10. 求婚
老年の侍医の診察が終わると、マリーがドレスを運び込んだ。
汚れてしまったドレスの代わりに下賜されたと告げてイルザに広げて見せたのは、異国風の刺繍が美しいゆったりとしたドレスだった。
恐縮するイルザを尻目に、マリーは手早くドレスを着付けていく。
締め付けのないそのドレスに着替え終わると、きつく結われた髪をほどいてゆるく結い直し、最後に薄く化粧をした。
出来ましたよ、と言われてイルザは目を開けた。
鏡に映ったイルザは相変わらず無表情だが、先ほどより可愛らしい雰囲気だ。
しばらくぼんやりと鏡を見つめていたイルザは、鏡越しにマリーと目が合って、慌てたように視線を外した。
イルザの耳は赤くなっている。
「……あの、……綺麗にしてくれて、ありがとうございます」
気を取り直したイルザが丁寧に頭を下げると、マリーは少し目を見張り、にっこりと笑った。
支度が終わって一息付いたところで、ミランが部屋を訪れた。
イルザを見て一瞬固まったが、よく似合っていると褒めた。
ミランの世辞に、イルザは無表情のまま赤くなっていく。
赤い顔を俯けながら礼を述べるイルザを嬉しそうな表情で見つめていたミランは、すぐに心配そうな顔になった。
「……体調はどう?」
「はい。もう良くなりました」
「顔色がまだ良くない。今日はもう帰ってゆっくり休んで。また、来てくれる?」
イルザは深々と頭を下げる。
「ーーありがとうございます。殿下がお望みであれば、いつ何時でも参ります」
そのままイルザをエスコートして馬車に乗せ、伯爵家へ向かうのを見届けてから、ミランはマリーに尋ねた。
「どう思った?」
マリーは軽く頭を下げて答える。
「控え目で真面目な印象でした。私にも丁寧で、傲慢な悪女という噂とは全くの別人です。大それた嘘をつくような方にも見えませんでした」
そこで一度言葉を切ったマリーは、遠ざかる馬車を見つめて続けた。
「ーーそれと、恐らくイルザ様は、笑えないのではないでしょうか。……伯爵家での暮らしぶりを考えれば、無理もないですが」
マリーはそう言って不快そうに眉根をよせた。
彼女は若いが優秀な王族の耳だ。
諜報活動をしながらミランに仕え、イルザについて調べあげたのもマリーだ。
彼女が主への報告で私情を挟むことはこれまで一度もなかったが、珍しく怒りを滲ませている。
裏を返せばそれだけイルザへの印象が良かったのだろう。
「クラウスは?」
半歩後ろに立つ近衛騎士にも問う。
身に付けている黒い制服はエリートの証で、王太子の騎士である。
クラウスは、後ろで纏めた金茶色の髪を揺らして首をかしげた。
「……俄には信じがたい話ですね。嘘を言っているようには見えませんでしたが。……正直、話の内容と十一歳とは思えない話ぶりにまだ戸惑ってます。表情がないので余計に子供らしくないのでしょう。全てを諦めたような目も……」
クラウスは困惑しながらも心配そうに馬車を見た。
涙を流したイルザを思い出して、ミランは遠ざかる馬車を追いかけて引き留めたくなったが、軽く頭を振って誤魔化した。
(ーー引き留めて何になる? 今は何もできないじゃないか)
わかっていたが、もどかしかった。
こんな風に感情が乱れるのは幼い頃以来で、ミランは思わず眉をひそめる。
(……きっと、報告書のせいだ)
イルザを王宮に呼ぶにあたって行われた調査報告は、先日マリーから受け取っていた。
マリーの報告書は、思わず顔をしかめてしまう内容だった。
(だから、これは同情なのだろう)
ミランは馬車が完全に見えなくなるまで見送ると、踵を返した。
すぐにやらなければならないことがあった。
***
それから二週間後、ミランは改めて王宮にイルザを招いた。
現れたイルザは、色とりどりの花の刺繍が可憐な水色のドレスで着飾っていた。
妖精のように美しいなんて陳腐な言葉が浮かんだのを、ミランは咳払いで誤魔化した。
「無理はしていない?」
「はい。体調は問題ありません。殿下のご厚情に感謝いたします。……あの、先日は殿下の御前で気を失ってしまい、申し訳ありません。ご無礼をお許しください」
「気にしなくていいよ。体調が良いなら、少し話をしたい。いいだろうか?」
イルザが頷くと、ミランは壁際に直立していたマリーとクラウスに目配せした。
「まずは紹介をしよう。マリーは分かるね。何かあれば遠慮なく彼女に言ってくれ。隣の男はクラウス。私の騎士だ。クラウスは殆どいつも私のそばにいる」
クラウスは流れるような動作でイルザの前にひざまずいた。
「お初に御目にかかります。殿下の近衛騎士、クラウス=ケツェラーと申します。妖精と見紛う程可愛らしい方にお会いできたこと、大変光栄に存じます」
クラウスは少々大袈裟に礼を取り、ミランが飲み込んだ言葉を恥ずかしげもなく言いきった。
にっこり笑う美男子は二十二歳。
長い金茶色の髪に水色の瞳は優しげで、華やかな顔立ちだ。
明るく社交的な性格で、王太子の騎士を勤める有望株、加えて容姿も優れているとなれば言い寄られることも多い。
女性限定で親切なクラウスの、大袈裟な賛辞と気取った仕草にうんざりしながらイルザを見ると、目を見開いてクラウスを見つめていた。
これまでの様子をみるに、困惑しているものとばかり思っていたイルザの意外な反応に、ミランの胸がざわついた。
さりげなく手を取って口付けようとする男を制止する声は、いつもより低かった。
「クラウス」
ミランの声に、はっと我にかえったイルザの頬に朱がさし、目を伏せた。
その様子は、クラウスに見惚れていたことを恥じているようにも見える。
「……申し訳ありません、不躾でした。クラウス卿、お話しできて光栄です。イルザ=メルジーネと申します」
少しぎこちないイルザにクラウスは笑みを浮かべた。
「こちらこそ。イルザ様とお話しできたので、今日一日幸せに過ごせるでしょうから」
ウインクしてみせたクラウスに対し、イルザは戸惑うようにちょっと首を傾げたが、表情はほとんど変わらなかった。
侯爵家の嫡男が、イルザは笑わないと言っていたのはこの事かとミランは思う。
しかしクラウスはそんなことには一切構わないようで、にこにこと笑い掛けている。
「……もういいだろう、クラウス。壁際まで下がれ。マリーはお茶の用意を」
イルザを長椅子に座らせると、ミランはその隣に座り、マリーが入れた紅茶に口をつける。
しばらく静かにお茶を飲み、カップを置いた。
「……イルザに、約束して欲しい事がある」
イルザは姿勢を正し、真剣な顔でミランを見つめた。
「ーー先日話してくれた夢の話を、もう他の誰にもしないで欲しいんだ。恐怖は混乱を引き起こし、決して良い結果をもたらさない。私が責任をもって調べ、災いに備えると約束するから、イルザは口外しないと約束してくれないか?」
イルザは少しだけためらってから頷いた。
「はい、お約束いたします」
「ありがとう。ここにいる二人は既に知っているから、彼等に聞かれるのは構わないよ。先日、庭にいたのはこの二人だ。あとは陛下と宰相にも報告している」
イルザは、二人があの話を知っていることに驚いたようだ。
思わず彼らを見つめたイルザは、笑顔を返されて更に動揺していた。
「ーーあれから調べてみたが、ここ数年、地震が増えているようだ。災害への備えは必要なことなんだ。イルザが夢で見た災害も考慮して対応するつもりで宰相と相談している」
イルザはミランを見て、それから頭を下げた。
「どうかした?」
ミランが問えば、イルザは更に深く頭を下げる。
「……どうかお許しください。私は、殿下を疑いました」
「許す。……無理もない」
きっとイルザの口を封じるための空約束だと思ったのだろう。
彼女が誰にも信じて貰えなかった年月はあまりにも長かった。
イルザは少し考えて、顔をあげた。
少し眉根が寄っているのは、緊張からだろう。
「あの……私に、できることはありますか? 少しでも、お役に立ちたいのです……微力ですが……」
イルザはそう言って俯いてしまった。
自分に自信がないのだろう。
だが、ミランにとっては願ってもない提案だった。
「ーーありがとう。……先ずは貴女の夢の話を詳しく聞きたいと思って」
イルザは顔を上げた。
嬉しそうだとミランは思った。
ミランはこれから言うべきことを分かっていたが、言い淀んだ。
喉まで出かかった言葉が、うまく口から出てこない。
「……だが私への手紙は検閲が入るから、直接会って話す必要がある。私が頻繁に伯爵家へ出向けば、警備の負担など差し障りがあるから、君に王宮へ来てもらわなければならない」
いつもより部屋が暑く、喉が渇くような気がした。
珍しく緊張しているミランは、一度紅茶を飲み干してからイルザの方へ身体を向けた。
まっすぐに見つめてくるイルザに若干動揺しながら口を開く。
「……だが、そうなれば噂が立つ。……私たちの関係を、勘ぐる噂だ」
イルザは首をかしげた。
それを見たミランは、無意識に一瞬息を詰めた。
「……私たちが、恋仲だということだ」
その言葉に、イルザが固まった。
正確に言えば、既に噂は立っている。
ミランがイルザを一目で気に入り、関係を深めているという噂が。
ミランは冷静にと自分に言い聞かせながら言葉を続ける。
「他の者に知られるわけにいかないが、私と君が頻繁に会えば、君に不名誉な噂がたつかもしれない。それでは君に申し訳ないと思う。……私なりに色々と考えてみたが、ならば二人で会うのが当然であれば良いと思った。……つまりこれは提案なんだけどーー」
ミランは一呼吸おいて、イルザをまっすぐ見つめた。
「幸い私たちはどちらも婚約していないから。イルザには、私の婚約者になってほしいんだ」