15. 道
伯爵家の森に入り、屋敷の屋根すらみえなくなった頃、ようやくイルザはふかふかの椅子に背を預けた。
深々と息を吐き出せば、イルザの強張った体から少しだけ力が抜けた。
一人きりになってほっとした反面、胸にじわりと不安が広がる。
伯爵家にイルザの居場所などなかったはずなのに、心細い気がした。
視線を落とすと、手の中の白い封筒が目に入る。
少し厚みのあるその封筒を迷うように見つめたイルザは、ひとつ深呼吸してからそっと開封した。
中に入っていたものを見て、イルザは思わず息を止めた。
封筒から出てきたのは手紙ではなく、刺繍の入ったリボンと、家紋の浮彫が入ったシンプルなカードが一枚だった。
カードには手本のような字で、"貴女の幸せを祈ります"とだけ書かれている。
王国に昔からある風習で、成人する娘に、母親は手ずから刺繍したリボンを贈る。
基本となる図案は家によって様々で、母親は色々な意味のあるシンボルを組み合わせて、幅広のリボンを刺繍で埋め尽くす。
長く美しい髪を飾るリボンは、娘の豊かな生活や健康、幸福を願う御守りだ。
イルザは、まさか自分が貰えるとは思っていなかった。
渡されたリボンは夜空のような青色で、光のあたり具合で紫の光沢が輝き、刺繍糸は銀色だ。
瞳と髪の色のリボンは、間違いなくイルザのためのものだった。
リボンの端は細かい草花で縁取られ、中央には竜が刺繍されている。
イルザは知らなかったが、メルジーネ伯爵家が刺繍に使う図案は竜で、富と繁栄の象徴だ。
周りを囲む花や蔦は、幸運や長寿、健康をそれぞれ意味している。
様々な図案が複雑に絡み合うように刺繍された美しいリボンは、まるで本当に娘の幸せを祈るかのように見えた。
婚約が決まってから今日まで、準備期間はかなり短かった。
夫人も多忙だったはずで、侍女や職人が刺したのかもしれない。
しかしイルザは、夫人が自分の為に刺繍する姿を想像して、リボンをそっとなぞった。
(……針を指しながら、私の幸せを、少しでも願ってくれた……?)
その問いの答えを聞くことは、おそらくないだろう。
膝に置いたカードにぽたりと涙が落ちて、イルザは慌てて紙を拭った。
インクが滲んでいないか確認したくても、視界が歪んで叶わなかった。
イルザがまだほんの小さな子どもだった頃、夫人はよくイルザを抱き締め、頬や額にキスをした。
優しい声でイルザの名を呼び、愛しげに目を細めて笑った顔を、イルザはぼんやりと覚えている。
伯爵はイルザを膝に乗せて、嬉しそうに笑っていた。
得意のピアノを、イルザが乞うままに何度も弾いて聞かせてくれた。
イルザは夫人の膨らんだお腹に手を当てて、小さな妹か弟が生まれるのを心待ちにしていた。
おぼろ気な記憶の中で、イルザはよく笑っていた。
王国が滅亡する夢を見る、あの夜まではーー。
甘やかされて育ったイルザは、わがままで傲慢だった。
人を傷付けるようなこともした。
でも、家族のことが大好きだった。
恐ろしい夢から、父と母と生まれてくる子を守りたい、その一心だった。
妹が産まれてからは尚更、この子を守らなければと思った。
ただ、それだけだったのだ。
五歳のイルザは、廊下を塞ぐ扉を叩いて、ずっと叫んでいた。
『お願い! 出して!! 皆、死んじゃう!! ーー誰か、信じてよ……!!』
イルザの声だけが響く廊下で幾日過ごしたのか、イルザ自身よく覚えていない。
しかしそれは、感情を失うには十分な時間だった。
それからイルザは、笑うことも、泣くこともなく生きてきた。
キルシェの庭で、ミランに悪夢を話したあの日まで、イルザは一度も涙を流さなかった。
家族との仲も、諦めていた。
(でも、もしかしたら……もう少し努力すれば、普通の家族でいられたの……?)
これまで胸に溜まり続けた悲しみが堰を切ったように、後から後から涙が溢れた。
ぼろぼろと流れ続ける涙を止める方法も分からず、イルザは涙から守るようにリボンとカードを抱き締めた。
泣きながら、イルザは祈った。
(……神様……、どうか父と母と妹を、お守りください。これから先も、これまでと変わらぬ幸福な日々をおくれますように……どうか、お願いしますーー)
家族のために祈るのは、これが最後だろうとイルザは思う。
これから先は、ミランのために祈り、ミランのために生きると決めたから。
馬車は森を抜けて、窓から光が射し込んだ。
イルザが顔を上げると、窓の外にはキルシェの木が見えた。
王都へと続く主要な道にはキルシェがよく植えられている。
この道も、ずっと先までキルシェの並木道が続く。
花は終わり、芽吹いたばかりの葉が太陽に照らされて輝いていた。
等間隔に植えられたキルシェの奥には畑が広がり、遠くに教会と小さな村が見える。
牧草地には牛がいて、作業をする人々の姿もある。
のどかな領地の光景を、イルザはじっと見つめた。
一人荷馬車に乗り込んでお茶会に向かった時には、周りを見る余裕など無かった。
外出を許されなかったイルザにとって、それは初めて見る景色だった。
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