14. イルザとエミリア
エミリアがまだ幼い頃、伯爵夫妻はイルザの存在をひた隠しにしていた。
しかし偶然耳にした侍女達の噂話で、エミリアは自分に姉がいることを知った。
まだ見ぬ姉に、幼子が会いたがるのは当然だった。
会ってはいけない理由など分かるはずもなく、エミリアは乳母や侍女達の目を盗み、一人でイルザに会いに行った。
最初にエミリアが訪ねた時、イルザは無表情ながらとても驚いていた。
エミリアもまた、驚いて目を丸くしていた。
姉がいると思われるドアをノックして出てきたのが、今まで目にしたどんな人よりも美しい、輝くような少女だったからだ。
周りに大人がいないことから、エミリアが勝手に来たことを確信したイルザは、ここへ来てはいけないと諭し、すぐにエミリアの手を引いて本邸へ送り返した。
しかし、その後もエミリアは何度も来た。
屋敷には一緒に遊べる少女なんていなかったし、少し年上の美しい少女が姉だと知って嬉しくないはずがない。
この頃のイルザは今以上に無表情だったはずだが、エミリアは優しそうな人だと思った。
なので全く警戒もせず、すぐに懐いた。
イルザは、お母様が心配するから、忙しいからなどと言ってエミリアを説得したが、まったく言うことを聞かず、その内にイルザが折れた。
諦めて部屋に迎え入れるようになると、イルザは伯爵家の誰よりも根気よくエミリアの相手をした。
歩くときはいつも手を繋ぎ、エミリアを膝にのせて本を読み聞かせ、イルザが持っている数少ないおもちゃでよく遊んだ。
やることもなく時間があったのは確かだろうが、乳母や両親よりよほど甲斐甲斐しかった。
エミリアは美しい姉が誇らしく、自分に優しいのが嬉しかった。
殆ど毎日イルザの元へ通って、思い付く限りの遊びに付き合わせた。
まだ幼いエミリアは、普段よりはしゃぎ回るせいか、一時間もすれば遊び疲れて眠くなってくる。
半分眠りながら、戻りたくないとむずかるエミリアを、イルザは毎日宥めすかした。
暖かい手を引き、時におんぶして本邸に繋がる廊下まで連れていった。
幸か不幸か、貴族令嬢がそんなことをしてはいけないと咎めるものはいなかった。
そして、とことこと歩いて戻るエミリアが侍女達に見つかるまで、イルザは離れて見守った。
秘密の交流が半年近く続いたある日、エミリアは本邸の庭で一緒に遊びたいとイルザにせがんだ。
北の庭は触るとかぶれてしまう木や薬草が植えられているため遊べなかったし、本邸できれいに咲いたお気に入りの花をイルザに見せたかったのだ。
はじめは拒否していたイルザだったが、泣き出しそうになったエミリアに根負けして了承した。
いつもとは反対に、エミリアがイルザの手を引いて離れを出ると、人目を避けてこっそりと本邸の庭へ入った。
エミリアは冒険のようで楽しかったし、イルザと一緒にいられるのがうれしかったが、イルザは落ち着かない様子で辺りを気にしていた。
そんなイルザの気を引きたいエミリアは、件の花を見つけて走り出し、結果、盛大に転んだ。
大声で泣きだしたエミリアの元へ駆けつけたイルザは、妹を抱き起こして謝りながら、頬や手のひら、ドレスに付いた土を丁寧に払った。
「ーーエミリア!!」
呼び声に振り返ると、エミリアを探していたのであろう母と侍女が驚いた顔でそこにいた。
すぐに駆け寄ってきた母に、エミリアは喜んで抱き付いた。
すっかり機嫌を直し、笑顔で母を見上げたエミリアだったが、母の表情が今までみたことがないほど険しいことに気付いて硬直した。
怒りに満ちた目は、まっすぐイルザに向けられていた。
「ーーエミリアに、二度と近づかないで!!」
エミリアは思わずびくりと体を震わせた。
行きましょうと手を引かれる時には優しい母の顔に戻っていたが、エミリアは怖くてなにも言えなかった。
自分からイルザに会いに行ったのだと、イルザは助け起こしてくれたのだと言えずに数日が過ぎて、時間が経つほどにますます言えなくなった。
それからエミリアは、イルザを避けるようになった。
イルザが怒られたのは自分のせいだと思ったが、謝りに行くこともできず、あんな目にあわせたエミリアを嫌いになったかも知れないと思ったのだ。
イルザからエミリアに会いに来ることも、当然なかった。
***
そのまま数年経ち、外との関わりが増えたエミリアは、イルザの噂を耳にするようになった。
大半の噂は根も葉もなく、悪意に満ちていた。
エミリアに対しても冷ややかな目が向けられ、時には直接、魔女の妹などと罵られる事もあった。
イルザに対する気持ちをもて余したエミリアは、ますますイルザと距離を置くようになった。
七歳になったエミリアは、初めて王宮のお茶会に参加する事となった。
お茶会のために一年も前からドレスや靴を用意して、髪飾りや髪型まで完璧に決めて、友人達とも毎回その話題で盛り上がった。
その頃、エミリアがイルザの事を思い出すことはほとんど無くなっていた。
すでに十一歳になっているイルザが一度も参加していないことなど気付かず、心から楽しみにしていた。
ところが、お茶会まであと一月となった頃、突然イルザがお茶会に出席したいと言い出した。
エミリアは猛反対した。
よりによって初参加の年に、イルザと一緒はどうしても嫌だったのだ。
父も諦めるように言ったが、この時のイルザは珍しく引かなかった。
今回だけはどうしてもと食い下がった。
しかし、父は一切相手にしなかった。
一人立ち尽くすイルザを見てエミリアの胸は痛んだが、引くに引けずに目を反らした。
いつの間にか姿を消していたイルザは、お茶会を諦めたのだろうと誰もが思った。
お茶会当日、朝から屋敷中がエミリアの身支度に掛かりきりで、イルザのことを気にするものはいなかった。
エミリアはお姫様にでもなった気分だった。
にこにこと自分を見つめる母達に勧められるまま鏡の前に立つと、いつもより少し大人びた自分が写った。
その姿は文句無しの出来映えで、エミリアは喜びで頬を赤くした。
屋敷中に見送られたエミリアは、予定より少し早く王宮に到着した。
もしかしたらと、あちこち見回したがイルザの姿はなく、エミリアはほっと息をついた。
ようやく気持ちを落ち着けて周囲を見渡せば、どこもかしこもキラキラと輝いている。
王宮は、普段は足を踏み入れることのない特別な場所である。
そんな場所を、特別な装いで歩いていると、それだけで気分は高揚した。
そして白亜の宮殿に囲まれた美しい庭園で、エミリアは初めて王太子を目にした。
王太子は彼女が今まで出会った人の中で、二番目に美しい人だった。
迷うまでもなく、エミリアにとっての一番はイルザである。
その美貌に慣れているせいか、練習通りに挨拶できてエミリアは満足だった。
残りの時間は友人達と美味しいお菓子をつまみ、おしゃべりを楽しむはずだった。
定刻を告げる鐘の音が響き、顔を上げたエミリアは、息をのんだ。
目に飛び込んできたのは、背筋を伸ばして立つイルザの姿だった。
顔が赤くなるのを感じながら、汗ばんだ手が真新しいドレスを掴んだ。
エミリアがどうしてもとねだって父に買って貰ったお気に入りだ。
一方で、イルザはいつもと同じ古臭いドレスに身を包んでいた。
化粧もせず、髪も簡単に纏めただけの、あまりにも場違いで不作法な装いだった。
それでも、贅沢に着飾ったその場の誰よりも美しかった。
イルザは静まり返った庭を見回すと、彼女に見とれる全てにまるで興味がなさそうに視線を外し、端のテーブルに座った。
イルザを見た者は言葉を失い、視線は釘付けになっていたが、彼女が噂のイルザ=メルジーネだと気付くとすぐに目を反らした。
"呪われた魔女"とは、関わりたくないのだ。
園庭に集まる子供も大人も、相当の努力でもってイルザを無視しようとしていたが、その存在はあまりにも際立っていた。
王太子が特別に声を掛けるのも当然だと、エミリアは思った。
***
「……何故来たの? 仕返しのつもり? 嫌だと言ったのに! ……何よ、そのドレス……そんなみすぼらしい姿で殿下の気を引くなんて、恥ずかしいわ!」
エミリアは帰りの馬車で、自分でも訳の分からない苛立ちのままイルザを詰っていた。
父も母もイルザのために何一つ用意しなかったのだから、着るものはこれしかなかったと知っていたのに。
イルザの手が、膝で古びたドレスを握りしめたのが見えた。
言い過ぎたと思ったけれど、口から出た言葉は取り消せなかった。
泣きたいのはイルザだろうに、エミリアだけが泣いていた。
イルザは何一つ言い訳することなく、ごめんねと呟いた。
王太子殿下は、誰もが憧れる雲の上の人だ。
そんな人が初めて興味を抱いたのは、一年かけて美しく装ったエミリアでも他の誰でもなく、化粧すらしていないイルザだった。
エミリアにとって、イルザはいつも特別だった。
エミリアがいくら頑張っても、イルザには遠く及ばないのだ。
悔しいし、羨ましいのに、エミリアがなに不自由無く暮らす一方で、父や母に捨て置かれ、古びた部屋に押し込められるように生活している事を思えば何も言えなかった。
イルザの話をするだけで空気が重くなるような状態で、エミリアはずっと、誰にも聞けずにいた。
「ーーどうして……!」
エミリアは顔を覆って泣いた。嗚咽で続く言葉は声にならなかった。
(ーーどうして私達は、普通の家族に、なれないの?)
屋敷に帰ると、父は激怒していた。
イルザが勝手にお茶会に参加したことを一方的に責める父を見て、エミリアはまた口をつぐんだ。
イルザは謹慎を言いつけられたが、間も無く届いた王太子殿下からの手紙で、状況は一変した。
王宮へ招かれたイルザは、呆気なく王太子の婚約者に決まったのだった。
婚約が内定してから、イルザは頻繁に王宮へ呼ばれ、忙しくしていた。
エミリアは話すどころか、顔を合わせる機会もほとんどないまま、イルザが伯爵家を去る日となった。
伯爵家を去るイルザは、神々しいほどに美しかった。
見送りに立つエミリアは、イルザがもう伯爵家に戻らないことを知っていた。
だから最後に、エミリアが庭で転んだ日のことを謝りたかった。
お茶会の後、泣きわめいて傷付けてしまったことも。
イルザともっと遊びたかったことや、本当は大好きだったと伝えたかった。
しかしエミリアの頭の中に溢れる沢山の言葉は、結局一つも口にできなかった。
いまさら何を言っても嘘くさく、全ては遅すぎたのだ。
エミリアは泣かないようにするので精一杯で、そうこうするうちに、イルザは言葉少なく馬車に乗り込んでしまった。
イルザはいつもの無表情で、父と母とエミリアを見ていた。
エミリアはせめて、イルザが見ている間は泣くまいと思った。
イルザを乗せた馬車はすでに遠く、木の葉が風で揺れる音と、母の嗚咽しか聞こえなくなってはじめて、エミリアは声を上げて泣いた。
晴れやかな日には似つかわしくない、悲しみに満ちた泣き声は、静かな伯爵邸にしばらく響きつづけていた。