17. 宰相
婚約式が滞りなく終わると、ミランとイルザは両陛下の前でそろって頭を下げた。
許されて顔を上げると、嬉しそうに笑うベルタ王妃と、対照的に無表情なレオナード王が並び立っている。
イルザは婚約式に先立って二人への挨拶を済ませていたが、その時も今も、お世辞にもレオナードに歓迎されているとは思えなかった。
ミランと同じ色だが、ひやりとした瞳に見据えられ、イルザは緊張した。
「イルザ=メルジーネ。王太子の婚約者として相応しくあるように」
低く落ち着いた声でそれだけ告げると、レオナードはイルザの返事も待たずにいってしまった。
戸惑うイルザに、ベルタがいつも通りの笑顔を向けた。
「気にするなイルザ。陛下はいつもお忙しい」
神妙に頷くイルザは、暗にこれが普通だと言われているのだと理解した。
明日またゆっくり話そうと約束して王妃を見送ると、脇に控えていた宰相がイルザ達の元へ歩み寄り、頭を下げた。
イルザも慌てて深く頭を下げる。
何度かその姿は目にしているが、イルザが宰相と言葉をかわすのはこれが初めてだ。
威厳のある佇まいのせいか、イルザには父親であるメルジーネ伯爵よりも年上に見えた。
ふっくらとした伯爵と違って細身の長身で、白髪交じりの髪は一筋の乱れもなくきっちり整えられている。
よく見ると整った顔立ちなのだが、常に眉間に深い皺を刻む宰相の顔をじっくり見る者は殆どいない。
宰相のライノアは、幼い頃から神童と呼ばれ、王国の最高学府においても常に首席で、卒業後すぐに王の補佐官に抜擢された傑物だ。
着任後すぐに頭角を表し、能力の高さは勿論のこと、その高潔さを買われて歴代最年少で宰相に任命されている。
以来、政治の中枢で辣腕を振るい、彼無くして今の平和と繁栄はないとまで言われるこの国の重鎮である。
見た目も相まって、緊張せずにはいられない相手だ。
「恙無く御婚約と相成り、誠におめでとうございます。宰相に任命されております、ライノア=リヒターと申します」
「イルザ=メルジーネと申します。お会い出来て光栄です。……これから、お世話になりますが……、ご指導賜りますようお願いしたします」
声を詰まらせながら答えて顔を上げると、じっとイルザを見つめる青灰色の瞳と目があった。
「……ずっと、お会いしたいと思っておりました。慣れない王宮での生活にご不便などありましたら、何なりとおっしゃって下さい」
「……はい。ありがとうございます……」
思ってもみなかった恭しい態度と優しい言葉にびっくりしながら返答すると、宰相は目を細めて笑みを浮かべた。
ほんの一瞬だったので、イルザは幻かと思った。
「では、私もこれで失礼致します」
すぐに厳めしい顔つきに戻ったライノアは、一礼すると背筋を伸ばして去っていく。
遠ざかるライノアを見送りながら、意外に優しい方なのだと思うイルザの隣で、ミランは驚きのあまり冷や汗を流していた。
ライノアはイルザの第一印象通り、厳格な人物だ。
相手が王だろうが平民だろうがその態度は一切変わらず、他人にも自身にも厳しい。
清廉潔白と有名な宰相は、国中から尊敬を集めると同時に畏怖され、一切笑わない切れ者と他国にさえ知られている。
そんな人物が、イルザに対して仄かに笑顔を浮かべたのだ。
実際に目にしたミランにも信じがたく、長年共に政務をこなしてきたレオナードすら、そんな姿は見たことがないだろう。
***
ライノアが現当主を務めるリヒター公爵家は、代々宰相や大臣を輩出し、幾度も王女が降嫁した家柄である。
王家の血を色濃く受け継ぎ、その面差しはどこか王に似ている。
そして何より、この家は預言者の家系に連なると言われており、王すら御座なりにできない名門なのだ。
リヒター家の当主は代々予言を受け継ぎ、王家の他で唯一、予言の書の存在を知っている。
だが、ライノアは現実主義者だ。
イルザに対しては否定的だろうとミランは予想していた。
悪い噂があるイルザを婚約者に据えることには反対されるだろうし、夢と予言が似通っているのも偶然だと切って捨てられると思っていたのだ。
どうやって婚約を認めてもらおうかと、ミランは頭を悩ませていたのだが、実際には真逆の反応だった。
ライノアはイルザの悪夢を疑うどころか、早く話を聞きたいと言い、婚約がスムーズに纏まったのもライノアの後押しがあったからだ。
聞けば、以前からイルザの噂を耳にしており、厄災との関係を疑っていたのだという。
(……協力は願ってもないことだし、会いたかったというのは、イルザの話を聞きたいという意味だろうが……)
脳裏によぎるのは、ライノアが未婚であるという事実。
(……イルザは、年齢も性別も凌駕する美貌だ……)
ライノアの笑みに驚くあまり、ミランの思考はおかしな方へ向かっていた。
流石に考えすぎだと、ミランは頭を小さく振って思考を止めた。
思い返してみれば、ライノアは小さな子供には、少しだけ優しかった。
教育係だった時のライノアを思い出して、ミランは懐かしさに頬を緩める。
ぎこちない手つきで泣いているミランの頭を撫でたライノアなら、辛い目にあっていたイルザを気に掛けることもあるだろう。
「ーー私たちも行こうか」
ミランが差し出した手に少し躊躇したものの、イルザはそっと手を乗せた。
左手はぶかぶかの指輪を大切そうに握り込んでいる。
それを見て、胸がくすぐったいような、ふわふわと温かな気持ちになったミランは、イルザの手を握りしめる。
婚約者となったばかりの二人は、王宮へ向かう道をゆっくりと歩き始めた。