18. 侍女アルマ
穏やかに晴れた日の午後、磨き上げられた王宮の廊下を足早に進む一人の侍女がいた。
赤茶色の癖毛を揺らすのは、イルザに仕えはじめておよそ一ヶ月になる侍女、アルマである。
いつも手間ひま掛けてまとめあげる髪がほつれるのも構わず、ほとんど走るように向かっているのはイルザの私室だ。
茶色い瞳に僅かにグリーンが混じる大きな瞳に涙を浮かべながら、アルマは怒っていた。
***
アルマは辺境の領地を治めるクレメント男爵家の長女である。
彼女は二ヶ月程前、王太子の婚約者に仕える侍女の選定がある事を知り、すぐに行動を起こした。
つてを頼って何とか紹介状を手に入れると、家族の反対を押しきって家を飛び出したのだ。
そして丸五日かけて王宮で行われる選定へと出向いた。
アルマが侍女を目指すのは、とにかくお金がない実家から離れて給金を稼ぐためだ。
山際の小さな領地は人口が少なく、人々の生活はほぼ自給自足である。
そんな領地で領主が得る収入は元々少ない上に、男爵家は子どもが多かった。
兄二人に弟妹が四人、一番下はまだ乳飲み子だ。
何とかして侍女に選ばれなければと意気込むアルマだったが、選考に集まっていたのは伯爵以上の良家の、見目麗しい令嬢ばかりだった。
仲の良い両親の元で育ったアルマは気付かなかったが、婚約者の侍女ともなれば王太子の目にとまる可能性が高い。
側妃の座を狙う貴族達が、こぞって美しい娘を差し向けていたのだ。
十三歳の王太子と釣り合う若い少女が多い中で、アルマは最年長の十六歳。
十人並みの容姿に、使い古したドレスを身に付けたアルマは、着飾った令嬢達の中でひとり浮いていた。
年下の令嬢に嘲笑され、心が折れそうになりながらも精一杯やったが、受かる自信など微塵も無く、アルマは暗い顔で帰宅の途についた。
しかし、アルマが帰宅して一週間後、王宮から届いたのは侍女に任命するとの知らせであった。
見違えではないかと、家族で代わる代わる任命書を読み直し、挙げ句偽物ではないかと疑い始める始末である。
どうやら本物のようだと理解すると、男爵夫妻はあわてて準備に取りかかった。
短い準備期間の後、一家総出で見送られ、また五日掛けて王宮の門をくぐったアルマは、出迎えたマリーに何かの間違いではないかと確認せずにはいられなかった。
そんなアルマに、マリーはまず徹底的に礼儀作法を叩き込んだ。
その穏やかな印象とは裏腹に、指導は悪魔のように厳しく、アルマがマリーの微笑にぞっとするようになるまでさほど時間はかからなかった。
貴族の端くれとして基本は学んでいたが、貧しさのあまり人も雇えない男爵家である。
下働きの仕事までしていたアルマにとって、こと細かな礼儀作法は服の汚れを落とすよりよっぽど難しかった。
***
約二週間マリーにしごかれて、いよいよ王太子の婚約者が王宮に入る日、アルマは緊張で震えていた。
貴族の社交とは縁遠い生活をしてきたので知らなかったのだが、これから仕えるイルザには悪い噂ばかりなのだという。
古参の侍女は、哀れむような、蔑むような目でアルマに言った。
『婚約者に仕える者がたった二人なのも、特に優秀でも何でもないあなたが採用されたのも、悪名高い婚約者に仕えるのが嫌で、辞退が相次いだせいなのよーー』
アルマが言葉を失ったのは、心当たりしかなかったからだ。
今さら実家に戻ることはできない。
ここより給金の良い職場なんて無い、と自分に言い聞かせていたが、次々と悪い想像ばかりが浮かび、アルマの不安と緊張は増すばかりだった。
顔色を悪くしながら考え込んでいると、マリーに声を掛けられ、アルマは慌てて頭を下げた。
静かに近づく人の気配に、心臓がばくばくと音を立て、指先が震えた。
自分を紹介するマリーの声がどこか遠く聞こえた後、透き通るような少女の声がした。
子供にしては落ち着いたその声を合図に、アルマはゆっくりと顔を上げた。
アルマには、そこからしばらく記憶がない。
我に帰ったのは一日の仕事を終えて自室に戻ってからだった。
イルザと初めて対面し、挨拶をしたはずだが、自分が何を言ったのか、何を言われたのか全く覚えていない。
マリーに怒られなかったので、無意識でも仕事はこなしたようだ。
ぼんやりとしていたアルマは、ベッドに仰向けに倒れこんで、天井の染みを見ながら呟いた。
「……信じられない……」
そのままごろりと転がり、ベッドに突っ伏して震えだしたかと思うと、くぐもった笑い声をあげながら足をばたつかせた。
マリーが見ていたら、背筋の凍る真っ黒な笑みが浮かんだことだろう。
「ーー天使かな? いや、天使だわ……本物の、天使……」
アルマは、イルザの美貌を思い出すだけで動悸がして、顔が赤らむのを感じた。
(ーー侍女を辞退する者が多いのは当然だわ。イルザ様の側にいては、どんなご令嬢も引き立て役にすらなれない……)
夢うつつの状態で記憶は曖昧だが、イルザを頼むと王太子殿下からも直々に声をかけられた気がするので、婚約者として大切にされているようだ。
だからこそ側妃への野心を滲ませた候補者達は落とされたのだろう。
アルマの頭の中は、今、イルザのことでいっぱいだった。
大袈裟なようだが、アルマは幼い頃から面食いで、容姿の優れた見知らぬ人に付いていって迷子になるような子どもだった。
そのうえ、アルマがついていく美形は善良で幼い子に優しかったので、アルマの偏向は益々強くなっていった。
そんなアルマの前に現れた、完璧な美貌のイルザである。
一目惚れだった。
(明日からイルザ様のお側にいられるのね……)
アルマは明日からの生活を妄想した。
専属の侍女が少ないため、ほぼ付きっきりで身の回りのお世話をする事になるだろう。
イルザの側に控え、日常の細かな事をサポートするほか、その装いを決め、身なりを整えるのもアルマの仕事である。
美しいイルザを着飾るのが、楽しみで仕方がなかった。
「流行のスタイルもいいし、クラシックなスタイルもきっとお似合いだわ……」
性格が悪かろうが関係なかった。
想像するだけでアルマの胸は高鳴った。
「ふふふ……なんて幸せ……」
夢心地に呟くアルマは、少し変わり者だった。
***
翌日から俄然やる気になったアルマは、イルザの為に奔走し始めた。
慣れない生活に気が休まらないのか、疲れた顔をしているイルザのためにリラックス効果のあるお茶を用意したり、イルザが少しでも寛げるように部屋を整え花を飾った。
飽きずにイルザを見ているので、イルザが視線を上げるだけで反応するアルマは、ある意味侍女の鑑である。
そのうち、アルマはイルザが噂のような傲慢な人物ではないと確信した。
人間離れした美貌で、殆ど笑わず喋らないので高慢にも見えるが、アルマや他の誰にも見下すような態度を取ることはなく、無理難題を言い付けることも一切なかった。
寧ろ本を読みたいというささやかなお願いしかアルマは聞いたことがない。
分不相応な栄華を望み、王家に上手く取り入ったと揶揄されるが、選ぶドレスは地味な物だし、目立つことも華美も好まない。
(私が窓辺に飾った、ありふれた花を見て礼を言う人が、悪女のはずがない)
小さな声でありがとうといってからお茶に口をつけるイルザを見つめながら、アルマは考える。
なぜでたらめな噂が広く伝わってしまったのか分からないが、イルザが気の毒で仕方なかった。