26. 友
アレクシア宛に手紙が届いたのは、倒れたイルザを呆然と見送った日から二週間ほどたってからだった。
あの後すぐにイルザから丁寧な謝罪の手紙が届き、アレクシアは当たり障りのない返事を出していたのだが、改めてイルザを紹介するので王宮へ来て欲しいというミランからの招待だった。
アレクシアは断りたかったが、適当な理由も見当たらず、侯爵がミランの誘いを断ることを許す筈もない。
言われるまま精一杯着飾り、重い足取りで王宮の門をくぐった。
庭に面した明るい部屋で待つように言われてソファに腰掛ければ、自然とため息がこぼれる。
このままミラン達が現れなければ良いのに、と思うアレクシアにとっては無情にも、さほどの時間も経たないうちにミランは現れた。
後ろには当然、イルザを伴っている。
簡単に挨拶を交わすと、ミランはイルザを心配そうに見つめた。
「……殿下……お願いいたします」
イルザがそっと告げると、ミランはしぶしぶ頷く。
「……わかったよ。また後で来る。アレクシア、ゆっくりしていってくれ」
「………はい」
ミランが部屋を出てから、とりあえず椅子に腰掛けたが、前回挨拶さえままならなかった二人の間に会話はない。
恐らく自分のことを嫌っているであろうイルザと、二人きりにしないでほしいとアレクシアは思った。
静かな部屋では、小さな鳥のさえずりがよく聞こえた。
アレクシアが息を殺して出方を伺っていると、俯きがちに手元を見つめていたイルザが、突然立ち上がった。
思わず身構えるアレクシアに数歩近付いたかと思うと、その場に膝をつく。
ぎょっとするアレクシアに構わず、イルザは頭を下げて口を開いた。
「ーーアレクシア様、先日はご挨拶もままならず、お見苦しい所をお見せしました。どうかお許しください」
「……許すもなにも……謝罪は不要です。どうか立ってください」
アレクシアは内心慌てながらそう告げるが、イルザは動かない。
どうすべきなのかわからないアレクシアも黙りこんでしまい、部屋は居心地悪く静まり返る。
アレクシアの手に汗が滲み、沈黙に耐えきれなくなろうかという頃、イルザが顔をあげた。
息が止まるほど美しい紫の瞳が、まっすぐアレクシアを見つめていた。
「ーーアレクシア様。貴女様から、殿下の婚約者というお立場を奪った私の、顔を見るのもご不快でしょうが、どうかお聞きください」
それは、美し過ぎていっそ弱々しく見えるイルザの、強い声だった。
「私は、幼い頃から呪われた子と言われていました。髪の色、目の色、顔付き……どれをとってもメルジーネ家の特徴を持たず、父や母に全く似ていなかったからです。それに傲慢で、人を平気で傷付ける残酷な子どもでした。それゆえ両親にさえ疎まれて、伯爵家では一人離れに暮らしていました。話し相手もなく、顔を合わせる者も殆どいない生活です。……殿下は、そんな私を憐れんで婚約者として迎え入れてくださったのです」
アレクシアは、こんな美貌の娘を疎む親がいるのかと思ったが、イルザがみすぼらしい格好でお茶会に現れたという友人の話を思い出した。
嘘ではないのだろう。
(……でも、あのミランが、同情だけで婚約者を決めるかしら?)
そう思ったものの、アレクシアはとりあえずゆっくりと頷いてみせた。
「ーー伯爵家では、凡そ令嬢として必要な振舞いや教養を身につけておりません。王宮で倒れたのも二度目で……不甲斐なく思います。これでは、殿下の婚約者として相応しくないと、よく分かっているつもりです」
イルザの話を聞きながら、青が混じり合う紫の瞳をじっと見つめていると、ゆらりと部屋が歪んだように感じた。
(……?)
アレクシアは目を擦ろうとして、身体が動かない事に気付いた。
途端にどっと汗が吹き出し、鼓動が早くなった。
『呪われた魔女』
先程思い出した友人の話の中で、イルザはそう呼ばれていた。
贅を尽くした室内の装飾、ビロードのソファや茶器の乗ったテーブルも、全ての輪郭が崩れてぐちゃぐちゃになっていく中で、イルザの存在だけが鮮明だった。
視線を外すことも、瞬きさえできず、反響するイルザの声がその場を支配していた。
「……それでも私は、殿下の御恩に報いる為に、殿下の側にいたいのです。殿下のためなら、私は、どんな事でもします」
イルザは、命じられれば本当に何でもやるだろうとアレクシアは確信した。
怖いくらいに純粋で、真っ直ぐな言葉だった。
「今はまだ、アレクシア様に遠く及びません。ですが、もっと努力します。……だから……どうか、お許しください」
言いきると同時に、イルザが頭を下げた。
視線が外れると、ようやくアレクシアは自分の感覚を取り戻した。
無意識に止めていた息を吐き出した。
震える手で扇を開き、その陰で深呼吸を繰り返す。
(ーー今のは、一体何なの?)
身を縮め、懺悔するように頭を垂れるイルザに悪意は感じない。
先程の奇妙な感覚は故意ではなく、イルザには自覚すらない気がしたが、“魔女”は単なる噂ではなかったのだと直感した。
(今すぐ逃げ出したい)
それは本能的な欲求だった。
イルザはアレクシアに対して罪悪感があるようなので、ここで無礼に立ち去っても問題にしないだろう。
(……でも、……それってつまり、私の負けよね)
アレクシアは手にした扇をぎゅっと握り締めた。
彼女は幼い頃からずっと、誰よりも美しく、そして何より強くあれと教えられて育ってきた。
目の前にいる儚げな美少女を恐れ、尻尾を巻いて逃げるなど、アレクシアのプライドが許さなかった。
幼子には厳しすぎる教育に耐え続け、努力した日々が、アレクシアをその場に踏み止まらせた。
目の前にいる少女は普通ではない。
身体が動かなくなったことも、どんな事でもすると言いきる覚悟も。
(ーーでも、それが何だっていうの? 同い年の少女なんて、恐れるに足りないわ)
強がっていても身体は微かに震えていたが、アレクシアは大きく息を吸って静かに吐き、広げていた扇を閉じた。
幼い頃から幾度となく練習したように、上品に優雅にと自分に言い聞かせれば、震えは収まった。
イルザはまだ頭を下げていた。
確かにこれでは、王妃に向いていないとアレクシアは思った。
しかし自身の、恐らく最も人に知られたくない部分を晒してまで謝罪したイルザは、真面目で誠実な人のようにみえる。
それもまた、人の上に立つものに必要な資質だった。
「……イルザ様。私は、バトラー家の真珠と呼ばれておりますの。私と結婚したい方は沢山おりますし、殿下と私は只の友人。王妃の地位も惜しくありません」
それはアレクシアの本心だった。
ただ、負けたような気がして悔しいだけなのだ。
イルザのせいにして八つ当たりできれば楽なのだろうが、アレクシアは不器用にも真面目であった。
つんと横を向いたのは動揺を隠すための無意識の行動だが、傲慢にも見える。
「……ですから、謝られる理由なんてありません。私が意地悪しているみたいだから早く立ってくださる? いい加減、喉が渇きましたわ」
言ったそばからアレクシアは後悔した。
(また、やってしまった……)
こんな言い方をするから、同じ年頃の令嬢に怖がられてしまうのだ。
気にしていないから謝らなくていい、一緒にお茶を飲みましょうと言えば良かったのに、恐れを隠そうとしてつい、強い言い方になってしまった。
緊張している時などは特に、妙に言葉がきつくなってしまうのは、アレクシアの最大の難点であった。
ちらりと視線だけでイルザを見ると、彼女はぽかんとアレクシアを見つめていた。
また泣かれてしまうかと焦るアレクシアだったが、何故かイルザはほんのりと笑った。
「……アレクシア様は、とてもお優しいですね」
「……!」
イルザの微笑みは、同姓であるアレクシアにさえ魅惑的だった。
破壊力のある微笑み付きで、しかも初めてそんな事を言われたアレクシアは、赤くなった顔を扇ぐ事しかできない。
(なによ……いい子じゃない)
アレクシアはちらちらとイルザを見ながらそんな事を考えた。
(噂どおり魔女かもしれないけど……。だとしても、きっといい魔女だわ)
イルザに掛けられた言葉が嬉しくて絆されたのもあるが、アレクシアは元来、素直な子であった。
***
イルザとアレクシアの様子を見に戻ったミランは、二人が腕を組んで歩く姿を目にすることとなった。
朝からいつも以上に硬かったイルザの表情も今は和らいでいて、ミランは密かに安堵した。
もともと二人が親しくなることを期待していたが、予想以上にうまくいったようだ。
イルザとの婚約は、長い間王太子の婚約者として最有力候補であったアレクシアには不名誉なことであり、彼女を傷つけた。
しかし以前と変わらずアレクシアが王宮に通えば、婚約に至らなかった原因が彼女自身に無いと印象付けられる。
ミランはアレクシアの幼なじみとして、せめて汚名をそそぎたかった。
アレクシアとの交流は、イルザにとってもメリットが多い。
最大の利点はその交遊関係の広さである。
イルザは伯爵家で殆ど人との交流が断たれていたため、友人どころか知り合いもいないが、貴族社会で社交は必須だ。
王妃となるべく育てられたアレクシアは、その辺りも抜かりなく付き合いが広いので、今後二人が親しくすれば、自ずとイルザの交友関係も広がることだろう。
成人に近付くにつれ、女性だけの集まりや人間関係は増えていく。
表面的には優雅に、しかし笑顔の下で刃を向け合うような女性達の社交で、アレクシア以上の盾はない。
来年の春になれば、ミランは王立学園に入学する。
王宮を離れて寮で生活するため、イルザが学園に入学するまでの間、側に居ることができないのだ。
(悪い噂について、打てる手は打った。イルザが入学する頃には下火になるはずだ。……だが、中には嫉妬や憎悪を向ける者もいるだろう)
髪を揺らして歩く華奢な背中を見つめながら、悪意を向けられて傷つくイルザを想像すると、ミランはひどく苛ついた。
ミランは、いつ何時も、感情的になってはいけないと言われながら生きてきた。
いつも王太子として振る舞い、常に冷静に、理性的であろうとしている。
しかしイルザが関わると、どうにも感情が揺れ動く自覚はあった。
(これ以上、イルザに感情を寄せてはいけない)
イルザを守るのは国のためで、国や王家にとって害となるならば、彼女を切り捨てなくてはならないのだ。
ミランはイルザから視線を反らして、それ以上考えるのをやめた。




