。……しかしおそらく、幸福にもなれない」
遠い記憶を眺めるように庭を見つめていたクラウスは、イルザに向き直り、笑みを浮かべた。
それはとても優しい顔だった。
「私は二人に幸せになってほしい」
返す言葉が見つからず、イルザはただクラウスを見つめる。
「私は欲深いので、イルザ様にも幸せになってほしいのですよ」
「……」
イルザは言葉を失くして、目を見張った。
「イルザ様。心のままに望んでください。どうか、殿下を信じてください。殿下が選んだのは貴女です。アレクシア様は大丈夫です」
クラウスはまっすぐにイルザを見つめた。
「ご自分のことも、もっと信じてください。私は、イルザ様を信じていますよ」
にっこりと笑うクラウスは、以前と全く変わらなかった。
イルザの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「………クラウス卿、私は……、私は……!」
その先は言葉にならなかった。
(ーー私は、処刑される悪女で……それを隠して、皆を欺いているのに……)
涙を溢して震えるイルザの背を、クラウスはあやすようにさすった。
その優しさが、またイルザの胸を抉った。
イルザは、何よりも自分の事が信じられない。
国のため、ミランのためと言っても、本当にミランに必要なのは、魔女のイルザではない。
それを知りながらアレクシアの居場所を奪い、ミランにすら処刑の悪夢を隠して、婚約者の座に居座り続けている。
(……でも、言ってしまえば、きっとこの幸福は消えてしまう……)
イルザは今、幸せだった。
この幸せを失いたくなかった。
余計なことを言って、また拒絶されたら?
それくらいなら、このまま黙っていればいい。
そうすれば、このままずっとミランの側にいられる。
『ーー卑怯者』
誰かがそう呟いて、嗤った気がした。




