19. 王宮
アルマが一日の仕事を終えて私室へ戻るのはいつも夜中だ。
寝静まった城は不気味で、アルマは暗くしんとした廊下を足早に進み、逃げるように部屋へと入る。
ドアをそっと閉めてから振り返り、ベッドを見たアルマは、ため息をついて天を仰いだ。
そこには、泥だらけのアルマのショールが投げ捨てられていた。
イルザが王宮に来て二週間、アルマは陰湿な嫌がらせを受けていた。
アルマが嬉々としてイルザの世話を焼きはじめた途端、一部の侍女から明確な敵意を向けられたのだ。
現在、イルザの専属侍女はアルマとマリーの二人だけで、あとは王妃と王太子の侍女の中から数名がイルザの侍女を兼務している。
そのうち、面と向かって嫌味を言ったり無視するのは二、三人で、大半は傍観者だ。
アルマは度々足を掛けられたり、食事を抜かれたりもしているが、助けようとする者はいない。
王太子に近いマリーに頼ればいいのだろうが、ただでさえ忙しい彼女に負担を掛けてしまいそうで言えなかった。
「……はぁ……」
しばらく俯いていたアルマは、顔を上げると慣れた様子でエプロンを身に付ける。
汚れたシーツごと手早くショールをくるむと、大股で夜の洗濯場へ向かった。
普通の貴族令嬢ならすぐに音を上げたかもしれないが、アルマは耐えられた。
しかしそんなアルマを見て、嫌がらせはかえってエスカレートしていった。
***
アルマはその日も使用人の洗濯場にいた。
夏の始まりを感じさせる日射しの中、手を止めたアルマは肩を落とし、ぼんやりとしている。
相変わらずアルマの服やシーツだけ洗ってもらえず、この頃は夜の洗濯が日課になりつつあった。
寝不足が続いているうえ、今日はいつの間にかお尻の辺りが汚れていて、それをイルザに指摘されてしまったのだ。
恥ずかしさに真っ赤になりながらも誤魔化すように笑ってみせたが、じっとアルマを見つめたイルザは嫌がらせに気付いたかもしれない。
(……帰りたいな……)
この頃は毎日のようにそう思っていた。
それでも辞めずにいるのは、お金のこともあるが、イルザの世話を他の誰にも頼めないと感じるからだ。
勢いよく顔をあげて深呼吸したアルマは、洗濯物を握り直した。
辺りに水を撒き散らしながら、しつこい汚れにストレスをぶつける。
「………あの、アルマ様……」
怯えたような弱々しい声を掛けてきたのは、年若い下女だった。
帽子をしわくちゃにしながら胸の前で握り締め、深く頭を下げなからアルマの後ろに立っていた。
下女と侍女は身分が違うため、下女から声をかけることは滅多にないのだが、他に誰もいないのでアルマは戸惑いながら立ち上がった。
「……私、ですか?」
下女は緊張のあまりか、顔を赤くしながら何度も頷いた。
「はい……あの、ご無礼をお許しください。……わ、私……別の侍女様から言われて……、すみません……私の仕事なのです……!」
言いながら下女が泣き出してしまったので、アルマは慌てた。
「いいのよ。あなたの立場では従うしかなかったでしょう。話してくれてありがとう」
濡れた手をエプロンで拭いながら彼女に微笑むが、下女は余計に泣いた。
「……お、お許しください!………私は他にも、言わなきゃいけない事がーー」
しゃくり上げながら話すのを聞くのは大変だったが、その内容を理解したアルマは青ざめる。
洗いかけの洗濯物とエプロンを放り出し、駆け出した。
スカートを持ち上げ、恥をかなぐり捨てて走ったアルマは、イルザの部屋の前で何かが割れる音と小さな悲鳴を耳にした。
「失礼します!」
心臓が凍りつくような心地で、返事も待たずに扉を開けた。
目に飛び込んだのは、手を押さえるイルザの姿だった。
隣には青ざめて今にも泣き出しそうな侍女が立ち尽くし、床に割れた陶器のポットが散乱している。
濡れたテーブルや床を見て、すぐに状況を理解したアルマはイルザに駆け寄った。
イルザはいつも通りの無表情だったが、その手が赤くなっているのを見てアルマは悲鳴のような声を上げた。
「なんということを……!!」
睨み付けるアルマに震え上がった侍女に侍医を呼ぶように指示して、アルマはイルザを長椅子に座らせた。
よく見ればドレスの裾も濡れていて、足にもお湯が掛かっている。
アルマは様子を見ながら濡れた靴をゆっくりと脱がす。
「……ごめんなさい」
俯いていたイルザが、ぽつりとこぼした。
その言葉に、アルマは一瞬、息を止めた。
「………イルザ様が、謝ることはありませんよ。すぐに、冷やすものをお持ちしますからね。痛いでしょうが、少しだけ待っていてください」
アルマはなるべく穏やかな表情を作ってそう告げると、冷たい水と清潔な布を用意するために走った。
***
王宮の廊下を駆けながら、アルマは後悔していた。
気付けなかった自分が悔しくて、腹立たしい。
嫌がらせを受けていたのは、アルマだけではなかったのだ。
信じられない事に、王太子の婚約者であるイルザにまで、数々の嫌がらせをしていたのである。
部屋の掃除をしなかったり、蛇や虫を放ったり、わざと転んで汚れた水を掛けろと言われたという。
数人が指示されるままに実行したと、先ほどの下女は告白した。
『罰を受けるのが怖くて、今まで言えませんでした。……イルザ様は、一度も私たちを責めず……それどころか、怪我はないかと気にしてくれたのに……。ほんとうに、申し訳ありませんでした……』
下女の立場は弱い。
貴族の令嬢や夫人である侍女に言われれば従わなくてはならず、逆らえば鞭で打たれることさえある。
イルザへの嫌がらせは、マリーとアルマのいない時を狙ってやったのだろう。
アルマに対する嫌がらせは、アルマをイルザから引き離す為でもあった。
卑怯なやり口に怒りながら、俯いたイルザを思い出してアルマは泣きたくなった。
痛いだろうに泣くこともなく、ごめんなさいと言う姿に胸が痛んだ。
アルマがイルザに仕えるようになって既に1か月。
その間、イルザは息をひそめるように過ごしていた。
アルマが尋ねなければ一日中黙って過ごすのではないかと思うほど静かで、殆ど部屋から出ない。
弟妹と比べて大人びているとはいえ、この年頃の子が、こんな風にじっとしていられるのはあまりにも不自然だった。
身の回りの世話をされる事にも慣れておらず、侍女や下女に頼まず自分でやってしまうし、些細な事で礼を言う。
その態度は、アルマには謙虚で優しく感じられるが、侮る者もいる。
貴族らしくないと言われれば、確かにその通りだった。
アルマのような貧乏な家ならまだ分かるが、イルザの生家は安定した収入のある伯爵家だ。
最初は不思議だったが、今となれば、アルマも漠然と理解していた。
たった十一歳で家族と離れ王宮に入ったにもかかわらず、一度も家族の話をしないイルザ。
メルジーネ伯爵家からは手紙の一つもなく、イルザからも手紙はあるかと聞かれたことがない。
そして誰よりも側にいるアルマすら、イルザの泣き顔も、笑顔も見たことがない。
そもそも王太子の婚約者になったからといって、幼いうちから家族と引き離す必要がないのだ。
むしろ、家族に問題があるから引き離されたのだと思われた。
アルマは、慣れない環境で、家族と離れて生活するのが辛かった。
一日の終わりに部屋に戻ると無性に家族に会いたくなり、一人で泣いたのも一度や二度ではない。
十六歳のアルマですらそうなのだから、もっと幼いイルザの不安はいかばかりか。
そんな状況でも感情を露にできないほどの心の傷は、計り知れなかった。
辿り着いた部屋の前で、アルマは目に浮かんだ涙を拭った。
物音どころか気配も感じない部屋のドアをノックすると、イルザの澄んだ声が聞こえた。