11. 父と子
イルザは“恋仲”という言葉の辺りから、いつも以上に無表情だった。
そして皆が息を殺して十数えたころ、真っ赤になった。
「………あ、あの………」
何か言わなければと思ったのか、それだけ口にしたが先が続かず、イルザは黙りこんでしまった。
徐々に青ざめるイルザを見て、焦りに突き動かされたミランはイルザの手を取る。
「イルザ。これは私の為でもある。私は婚約者探しにかける時間があるなら、もっと有意義に国の将来を考えたい。君の夢を検証することや、国が抱える問題のことを。君が婚約者になってくれれば、煩わしい婚約者の選定から解放されるんだ。もちろん、私は君を大事にする。妻は一人だけと思っているから浮気もしない。君がどうしても嫌なら成人する時に婚約破棄するという方法もないわけではない。そうならないことを願うけど。やましいことなど無いのに、君にも私にも親密すぎるなどといらぬ心配をしたり、あらぬ噂を立てられるのは煩わしいだろう? 婚約していれば誰も文句は言わない。確かに王室に入れば大変なこともある。だが君のことは私が守るから、私との婚約、受けてはくれないか?」
ミランが一息に捲し立てるのを見ていたクラウスは肩を震わせて笑いをこらえた。
マリーは少し呆れながら、常には沈着冷静な殿下も、やはりまだ十三歳の少年なのだと思った。
イルザはしばらく黙っていた。
表情が無くとも、これまで何となくイルザの考えている事がわかったミランだが、今はさっぱりわからず、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
イルザは少し口を開き、言葉がでないまま俯く。
それを幾度か繰り返した末に、ぽつりと答えた。
「………私で、よければ………お受けいたします」
「……そうか! ありがとう、イルザ……!」
ミランは、イルザの承諾の返事に破顔した。
それはいつも浮かべる微笑とは違い、見ているものまでつられて笑ってしまいそうな笑顔だった。
一方、ミランの明るい声に顔を上げたイルザに浮かんだのは、悲しみか後悔のように見えた。
またすぐ俯いてしまったイルザを見て、ミランの喜びは急激に冷めた。
(ーーイルザは断れなかったんだ。分かっていた事だ)
身体が重く沈むような心地で、ミランは父であるレオナード王との会話を思い起こしていた。
***
イルザが伯爵家へ戻るのを見届けた後、ミランはすぐに侍従を呼び、国王と会って話をしたいと伝えた。
翌日、面会が叶い、ミランは王の執務室に来ていた。
広い窓から日差しが注ぐ執務室には、ミランの他にもクラウスや王の側近、侍従らが数名いるのだが、彼らは一切物音を出さない。
部屋はしんとして、レオナードが羽ペンを走らせる音だけが響いていた。
「ーー最善では無いな」
ミランが入室してから五分、書類が積まれた机で黙々と仕事を続けていたレオナードは、ようやくペンを置いてそう言った。
大きな机を挟んで数メートル離れた場所に向かい合って立つミランは、黙って頭を下げた。
暫く沈黙が続いて、王は深く息を吐いてからミランを見た。
「イルザ=メルジーネか……。確かにお前に釣り合う令嬢の中で飛び抜けて美しいようだが。お前は美醜をさほど気にしないだろう。かの令嬢にまつわる悪評を知った上で、なぜ婚約者に据え必要がある?」
ミランはまだ何も言っていないのだが、既にミランが何を話しに来たのか分かっているようだ。
もっとも、今年のお茶会はミランの婚約者を選ぶ意味合いが強く、その後に個人的に呼び出したイルザが有力な候補であることは明白だった。
「陛下。人払いをお願いします」
レオナードの目配せで、控えていた侍女や侍従が退出した。
王の側近とクラウスは微動だにしないが、ミランは話し始める。
「彼女は、王家に伝わる予言を知っていました」
「……王国の地下に眠る竜か?」
「はい。その前に起こる厄災については、むしろ予言の書より具体的です」
「偶然ではないのか?」
「予言の書に記された災いを、全て言い当てているのです。何故彼女が知っているのかは調査中ですが、夢で見たと本人は言っていました。幸い信じるものはいなかったようですが、彼女は周囲に話してしまいました。それが彼女の悪評となっているのです」
レオナードは黙って椅子に背を預けた。
「厄災が起こると触れ回り、民に不安を与えるのは国にとって害となります。これ以上彼女に語らせないよう、王家で監視すべきです。それに、出鱈目だと切り捨てるのは簡単ですが、彼女の話を詳しく聞き、調査したいのです。現状、彼女を王家に縛り付けるには、王太子の婚約者という肩書を与えるのが一番でしょう」
レオナードは髪と同じ金色の顎髭に触れながら暫く考え込んだ。
「……彼女が予言を言い当てたのが只の偶然で、厄災など起こらなければ、お前はどうする?」
「杞憂であればいいのです。彼女とそのまま結婚するでしょう。会って話してみれば、予言と酷似した悪夢を見る他はおかしな所もなく、賢く真面目な令嬢でした」
「同意は得られるのか?」
「伯爵は喜んで受けるでしょう。彼女も、拒否することは恐らくありませんし、拒否したとしても他に道はありません」
レオナードはミランと同じ碧の瞳で、ミランを見つめた。
「……お前に任せよう。その予言の悪夢とやらを聞き出し、国のために役立てよ」
ミランは短く返事をして、頭を下げた。
***
「……あの、殿下……?」
囁くようなイルザの声に、ミランは慌てて笑顔を作る。
「すまない。考え事をしていた。……少し、庭でも歩かないか」
イルザの手を取りミランが歩き出すと、イルザは戸惑いながらもついてくる。
(ーーイルザが婚約を承諾したのは、王家が厄災を隠蔽しようとしていることに気付いたからだろう)
申し出を断っても、良くて一生監視、悪ければ消される事にも。
どちらにせよ身動きが取れないなら、王太子の婚約者として豊かな生活を送る方がいくらかましだ。
そこに愛情がなくとも、お互いにとってこれが最善だとミランは思う。
しかし胸には澱のようなわだかまりがあった。
ミランの目論見通り、イルザはミランに心を許し、忠誠すら捧げた。
心に傷を負うイルザは、唯一の理解者であるミランから離れられない。
ミランはそれを分かっていて、イルザを利用するのだ。
(……王族や貴族の結婚は、所詮、政略の一つでしかない)
そう何度も繰り返して、ミランは沈む気持ちと後悔に蓋をする。
『国のために役立てよーー』
心の中で繰り返す父の言葉にも、傷付かない振りをした。
***
二人を少し離れて見守っていたマリーとクラウスは、一瞬目を見合わせた。
幼い頃からミランに仕える二人は、それだけで互いに同じことを考えているのが分かった。
(これで、本当に良かったのだろうか)
クラウスはミラン達の後ろ姿を見つめた。
いくら大人びているとはいえ、結婚を決めるには若すぎる二人だ。
一見すると、庭を並んで歩く二人の姿は微笑ましく、問題ないように見える。
しかしクラウスには、二人がどこかよそよそしく、お互いの好意が伝わらずにすれ違っているように見えた。
ミランは“完璧な王子様”と呼ばれている。
感情の起伏がなく、始終穏やかな笑みを浮かべ、人に優しく公平。
人の話に耳を傾けると同時に、自らの考えと信念を持ち、努力家。
人々が望む王太子像そのものだ。
今も緊張が抜けないイルザとそつなく会話し、理想的な笑みを浮かべているミランだが、以前はこうではなかった。
幼いミランはもっと直情的で、感情が豊かだった。
一緒に遊べば声をあげて笑ったし、怒って地団駄を踏んだこともある。
負けず嫌いで、クラウスに打ち負かされる度、泣きながら射るように睨んできた。
それが今や、微笑みで感情をすっかり隠し、怒る事も泣く事もない。
同時に、声を上げて笑うこともなくなってしまった。
それが成長だと言われればそうなのだろうが、クラウス達は、そんなミランに複雑な思いを抱いていた。
昔のミランは傲慢な所もあったが、素直で優しい、愛される子どもだったのだ。
(ーーでも、さっきの顔を見ただろう?)
イルザが婚約を受け入れた時のミランは、心から嬉しそうに笑っていた。
その後、すぐにいつも通りに戻ってしまったが、久しぶりに見る笑顔だった。
ミランは必要以上に大人びて、時に冷徹ですらある。
その立場や環境故に、そうならざるを得なかったから。
しかし何故か、あの恐ろしく美しい少女の前では、少しだけ以前の彼に戻るのだ。
クラウス達は、この婚約が二人をより良い道へ導くようにと、心の中で願った。